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その日は学校に必要な物だけ買い、悠子は自宅に戻った。
そこは、とても女性の一人暮らしとは思えないくらい何もない質素な部屋だった。
あるのは生活する上で最低限の家具だけ。
その他には何ひとつない。可愛らしいぬいぐるみもなければ、外から部屋の中を隠す為のカーテンもない。
人が住んでるのかも怪しいような部屋。それが彼女の住居だった。
そんな生活感の欠片もない部屋の中で、悠子は電気も付けずに窓の外を眺めていた。
深夜特有の静寂に包まれ、嵐のように激しい春一番に木の葉がざわめく。そして、その真上。夜空に浮かぶ大きなお月さま。今宵は満月だ。その大きな月の光だけが、儚くも悠子の寝床を微かに照らす光となる。
「学校……ね」
悠子は、誰に言うでもなく呟いた。
基本的に現実主義者で、打算的な彼女は、常に損得勘定のみが行動の根源である。
メリットとデメリットを天秤にかけ、推し量り、考える。
その為、今まで悠子は学校に行くことはなかった。
理由は単純に。学校で学べる程度の知識は既に修め、学歴の有無が些細な問題になる程の地位も獲得しているからだ。何も得るものがないのに行くだけ時間の無駄だろう。
悠子はそう考えていた。
しかし、派剣協会の内部では、学歴の有無を問題視する声は多く見られている。それもそうだろう。
彼女は派剣協会を象徴する存在だ。そんな彼女が学歴がないというのは、大きな問題だ。
そもそも学歴というのは、いわば学んできたことの証明である。
いくら本人が頭の良いことを自称しても、結局それを証明するには結果を見せ付ける必要がある。
だけど、いちいち万人に彼女の知性を証明するのは相当な時間を要する。だから学歴というものがあるのだ。
学歴があれば少なくとも大衆に知性を証明することができる。
協会は総意として、学歴は利用するべきだと考えていた。だから協会は何度も悠子に学歴を得るように求め続けた。
ただ、悠子は依然として首を縦に振ることはなかった。
それは当然である。
関係のない人間を巻き込んでまで自分の立場に固執することはないからだ。
そして、それは同時に悠子を貶めようと暗躍する者たちに、彼女を非難する為の大義名分も与えていた。
そのことは鬱陶しかったものの、どれだけ学歴のことで非難されたところで、それが悠子の足下を崩す決定打にはできないことを、悠子自身が自覚していた。
むしろ、悠子の学歴の有無を追求すればするほど、立場が危うくなるのは非難してる方である。
つまり、老人口調の少女が言った『彼らを黙らせる』というメリットは、そもそもメリットにすらなっていない。
悠子が学校に通うというデメリットだらけのことを決めたのは、余程その存在が大きかったからなのだろう。
悠子は頭の中に、その存在を思う。かつて出会った生きた屍のような少女のことを。
「エル・クレシア……、ふふ」
思わず悠子の口許に笑みが零れた。
(今の私なら、きっと)
彼女の首筋に刃を突き立てる自分の姿を想像し、ぞくりと震え上がる。
自分の刃が届く範囲に彼女がいる。それが何よりも、嬉しいことなのだ。
別に彼女に勝ちたいわけではない。
ただ、あの瞬間に彼女が見ていたものを。その景色を共有したかった。
暗闇に一人、虚空を眺め続ける彼女の隣に立つには、このままではいけない。
憧憬のままでは、いけない。対等に在ることを目指す。
それが……。それこそが全てのーー神代悠子の始まりだった。
(見てくれる……)
月明かりに反射して、刀身が煌めく刀の切っ先に、指を這わせる。ちくりと指先の痛覚が刺激され、たらりと血液が指を伝い、零れ落ちた。
ぽたぽたと滴る血液を、視線を落とした悠子は何も言わずに眺める。
(違う)
血だまりの水面に浮かぶ悠子の表情は、歪に緩んでいる。
(一緒に見ることができる)
そして、再び視線を上げ、悠子は頭上に浮かぶ満月をその瞳の中に映す。
(ああ、あの子もこのキレイなお月様を見ているかしら)
仰々しい月を仰ぎ、その少女のことを一晩中思い巡らせたーー。