こころスピンオフ ~エピローグ~
【ご注意】
一応『こころ』を読んだことがなくても雰囲気で読めるとは思いますが,原作のあらすじだけでも一読をお勧めします。あと,けっこう捏造してるので,純文学を汚すな!みたいな人は読まないでください。
【登場人物・設定】
本作での語り手「私」は,原作で「静」「お嬢さん」「妻」などの描写がなされている,「先生」の妻にあたる人物です。また,何度も登場する「あの方」はもちろん,「先生」です。原作(の1章と2章)の語り手である「私」は,本作には登場しません。
設定としては,「先生」が殉死したあとの「妻」のひとりごと…といった感じです。中身は読んでからのお楽しみで。
あの方が逝った。いつか母様が還らぬ人となった日,優しく抱きしめてくれたあの方が。もうこの世で頼れるのは貴方だけですと,そういって涙を零した私に,おまえは不幸な女だと仰ったあの方が。
あの方が,逝ってしまった。
私はあの方の言う通り,不幸な女なのかもしれない。あの日私が理由を尋ねても,あの方は静かに笑っただけで答えを教えてはくださらなかった。あの方は,いずれ自分が殉死するであろうことを,既に知っていたのだろうか。そうして,ひとり残される私のことを,不幸だと称したのだろうか。知っていたとするなら,それはあまりにも残酷すぎる。
けっきょく私の想いなど,あの方には何ひとつとして届いてはいなかったのだ。長いこと,良い妻であろうと色々なことに耐えてきたけれど,今となっては,その効果たる効果があったのかどうかさえ怪しかった。
真面目で勤勉でありながら,どこか子供っぽく,頑固で不器用なあの方。愛を伝えるということが苦手だっただけで,私を全く愛してくださらなかったわけではないと思う。或いは,あの方の心中に渦巻く暗い思案が,真っ直ぐな感情をさらけ出すことを邪魔していたのかもしれない。しかしどちらにせよ,私はそんなあの方に,一種の物足りなさのようなものを感じていた。
それでもあの方のことだから,きっと何か深い事情がおありなのだろうと思って,私はただただ従順に生きてきた。それをこうして裏切られるような形で切られるのは,どうしても心が痛む。
こんなことになるのなら,例い冗談でも,殉死でもしたらよかろうなどと揶揄うのではなかったと後悔した。まさかあの談笑を本気にしたわけではないだろうが,もしあそこで私があの方を引き留めていれば。冗談のわからない女として鬱陶しいほどに嘆いていれば,少しは違う結果が見えていただろうか。
それとも,その程度のことでは信念を曲げはしないだろうか。考えてから,あぁ,多分後者なのだろうなと漠然と考えた。偏屈なあの方の,滅多に見せない笑顔が浮かぶ。
そうだ,あの方はそういう方だったのだ。殉死という死に方もなかなか似合っているではないか。だからこれでよかったのだ,と自分を無理に納得させた。これでよかったのだ。きっと,かならず。
ごめんなさい,貴方。私は貴方の妻としては失格だったのかもしれません。
自分では,それなりにあの方を幸せにしているつもりだった。けれどもこうして先立たれた今,その根拠のない空虚な自信は,両手で掬った砂のように流れ落ちていく。
これが貴方の望んだ結末なら,私はそれを受け容れます。私が悲嘆の淵に沈むことを,貴方は望んではいらっしゃらないだろうから。でも今日だけは,目一杯悲しませてください。私にとって貴方は,貴方にとってはそうではなかったかもしれないけれど,とても大切な存在だったのです。失っては正気を保って生きていけないほど,愛していたのです。
あの方の死に際を見ることは,遂に叶わなかった。それはおそらく,あの方なりの私への配慮のつもりなのだろう。そのおかげで私が余計に憂いていることに,あの方はきっと気付いていない。
思い返せば,あの方はいつもそうだった。自分の醜いところを絶対に隠し抜いて,自分ひとりで抱えてゆこうとする。あの方の妻として,あの方を愛していたひとりの女として,私はあの方に少しは頼って欲しかった。打ち明けて欲しかった。だけれどそれらは,こうして願望という形のままに霧散していく。
人など誰しも汚いところを持っている。それを一緒に背負っていく覚悟こそが,愛なのではないのか。
今更喚いたところでとうに手遅れなことはわかっている。それでも私は伝えたいのだ。あの方に。そして,誰かに。
そんなものは所詮一個人の見解に過ぎないと,あの方なら笑うだろうか。そうに違いない。あの方に言わせれば,今頃地獄の底からこんな私を眺めて,何も心配することはないと微笑んでいるのだろう。思い残すことのない,晴れやかな表情で。
あの方の価値観は私には到底理解できそうにもないけれど,あの方がそれでいいのだと,それが幸せなのだと信じているならば,そんなあの方を信じてあげるということが,私にできる唯一の行為なのかもしれない。少なくとも,そうであってほしいと思う。
こうして私は,またひとりになった。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
本当はもう少し長めの,回想編とかも入れた作品にしたかったんですが,なんかそれっぽい終わり方になってしまったので,とりあえず一話完結とします。気が向いたら手直しして長編にするかも?
追記:自分のブログに転載しました。