死脈
「ある海辺の村に師匠が医聖と仰ぐ先生と泊まったときのことだけどね。こんなへんぴなとこに医者が来たからと、村に住む一人の男がやってきたんだ。『長年、肩こりと首の痛みに悩まされている。なんとかしてもらえないだろうか』てね。先生と師匠はその男の首をみて驚いたんだ。みたことのないできものが男の首にあるからさ。男は自分には生まれつきそういうできものがあるんだ、て言ったんだけど、それがどう見ても『エラ』にしか見えないんだよね。わかる? 魚のあの鰓そっくりなんだよ。それでさ、先生がどうしたかというと。この男が長年悩まされている苦痛の原因は、そのできもの、『エラ』が関係してるにちがいない、て思ったんだよね。師匠は通常通り、※小腸経か胃経に鍼をうてばいいんじゃないか、て考えたらしいんだけど。師匠がためしにその男に鍼をうったらやっぱり効果なかったんだよね。それで、先生が次に鍼をうったんだけど」
娘々は息を吐き、椀の中の水を一気飲みすると再びしゃべり続けた。
「眉の上のちょうど山になったところにさ、『魚腰』て経穴があるんだ。先生は、これは魚に関係する病だから、魚という名前がついた経穴を使えばないんじゃないか、て思ったんだって。あたしだったら、鰓が関係するんだから肺経の経穴を使えばいいんじゃないか、て考えるけど。天才は違うよね。それで、先生がその魚腰に鍼をうったらね。……スパーン、てたちまち長年の痛みがとれたんだって。やっぱり、先人がその経穴に魚、という名称を使ったからには何かしら意味があったんだな、て師匠も言ってて」
「名人が鍼うちゃ、それだけで患者は治った気がするもんだろうが」
聞いていた虎龍が口をはさんだ。
「興味深い話だけどなあ、嬢ちゃん。そもそも、その男の首についてたできものってのはただ単にできもので、鰓なわけはないだろうが」
「そうとも言い切れないよ、虎龍さん。魚も鳥も豚も人間も、母親の胞宮にいるときのほんとの初めの姿ってのはみんな似た姿してるって師匠が言ってた。大きくなってそれぞれ姿形はかわるけど、きっともとは一緒なんだよ。親戚みたいなものかも。魚や獣と近い姿が生まれる人間がいたっておかしくない。尻尾のある人とか、たまに見世物小屋でいるじゃない」
「まあ、そりゃあ世にはびっくりするようなナリで生まれる人間てのはいるがね。俺が言いたいのはやぶ医者が同じところに鍼うったって、効果がないってことだ。名人になりゃ、どこに鍼うったって効くのさ。……以前、読んだ医学古書に書いてあったぜ。『なんかよくしらんけど、〇〇の症状にはこのツボが効く』て一文がな。読んだときは笑ったぜ。大昔の古書にさえ、そんなことが書いてあるんだからな。効果さえ出りゃ理由はどうでもいいのさ。どうだって後付けできる」
「ん、もう! 虎龍さん、ちょっと黙って聞いてて! それはまた次の機会にね。……話は続きのこれからなんだから……それでね、良くなった男が村中に喜んで触れ回ったものだから村中の者が自分の身体を診てほしくて押し寄せてきたんだよね。先生と師匠はみんなをさばきながら、あることに気が付いたんだ。気が付いたんだけど、お互い目配せして村が大騒ぎしないように黙ってた。最後の一人を診終えたときには夜になってたんだけど、先生が師匠に言った。『今すぐ、この村を出よう』てね。師匠も頷いてすぐ身支度して先生と村をひっそりと出た。……なぜなら、診た村人の脈が大人も子供も一人残らず『死脈』だったから。『死脈』ってもうすぐ死ぬ患者に出る特別な脈なんだ。これは表立っては現われてはいないけど疫病がこの村に流行っているにちがいない。近々、村人は全滅するだろう。感染する前に他所へ移ろう、てことだね。で、先生と師匠が隣村についた夜明けのことだよ」
娘々は間を置いた。
「さっきまでいた村に津波がおしよせたんだ。村人は全滅」
「……天災まで脈で予知できるんだ! すごいなあ」
羅合が嘆息した。
夕餉を終えて火を囲んでいる男たちは輪の中心にいる娘々の顔を見つめる。
食後の美少女との語らいは、これまでの旅ではなかった大層な娯楽であった。
「師匠はそんなすごい先生について修行していたことがあったわけ。だから、医の知識はたいしたものだった。西方から来た人だったから、薬の知識はたいしたもので……」
「※毒薬は西方より来たり。九鍼は南方より来たり。へん石は東方より来たり。灸は北方より来たり、か」
「そう。北方の民、霜族の灸法は真似できないほど心地いいものだったそうだけど。霜族が滅んじゃった今、それを継ぐ者はいないだろうしね」
虎龍の言葉を受け、娘々はちらり、と離れたところにいる斬首を気にしながら言った。斬首は聞いていない様子で、目を閉じて木にもたれ寝ていた。
「とりあえず師匠はなにがなんでも吸収したい人だったから。日々、勉強してたよ。本当に勉強が好きな人だったんだね」
「娘々も脈診をならったの? 良かったら、脈を診てよ」
隣に座っていた羅合が興味津々といった体で、娘々を覗き込んだ。
「仕方ないなあ。あたしのは師匠からかじった程度だから、冗談半分で聞いてよ」
まんざらでもない様子で娘々は羅合の手首をとり、両手の示指、中指、薬指を羅合の両手首にそれぞれ縦一列に並べる。
「鹿石のような爺さん老医に脈をとってもらうより、娘々みたいな若くてきれいな娘に手を握られるんならそれだけで少々の病も治った気になっちまうんじゃないか?」
娘々を挟んで羅合の隣にいた大蓮がははは、と笑った。
「……」
皆が取り囲んでいる火の中で木がぱちぱち、とした音を立てる。
黙ったまま、羅合の手首の脈をとり続ける娘々に一同は注目した。
「娘々? どう? まさか死脈が出てるなんていわないよね?」
羅合が冗談めかして問う。
「うん。……あ……ちょっと、次は大蓮さん」
娘々は言葉を濁して隣の大蓮の手首をとった。
「おお、お手柔らかにお願いしまする」
大蓮は先程の言葉通り、うれしそうな顔で娘々の柔らかなぽちゃぽちゃした指の感触を楽しんでいるようだった。
数秒後、娘々は丸い大きな目で大蓮を見上げて叱るような口調で告げた。
「滑脈。大蓮さん、身体に湿熱がたまってる。肝も悪いよ。お酒、美味しいもの、食べ過ぎ。……羅合も若いのに大蓮さんに近い。あんまりお酒に付きあわせないであげて」
「ははは。そりゃ、脈をとらなくてもわしの見てくれをみりゃ、分かるだろう」
大蓮が笑い、皆も一様に笑い声をあげた。
「わかった、わかった。羅合のやつに呑ませるのは控えめにするよ」
「うん、そうして」
黙って目の前の火をみつめていただけの立人が静かに欠伸をした。
「もう遅い。立人、早く寝な」
気付いた虎龍が立人に声をかける。
立人は返事も頷きもせずに立ち上がると荷台から毛布をとり、斬首のいる木の下へと歩いて行った。
「さて、わしらも早めに寝るとするか」
大蓮の言葉に残りの一同もゆっくりと立ち上がる。
「虎龍さん」
去ろうとする虎龍の姿に、娘々はそ、と呼びかけた。
「……なんだ、嬢ちゃん。俺は脈診は結構だぜ」
「違うの。ちょっと話があって」
娘々の様子に即座に虎龍は声をひそめ、娘々に近づいた。
「二人におかしな脈でも出てたのか」
「二人、じゃない」
娘々は背の高い虎龍を見上げた。
「大蓮さんの故郷、紫明市まであとどれくらい?」
「天気がよけりゃ、ひと月半、てとこか」
「その間、二人を特に守って」
娘々と虎龍の視線が交差した。
ややあってから、先に虎龍が口をひらいた。
「それはいつもやってることだ、嬢ちゃん。俺に支払いをするのは大蓮さん、羅合の奴はその従者なんだからな」
娘々を見下ろし、いつものように唇を歪ませる。
「下手な心配せずに寝な。……いや、嬢ちゃんはやぶ医者以前だろ。心配する理由もないか」
「……うん」
威勢のいい怒鳴り声が返ってくると予想していた虎龍は、力なく返事する娘々の様子に目を見張った。
「じゃあな。おやすみ」
虎龍はぽん、と娘々の頭に手を置くと荷台の方へと歩いて行った。
娘々はその広い背中を見送った。
死脈。
脈診をならう上で、必ず聞く中国の昔話のエピソード(村人の死を予知)を使わせていただきました。
※東洋医学では身体には経絡という気の流れが存在します。
首や肩に走っている経絡は何本かありますが、肩こりや首の痛みには小腸経や胃経のツボを使うことが多いです。(痛みの場所によりますが)
※「へん石(外科手術)は東方より来たり、毒薬(薬草療法)は
西方より来たり、灸は北方より来たり、九鍼(鍼治療)は南方より
来たり、導引按摩は中央より出ずるなり」
つまり
「海岸地帯である東方は、いうまでもなく魚介類を中心とした
食生活であり、塩分過多になりやすいため“腫れ物”を患い易く、
それを治療するためにこの地方では外科手術が発達しました。
山岳地帯である西方は、この地域で育った動植物が食事の中心になり、
人々は鉱物毒を体内に取り入れ易いため、内臓の病気になる人が多く、
その毒を下すために薬草を用いた漢方治療の原型が発達しました。
この地域は元来、豊富な薬草が見られる地域でありました。
北方は寒冷地帯であり、野菜が育ちにくいため、いやおうなしに
動物性の食事(乳、肉等)になります。
すると内臓が冷え、お腹の張る病気になりやすいのです。
それを治療するために灸治療が発達しました。
寒い地方であり、熱刺激を好んだのです。
南方は高温多湿で、土地も肥沃であるため、穀物も良く実り、
動物の内臓もよく食します。
このような食事を続けると血行障害による病気が多くなるため、
経絡を刺激する鍼治療が発達しました。
ちなみに中央の都市部では交易が盛んで、どこからでも食糧が入り、
都市部ということもあり、食べすぎ、運動不足が多くなります。
それらの問題に対処するためマッサージが発達しました。
という意味です。
各地方では、その風土に合わせた偏食を強いられますから、
土地の人々の病気にも、その食生活の傾向に由来した疾病が
多く現れてきます。