1.旅立ちと失敗
「おっりゃあああぁぁぁ――ッ!!」
薄暗い森に、猛る声が響いた。空には雲一つなく、銀砂のような星が散っている。少年の長槍は唸りを上げながら薙がれ、怪物のどす黒い血をぶち撒けさせた。少年は巧みに回転すると、また襲いかかってきた怪物の首を刎ね飛ばす。
いつの間にか彼の周りには、醜い怪物の山が出来上がっていた。彼は魔物に突き刺さした長槍を引き抜くと、付いた鮮血を振り払う。
「これで大体は狩れたかな……魔物を魔法無しで殺るのはやっぱりしんどいわ」
少年スカイは身に纏う黒ローブの着崩れを直すと、局から特別に支給された、幻想的な燐光を放つ長槍を、勢いよく地面に突き立てた。
バリバリ青春真っ盛りの十六歳は、目的地への“近道をしたかった”ためにこの魔物だらけの森を通っている。この危険な森は少年の目的地のちょうど目の前に陣取っているのだ。安全に徒歩で行くなら、森の中両脇にそびえる険しい山をを越えなければならないのだが、それだと到着に半日は掛ってしまう。
彼はその空色の瞳で闇を見据え、また走り始めた。へいほ、へいほ、とジョギングのように暗闇を走る姿は何だか滑稽である。
(月さえ出てれば瞬間移動でも何でもして帰れるのに。何でこの俺がこんな道を?)
「ギャッ、ギャッ、ギャッ!」
スカイの前に、魔物は威勢よく現れるが…
「ギャァーッ!」
その五秒後には、その姿は肉塊と化す。
スカイは武器に長けていた訳では無かったが、魔物は簡単に真っ二つになった。聖石、エクスダリアによって作られた長槍は魔を斬り裂き、天道を開くという。その言い伝えの通り、聖石を加工して制作した武器は、どんな力も跳ね返すという特性があった。だが、当然欠点もある。スカイは立ち止った。
「……おっと、時間切れか」
長槍の青い光が失われた。月の光が無い中では、一定時間で宿った魔力が消えてしまうのだ。
奥の木が揺れた。唯の棒と化した長槍を構える。神経を、深く研ぎ澄ませる。
――出てきたのは、やはり魔物だった。
蛇のような姿をした魔物は、見上げるほどの大きさだった。人の上半身に蛇の体をくっつけた様な姿で、体の横からは何本もの触手が生えており、気持ち悪くうねりを繰り返している。
「人間か……」
この魔物は人の言葉を喋れるようだった。
「小僧、お前今すぐ喰われろ。私は腹が減っている」
鋭い目でスカイを睨みつける魔物を、彼は困り顔で見つめ返す。
「ごめん、今時間無いんだ」
出来るだけ丁寧に言うよう心がけた。だが、魔物に耳を貸す様子は無い。
「時間……? 小僧。私が誰か、知らないわけではないだろう?」
うねっていた触手が動きを止めた。魔物の魔力が高まっている。
実はこの魔物、通称ゴーゴンと呼ばれる蛇の魔物であり、この森での親分的な立ち位置にあるモノであった。近隣の村で惨殺を繰り返すゴーゴンは、最下級、下級魔術師の連合を魔法一つで壊滅させ、中級魔術師が束になってきても、上級魔術師が大勢で挑んで来ても返り討ちにしてきた、恐ろしい魔物だったのだ。魔術局は近々、この魔物の討伐命令を出そうとしているところだった。
しかし、スカイは恐怖心など抱いていなかった。
「ああ、知ってるぞ。ゴーゴンとかいう最弱生命体だろ? 魔力がゴキブリ以下の貧弱な野郎って聞いたことあるけど」
見え透いた挑発である。能のある人間なら聞き流す台詞であろうが……魔物はあっさりと引っ掛かった。
蒼白だった顔面が、みるみると煮え滾る赤に染まっていく。
「この小僧、抜かしおってッ……!」
一瞬動きを止めた触手は、矢のごとくスカイへ。
この時点で、並の魔術師なら命を絶たれていたであろう。ゴーゴンの触手は、普通の人間には速すぎて見えない。触手は形状変化が可能であり、空気抵抗を失くす最適な形を取っていたからだ。
しかし、スカイは棒立ちのままそれを見据えた。
ゴーゴンが勝ち誇った笑みを浮かべる。
やはり人間は脆い……そんなことでも考えていたのかもしれない。
だが、触手はスカイを貫く事は出来なかった。
スカイを取り巻く形で、光の結界が展開されていたからである。
――フレムロスターレエクスィフィード
困惑する魔物を、一気に火柱が覆った。
スカイの無言詠唱によって、火の神による魔法が発動したのだ。
火は悶える魔物を喰らっていく。
「アアアアアアアアッ! クソォォッ、貴様ドルイドかァァァァァァァッッ!!」
魔物の断末魔が森に響き渡った。神の力による浄化作用は、魔物にとって耐えがたい苦痛をもたらす。周囲に群がっていたらしい魔物も、火を見るや否や大慌てで四方に散っていく。
火が消えた。魔物の命が絶えたらしい。
スカイの足が、魔物を踏み躙った。
「下衆が。完全無欠のドルイドに挑むなんて百年早いんだよ」
スカイは念のため魔物を土に埋めると、立ち上がった。
魔物退治は上級の奴らだけで充分だろ、と悪態をつきながら歩きだす。
(俺の仕事は魔物退治じゃなく――もっと重要なことなんだからな)
一人で笑い始めるスカイの様子は、母親が子供に見ちゃだめよ、と目を隠すレベルである。
と、そこへ一匹のテントウ虫が、スカイの鼻先に止まった。
気付いたスカイの顔面が一気に蒼くなる。
「わわわわっ!」
スカイは異物を払わんと、じたばたと暴れ始めた。
「やめろ、やめろぉ! 虫来んなっ! どっかいけっ! どっかいけって!」
手で打ち払おうとするが、テントウ虫はスカイの周囲を巧みに飛び、離れる様子が無い。
「嫌だ、嫌だぁっ! 虫嫌だってぇっ!」
スカイは虫を前にすると、キャラがいきなりヘタレに傾く。
スカイは“完全無欠のドルイド”であると同時に、極度の虫嫌いでもあったのだ。
「気持ち悪いってぇ! どっかいけよぉ!」
そして、その状態が長く続くと……
「……殺すぞ」
何やってんだ俺、と自分の状態に気付き、急に冷静になってしまう。
嫌なら殺せばいいじゃん、と思ってしまうのだ。
テントウ虫にはその強烈な殺気が伝わったようで、いそいそとその場から離れ始めた。スカイがかろうじて理性を保てたおかげで、テントウ虫はなんとか逃げ切る事が出来たようだった。
そういえば今の季節にテントウ虫なんているっけ、とスカイは首を捻ったが、あまり深く考えないことにした。
スカイが走っていくと、やっと森の終わりが見えた。人口灯が、湿った闇をぼんやりと照らしている。
そのまま森を抜けると、同時に肌をピリピリと刺すような感覚が走った。結界を越えたのだろう。ここから先は、上級以上の位の魔術師でないと入ることの出来ない場所である。その中心にある石造りの建造物が、スカイの目的地、「魔術及び呪術法務統制特務特別局」だ。だが、結構長くて覚えられないので、多くの人は「魔術局」と呼んでいる。
スカイは門番をしていた衛兵――といっても、緊張感の無い、かなりラフな格好であったが――と挨拶を交わし、中に入った。目の前の地面剥き出しの大通りには、魔法で作られた明かりがずらっと並び、ところどころで魔術師達が世間話をしている。スカイが側を通ると、纏う黒ローブを見た魔術師達が軽く会釈をした。黒ローブは、ドルイドの証である。年上から頭を下げられるのは苦手だな、とスカイは、はにかみながら会釈を返した。
「せんぱ~い!」
遠くから声が聞こえてきた。
スカイが見ると、遠くから一人の少女が砂埃を立てながら駆けて来る。
やがて、少女はスカイの目の前に来た――かと思うと、盛大にずっこけた。ショートヘアの髪留めが、小さく光る。
「おい、大丈夫か!?」
「大丈夫です、大丈夫……」
少女はよろよろと起き上がり、体に付いた砂を払い始める。
スカイは、もうもうと広がる土煙を手で払った。
「この道、芝生を引いた方が良いな……って、お前、鼻血出てるぞ」
少女の鼻から、赤いどろっとした物が流れ出ていた。少女は気付くと、直ぐに呟く。
「ヒルレスーナレエクスィフィード…!」
そして、指を鳴らす。
音は擦れていたが、たちまち鼻血は跡形もなく消えた。一連の動作に、スカイは眉をひそめる。
「お前、呪文を口に出すのか? 仮にも上級魔術師なのに?」
少女には聞こえていないようだ。
「恥ずかし……先輩の前でこけるなんて……あっ! そうだった!」
少女は手を打つ。転換が早いのは彼女の取り柄だ。
「そんなことより、先輩! 調査の帰りなんでしょ? あのことについて教えてください! どうなんですか、結果は!? いいもの見つかりました!?」
スカイはぎょっと目を見張る。きょろきょろと周りを見回すと、案の定、通りがかった青ローブの魔術師達がスカイの方をしきりに気にしていた。スカイは抵抗気味の少女をやや強引に引っ張った。そのまま人目に付かない路地に入る。
「ハル、お前声がでかい」
開口一番、それを言う。
「いつものことだと思うんですけど。逃げること無いですよ。こんなこと皆噂してますし。それよりも、どうなんです? 結果は?」
スカイはしれっと抜かすハルに顔面パンチを喰らわせそうになったが、スカイの理性がかろうじてそれを抑えた。
ハルは、スカイの三歳下の後輩だ。彼女は随分と背が低く、スカイと話す時は常にスカイを見上げている状態である。十三歳といわれれば妥当なのかもしれないが、地方の村で見かける十三歳はもう少し大きいので、正直なところスカイはハルの成長が止まってるんじゃないかと少し心配になっている。
背の低さは難点であるが、ショートヘアと大きい目はかなり特徴的で可愛いと近所での評判は良い。こういう面では、背の低さが一役買っている……のかもしれない。ちなみに人気は拡大し続けていて、現在では魔術局が看板娘として絶賛売り出し中だ。
スカイとハルが出会ったのは五年前、スカイがドルイドになった時だ。魔術局行きの馬車の中で、スカイは運悪く積んであった木箱の釘に黒ローブを引っ掛けてしまった。そこでスカイを助けたのが、ハルである。もし、ビリビリに引き裂かれたローブを師匠に見られていたらどうなっていただろうか。スカイは身の毛もよだつ思いで考える。初めての魔術局入りに緊張もしていたので、元気一杯、天真爛漫なハルに励まされて良かったと、今でも思っていた。意外に気の合った二人は、以来兄妹のように接している。
「教えたいのは山々だけど……最高ランクの内容だからなあ。容易く人に教えるわけにはいかないんだよ」
ハルの表情が萎んだ。
「そうですよねー。はあ、あたしも早くドルイドになって、長にもっと大事な仕事任されたいなー」
「お前、それはムリだろ。」
「え!? 無理ってことは無いでしょ!」
ハルは言ってから、少し静止した。
「……無理かもしれない」
ハルは項垂れた。彼女は言われた言葉を真に受けやすい所がある。技術的には優秀な魔術師なのに、とスカイは思った。面倒に思いながらも、フォローに入る。
「冗談だよ、冗談。今のところドルイドは四人だけど、昔は十人くらいいたらしいし。努力次第だと思うぞ。ハルならなれるさ」
ハルの表情がパッと明るくなった。
「そうですよね! なれますよね!」
分かりやすい奴だ、と彼はくすっと笑い、少し考えた。手間はかかるが、まだ時間はある。
「……じゃあ、教えてやるか。気が進まないけどな」
ハルは“教えてやる”の中身が異世界の話だと気付かないままきょとんとしている。
スカイはローブの内ポケットから、年季の入った手帳を取り出した。
「ちょっとこれを見てくれ」
ハルは手帳を覗き込む。彼はページをめくり、ある場所で手を止めた。
「これ、誰のですか?」
「俺の祖父の物だ」
スカイがさらっと言ったセリフに、ハルは目を丸くした。
「先輩のおじいさんって……元老ですか!?」
「お前、その反応何回目だよ。俺のじいちゃんは確かに元老だけど」
ハルはまじまじと手記を眺める。
「へえ~。元老直筆の手帳ですかー。なんか感激だなあ」
はあ? とスカイは声を上げた。
「どこに感激するポイントがあるんだよ」
「全部ですよ、全部! 元老はあたし達魔術師全員の憧れですからね! なんてったって、荒ぶる悪魔達を封印し、恐ろしい魔物達を森に閉じ込め、魔術師の敵対勢力が起こした暴動をたった一人で鎮静、そしてサデスティアをここまで成長させた人ですもん!」
かなり興奮している様子のハルを、スカイは遠い目で見つめる。スカイの脳裏には様々な光景が一度に浮かんでいた。
「どうしたんですか?」
「えっ? あ、なんでもない」
いそいそと目の周りを裾で拭くスカイを、ハルは訝しげに見つめる。
元老は、既に亡くなっている。しかし、それをハルは知らない。元老が死んだと知れれば、チャンスと思った一般人達に攻め込まれかねないから、言う事ができないのだ。今も、亡命した一般人達がこの国を狙っている、という話もある。そんなことになれば、一大事だ。念には念を押す必要がある。
「で、なんだった?」
頭の中の嫌な物を振り払うように、明るい調子でスカイは言った。
「異世界について調べてきた事を教えてくれるんでしょ! しっかりしてくださいよ」
「ああ、そうだった」
スカイは達筆な文列を、慎重に、丁寧になぞっていった。
この手記は、スカイの祖父が毎日付けた、いわば研究日誌である。研究内容は、元老が胸の内にしまっていた、ある夢が関係していた。
「わしは若い頃、不思議な体験をしてな。目を覚ますと、何とこことは違う、別の世界にいた事があったんじゃ」
その話を聞いた時スカイは五歳だったが、その内容は今でもはっきりと思い出せた。それほど、心が引かれた物があったのかもしれない。
「わしは、死ぬ前にもう一度その世界へ行きたいんじゃよ」
そう言う元老の顔は、決意と夢に満ち、輝いていた。
元老は、その前から魔術師を連れ出かける事が多くなっていた。向こうの世界への糸口、つまり空間の裂け目を探すためだった。だが、月日を掛けても手掛かりは見つからなかった。
時が過ぎるのは早い。スカイはすくすくと育ち、あっという間に十四の誕生日を迎えた。しかし、その一方で、時は老体を蝕んだ。元老は衰弱しきり、ベッドに寝たきり。もう明らかに、調査をする事は出来なくなっていた。しかし、それでも元老はスカイ達ドルイドに、調査をさせてくれとせがんだ。
「わしはやらねばならんのじゃ! 頼む、行かせてくれ! あの子が……! あの子が……!」
元老の涙が、しわだらけになった皮膚を伝う。その姿から、スカイは目を背けてしまった。何が彼をそこまで追い詰めるのか、スカイには分からなかった。
その日から元老は、黙々と手帳にペンを走らせる日々を続けた。スカイが呼びかけても、ああ、とか、そうか、とかいう言葉しか返さなくなった。
そして、その一年後。ある事件が起こり、元老は亡くなった。その事実はほとんどの魔術師には知らされなかった。だが、事件の様子を知っていた極少数の魔術師達は、スカイに慰めの声を掛け、哀れみの目を向けた。スカイは、何も出来なかった。
元老の残した一冊の手帳には、元老の研究の成果が残されていた。スカイはその全てに目を通したが、彼に理解出来たのはそのほんの少しだけだった。時間が無いと悟ったのか、元老がペンを無茶苦茶に走らせ文章を書いていた上、聞いたことの無い、理解不能な単語ばかりが並んでいたからである。
実はそのかろうじて読めた中に、スカイの気になる単語があった。
「これだ」
「まどうへいき……?」
まるで聞いたことも無い、とでもいうような調子だ。しっかりと、そこには元老の文字で、「魔道兵器」と記されている。
「ほら、あるだろ。この前も投石機が出来たじゃないか」
ハルはポンと手を叩いた。
「そうでした、そうでした! あれを魔道兵器って言うんですね。……えっと……魔道兵器って、詳しく言うとどういう物なんですか?」
呆れた、と言わんばかりにため息をつく。
お前それは常識だぞ、と前置きをしてから、スカイは説明をすることにした。
「よし。俺達は普段、自分の体内の魔力を使って生活してるよな?」
「はい。食材を焼くのも掃除をするのも……えっと、家を建てるのも全部魔法ですよ」
ハルは、ちょうど側で進んでいた工事の様子を見ながら答える。
「だろ? でも、魔力も無限じゃない。もし魔力が尽きたら、月の光を浴びて魔力が満ちるまで何も出来なくなってしまう。それか、魔方陣の上で瞑想をするかだな。まあ、どっちもメンドリくさいのは変わりない。そこで考え出されたのが、人工鉱石だ」
「あ、知ってます。魔力を詰めて作った青い石ですよね。」
「そう。アダマンタイトっていう名前なんだが、そのお陰で俺たちは魔力不足に悩む事は無くなった。それに、普通の魔術師は魔法を使うのに“スタッフ”がいるからな。その“スタッフ”の原料のエクスダリアに代わる資源が作りだされたのは大きかった。アダマンタイトは聖石に比べて安価だし、いくらでも作りだせるからな。そのお陰で魔法を使えるようになった魔術師も多かったし。俺達はそれを利用して、さらに魔法の技術を発展させていったわけだ。
そして、その応用バージョンが魔道兵器。投石機とか、そういう類だ」
ハルは激しく目を瞬かせている。
「で、今回問題なのは、異世界にも魔道兵器がある、ということだ。じいちゃんによると、利用の仕方によっては異世界だけでなく、こっちの世界まで滅ぼしかねない物、らしい。今回はそれを調査するための下準備をしに行っただけだ」
「下準備?」
スカイが片方の手の平を広げると、ヒュン、と音がして、大きな袋が現れた。
「うわ、青い石が一杯!」
「これを使って、今日向こうの世界へ行く」
ハルは目を大きく見開いた。
「今日!? 異世界へ!?」
また音がして、袋が消えた。
「じいちゃんが、数年前に考え出した魔法式がある。それを魔法陣に使えば、向こうへ行けるはずだ。それに、俺はもう一つ知りたい事がある」
「もう一つ?」
スカイはまた手帳を捲ると、ハルに見せた。一番、最後のページだ。
「あの人を守らねば。――この意味を、俺は知りたい」
「うーん。あの人って、誰なんでしょう」
「それが分からないんだ。もしかしたら、何か重要な鍵を握っている人なのかもしれない。向こうで手掛かりが掴めればいいけどな……」
スカイはパタン、と手帳を閉じた。
それをスカイがローブの内ポケットにしまい込んでいると、ハルが言った。
「でも、それは危険なんじゃないですか?」
スカイは手を止め、ハルにちょっと目を向ける。ハルの珍しい発言に少し驚いた。
「俺に助言なんて、珍しいな」
はっと口を開いたハルは慌てて手を振る。
「いや、そういう意味じゃないですよ! 唯、向こうには何があるか分からないと思っただけです!」
「そうか。分かった、分かった。ありがとう」
スカイがハルを落ち着かせると、ハルは何を思ったのか、突然空を見上げた。スカイも空を見る。
黒雲が、忍び寄るように満ちて行くところだった。明日は雨だろうか。その雨にも立ち会えない事に、スカイはなんだか不思議な、物悲しさを感じた。
「今日はありがとうございました」
目を戻したスカイに、ハルが深々と頭を下げていた。スカイはふざけて顔を険しくする。
「なんだよ、改まって。気持ち悪いなぁ」
ハルは顔を上げる。頬がほんのり赤い。
「いや、先輩が話に付き合ってくれたのが久しぶりだったんで。いつも先輩、あたしにまた今度、また今度、って言うじゃないですか。だから、今日がなんだか新鮮で。……楽しかったです」
ハルはごく自然に、ニコッと笑った。その姿に、スカイは胸の内が暖かくなった気がした。
「本当に、気を付けてくださいよ。……どのくらいで帰ってこれるんですか?」
「早ければ半年、遅くて一年ってところかな。大規模な調査になるだろうから」
ハルはその期間の長さに心底驚いた様子だったが、やがてスカイを見据えた。
「じゃあ半年」
「え?」
ハルの唐突な言葉に、スカイは思わず聞き返した。
「半年で帰って来てください」
そう言った彼女の目には、有無を言わさぬ物があった。
ちょっと間が空き、スカイは言った。
「……オッケー。分かった。半年だよな」
ハルはその目を見つめた。
「……絶対ですよ? 先輩?」
スカイは、力を込めて頷いた。
ハルは少し頭を下げ、曲がり角に消えて行く。
その後ろ姿を見ながら、そういえば女らしくなったな、と小さく呟いた。
少し歩くと、石造りの巨大建築が見えてきた。目的の建物、魔術局だ。正面入り口の壁面には、魔物や悪魔、魔術師などの彫りが入っている。一番上に表現された数多の人物像は、魔法の力を与えてくれている神達だ。松明に照らされているそれを少し眺め、彼は中へ入った。
松明の並ぶ薄暗い廊下をしばらく進むと、長の部屋の前に着いた。
『ドアはノックしてちょー』
ふざけた張り紙が復活している。そう思うや否や、スカイは木のドアから紙を剥ぎ取ると、それをあっという間に消し炭にしてしまった。
二回ノックをすると、スカイはドアを開けた。
「お客さん?」
「うわぁっ!」
「曲者!」
三つの声が一斉に上がった。
「フウさん、ミイさん、ヒイさん、お久しぶりでーす」
フウ、ミイ、ヒイは、とても仲の良い三つ子だ。三人とも美人だが、顔が似すぎていて見分けがつかない。髪の色が一緒だったら、魔法で作った幻影かと思うだろう。
三つ子には彼が小さい時から随分とお世話になっていた。
だからこそ、この三人の面倒な性格はよく知っているつもりだ。
そさくさと、物で埋め尽くされた床を踏みつけながら進む。中央に置かれた丸い机には、三人が飲み散らかした酒瓶が転がっている。
「散らかってるけど、踏んで行ってもいいわよ」
椅子に座っていた緑の髪の女性、フウが言った。細い足を大きく机に乗せている。
「もう踏んで行ってますけどね」
さらっと言う。
「あーっ、びっくりしたっ!おどろかさないでくださいよ! ちゃんと、のっくはしてください!」
赤い髪の女性、ヒイが言った。手で胸を抑え、肩で呼吸をしている。
「いや、ちゃんと二回ノックしましたけど」
またもさらっと言う。
「ふっ、お前か。さっさと出て行け。ここはお前のような者が来る場所では無い」
青い髪の女性、ミイが、スカイに指を突き付け言った。
「そのセリフ何回目ですか」
さらっと流す。
一番まともな性格であるフウに尋ねた。
「フウさん、長は?」
「奥で魔法陣の調整中よ。ちゃんと、スカイ君の言った通りに作ってたわ。ちゃんとアダマンタイトも受け取って…………あ、そういえば。スカイ君、ラーシャちゃんには挨拶しなくていいの? 昨日帰って来たけど」
ラーシャ、という名前に、スカイは鳥肌が立つのを感じた。
「師匠はもういいです……。次もまた肌の露出が増えてるかと思うと……」
「え? 昨日は小さな子だった……」
「その状態もいやです」
スカイの師匠、ラーシャは変身魔法が大の得意である。
フウは、くすくすと笑った。
「じゃあ、俺行きますね」
「はい、いってらっしゃい。気を付けてね」
奥の窮屈な扉を開けると、そこには円形の広い空間が広がっていた。湿度が高く、少し蒸し暑い。
屈んで魔法陣を熱心に描く男に呼びかける。
「ダンデさん」
男は顔を上げた。
「お、来たネ」
男――魔法長ダンデは立ちあがった。スカイよりも背が高く、貫禄ある体をしている。その瞳には、何か得体の知れない光が灯っていた。スカイは長の眼力のある瞳を見ると、毎回、この人は本当に60代かと疑ってしまう。
長、とは魔法長の略で、その名の通り魔術師全員を統べる存在だ。かなりの魔力を有しており、恐らくドルイド四人全員が掛っても倒せないとスカイは思っていた。
が、性格はその割に合わず、かなりおちゃらけている。
長は空間魔法で、何かの棒を取り出した。スタッフと呼ばれる、アダマンダイト製の杖だ。スカイは値札に半額の文字が付いているのを見逃さない。
「あ、仕上げは俺がやりますよ」
魔法陣の製作には、最後に、円内へ書き込まれた魔法式を整える必要があった。スカイが進み出る。
「いや、私がやるヨ。どうせ、また近道を通ってきたんだろう? 魔物と戦って疲れてるんじゃないのかい? 今日は月が出ていなかったしネ。それに、君の魔力消耗の激しさは誰でも知っているヨ」
長にはすべてお見通しだな、とスカイは苦笑した。
長が何かを口元で呟く。スカイは、大気が渦巻き始めるのを感じた。今回の魔法陣は、膨大な魔力を使う。この閉鎖された空間は、その影響が外に及ばないよう、特別に作らせたものだった。
長が杖を一つ突いた。コン、という静かな音が石壁に木霊する。長は杖を横に構えた。
「……エクスィフィード」
長が呪文の最後を結ぶ言葉を唱えると、描かれていた白い線が、淡い緑の光を放ち始めた。光は膨れ上がるように大きくなり、空間を満たしていく。魔法陣の中には、魔力の補助とコントロールの役目を果たす、古代文字が浮かび始めた。
「これが、じいちゃんの……」
長は頷いた。
「元老の発見は偉大な物だネ。君が言う事が正しければ、異世界はここと環境が似ているそうじゃないか。きっと魔術師が国を支配してるだろうから、ウチらとしては異世界と手を組んでおきたいネ」
彼も同感だった。異世界と手を組めば、未だに残っている反対勢力と戦える力は大きくなる。それに、異世界独自の魔法も学べるかもしれない。
「今回は君が最初に、一人で行って欲しい。そして、大体の状況が掴めたらこっちにまた戻って来てヨ。そっちに上級魔術師を派遣するからネ」
「え……でも、どうやって戻ってくればいいんですか? こんな特殊な魔法陣に適応する呪文なんて知らないんですけど」
スカイは疑問を投げかける。
「うん。一応、魔法式に一通り目を通して呪文は作ってあるヨ」
長がスタッフを真上に投げると、それは空間に吸い込まれるようにして消えた。
あの人を守らねば。じいちゃんが言いたかった事が、これで分かるかもしれない。
スカイは魔法陣を見下ろす。
この向こうに、異世界があるんだ。そして、自分がその地に降り立つ最初の魔術師になる……。そう思うと、彼はくすぐったいような、むず痒いような気持ちになった。ついこの間まで祖父に甘えていた自分が、こんな大役を任されていいのだろうか。その甘えのせいで、祖父を殺した自分が……。
「じゃ、帰還呪文を教えるよん。呪文は……」
長がそう言いかけた時、扉が大きな音を立てた。
「たいへんです、一般人が!」
ヒイだった。顔が青ざめている。スカイは一般人、という最も恐れていた言葉に震える。
「どうしたんだい?」
長がヒイに状況を聞こうとする。
遠くで地鳴りのような音がした。地面が大きく揺れる。
「爆弾……かい?」
「そうみたいです。長、どうしましょう」
出てきたフウが長に聞く。
「どうしましょうって、そりゃ殺すしかないネ。魔術師に歯向かう奴らは皆殺しだヨ。魔法を扱えない奴らに負ける事なんて無いしネ。舞い戻って来た事を後悔させてやるヨ」
長は、フウが差し出したローブを纏う。
「スカイ君は気にしなくていいヨ。行ってきなさい」
「でも――……」
「私達だけで十分だヨ。君はただでさえ魔力を温存しなくちゃいけないんだから」
彼は、長の自信に満ち溢れた言い方に渋々と頷いた。魔法陣に向かい合う。
魔法陣に手をかざすと、光が一層増した。光が流星のような猛スピードで飛びだしてくる。その光はまとまっていき、やがて一つの大きな柱となった。
「もし、こっちに戻ってこれなくなったら魔道兵器の調査を頼むヨ。まあ、無いと思うけどネ……」
長は意味深な雰囲気で呟いた。
「さ、早く! 空間移転の邪魔はさせないヨ!」
長はそう言い放つと、さっさと部屋を出て行く。扉がそれと同時に閉まった。
彼はまた魔法陣を見下ろした。今、魔力維持の役割は、長からスカイに移っている。普段使う魔法陣なら、魔力消耗の激しいスカイでも許容範囲だ。だが、こんな特殊な魔法陣になると訳が違った。早く向こうに行かなければ、魔力が底を突くか、そうならなくても、動けないような状態で異世界に到着することになる。スカイは無表情ながらも、繊細なコントロールに慎重になっていた。精神が削られていく。もしかしたら、移動する前に魔法陣が消えてしまうかもしれない。そうなれば、また異世界へ向かう為の一年を過ごさねばならなくなる。
だが、スカイは今起きている暴動も気になっていた。一般人が攻め込んでくる事は頭の中にあったが、まさかあの強固な結界を越えてこの区域に侵入を許すなどあり得ないと思っていたからだ。今まで攻め込まれた事が無かったのだから尚更である。
押収した爆弾や武器も、魔術師の管理がしっかりと行き届いていた。国外で繁殖して攻め込んできた一般人も、昔からの一般人も全員まとめて牢屋にぶち込んである。
……それなのに、何故こうなっている? かすかに聞こえてくる騒ぎから考えて、かなり事態は深刻らしい。ここはドルイドの自分が行くべきでは……?
――いや、ここには長も、師匠もいる。魔術に長けた二人が居る中で、敗北などあり得ないだろう。それに、長は任せろと言ったんだ。……ちょっと行って、またすぐ帰ってくればいい。長と師匠がいれば大丈夫だろう。
そう考え、彼は深く息を吸い込んだ。
これに飛び込めば、向こうの世界だ。
彼はゆっくりと、ゆっくりと足を進めた。ここで何か間違えたら、どこにも行けないような気がした。とにかく、慎重に事を進めようと思った。体が眩い光に照らされる。目を細めることなく、スカイはその輝きを直視した。そして、水に飛びこもうとするかのように息を大きく吸う。――彼は、柱に溶けるように飲み込まれていった。すうっと、体の感覚が軽くなる。目の前が真っ白になる。
まるで、落ちて行くようだった。
空間移転魔法特有の、心臓が持ち上げられるような違和感に耐えながら、スカイの足は地面を踏んだ。暗い。見上げると、星があった。月は見当たらない。そういえば今日は新月だった、と思い直す。
スカイは明かりを灯したが、直ぐに消した。魔法が使えることを確認する為だったから点く事を確かめるだけで良かったし、魔力は温存するべきだ。
見回すと、辺りは整備された芝生であった。かなり広い、庭園のような場所だ。綺麗な長方形に整えられていて、それの周りを針葉樹が囲っている。かなり緻密な設計が成されているようだ。
遠くからやって来た北風が葉を揺らし、草の上を駆けてくる。冷たい息吹が、彼に吹きつけた。
なんだ、異世界といっても、こっちとなんら変わりないじゃないか。というか、ここは本当に異世界か?
そう思いながら何気なく後ろを振り返った彼は、雷に打たれたかのような衝撃を受けた。
見たことも無い素材で作られた建造物が、すぐ側にそびえ立っていたのである。
何故気付かなかったのかと思われる程、それは巨大だった。そこに人が住んでいると分かったのは、中から足音が聞こえてからである。
誰か来る。今、誰かに顔を見られるのは得策ではない。
そう考えた彼は、帰還呪文を唱えることにした。……そう、帰還呪文を。
彼は眉根を寄せると、記憶を必死に漁った。足音は絶えず聞こえてくる。
だが、その記憶は彼には引っ張りだすことが出来なかった。
当然だ。
――どこにも無かったのだから。
「…………やっちまったな、こりゃ」
彼は、重大なミスを犯していた。
重厚な扉の向こうで、カチャッと何かが外れる音がする。
スカイは脱力した。
「帰還呪文、教えてもらってねぇじゃん……」
軋むような音を立てながら、巨大な扉が押し開けられる。
帰還呪文を知っているのは、長だけ。それを聞く事が出来なかった彼は、長く異世界に閉じ込められることとなる。