戦車砲を積んだ戦闘機
このお話はフィクションです。実在する人物や組織とは関係ありません。2010/01/08に若干変更編集済み。
『戦車砲を積んだ戦闘機』 山川雷太
艦載機グラマンF6F、来襲
背後から敵機機銃、曳航弾の光が自機の右手上に見えた。直径十二.七ミリ機銃六丁の鉄鋼焼夷弾の光は少しずつ左下方へ流れてくる。その移動軸線上に自分の機体がある。千五百馬力の熱田三十型水冷エンジンが特有の甲高い悲鳴を上げていた。
《山崎! もう少しだ。頑張れ、今は横滑りしか出来ない。お前の機銃だけが頼りだ》
後部座席の山崎が必死に何か叫びながら、旋回銃座から七.七ミリ機銃をばら撒く。しかし、旋回機銃一丁の弾が、自機も動き相手も動く状態で、敵の戦闘機に当る確率はほとんど無い。操縦士大西聡は機体をさらに横滑りさせ、加えて方向舵も逆舵を当てて、機首下げと高度損失を最小限に保ち、その弾雨の移動線から必死に逃れようと足掻いていた。
敵のグラマンは、大西の機体がぬらりくらりとした横滑りをするので、見越し射撃が空を切り焦っている。流れる弾の数が増え、その拡散範囲も広くなってきた。大西の、横滑りさせながら機首は前方に向くように、方向舵を逆舵に操舵する奥の手だった。同じバンク角を作ってもグラマンの横滑りと違う軸線を描くことに、グラマンの操縦士は気づいていない。しかしこれは大西にとっても諸刃の剣、速度はなかなか増えなかった。
大西機の離陸直後、速度が出ないうちに後ろに食らいついたグラマンはしつこかった。彗星が千五百馬力に対して、グラマンは二千馬力。最高速度も時速三十キロは敵機が速い。ただ、超低空が幸いして各々の動ける範囲は水平と上方に限られ、速度差はそれほど目だって出ていない。双方とも上昇すれば速度を失うことが判っている。だから、横滑りの技量の差が出ていたのだ。
大西機の武装は前方固定七.七ミリ二丁と後ろの旋回銃座七.七ミリ一丁、この小口径の弾が相手にダメージを与えられる場所は限られていた。操縦席上部からの風防貫通弾でしか一撃でしとめる方法はない。元々彗星は戦闘機ではなくて複座艦上爆撃機、取柄は戦闘機と比較しても劣らない旋回性能だけだ。大西は、チャンスは一度だけだと思っていた。蓄えた速度を格闘戦で使い切って、もし打ち漏らせば、速度と馬力、上昇力に優れたグラマンに頭を抑えられ、餌食にされると思っていた。
後部座席の山崎豊一飛曹は相手のグラマンの癖を、その動きから必死に探ろうとしていた。同郷の先輩であり、兄のように慕う大西聡上飛曹の操縦の癖は熟知している。その動きと相手の動きが交差する点を予想して見越し一連射を浴びせてきた。しかし多少は当っているはずとも思うが、グラマンは怯む様子も無い。お返しに十二.七ミリ六丁が一斉に火を吹く。それは恐怖だった。相手の弾は鉄鋼焼夷弾だ。一発でもエンジンやタンクに当れば発火する。防弾板のない日本機はすぐに火を噴いてしまう。こちらの機銃はたった一丁、半分強の直径で炸裂しないただの弾だ。当っても外装を貫通するだけで、防護板は突き抜けない。グラマンはエンジンやタンク周りも防弾がしっかりしていて、ゼロ戦の二十ミリを食らってもなかなか落ちないとわかっている。特に、操縦士周りは強固だ。あの小さい風防に見え隠れする操縦士に当らなければ、戦闘力は奪えなかった。
また、グラマンが射撃位置に着こうと、微妙に機体を動かし始めた。山崎が呟く。
「そっちの射撃位置はこっちの射撃位置! 今回はちょっと多めにくれてやらあ、食らえ!」
山崎はグラマンが機銃を発射する直前に、頭に浮かんだ見越し射点に機銃を長めに連射した。もう弾も残り少ない。これが最後の一連射かもしれないと思った。
《しめた!》
グラマンがその射点に入り込んできたのだ。風防の一部に山崎の弾が数発、当ったかのように、何かの小さな破片が僅かに飛び散ったようにも見えた。
《や、やったか?》
しかし、山崎が見たものは、グラマンの計六丁の機銃穴が光る光景だった。そしてそれは前よりもまして、長く大きく拡散して大西機に被さってきた。曳航弾が一瞬、機体を取り囲む。その数発が山崎の近くで炸裂した。その内一発は自分の頭の近くで燃える油脂を飛び散らせた。山崎は棍棒で殴られたように、突然頭が白くなり、気を失いそうになる。他の弾は胴体内のガソリンを引火させ、山崎の周りに火を放った。その火はすぐに後部座席を取り囲んだ。
その時、大西機は突然ふわっと浮き上がり、素早いバンクを左に掛けて左急旋回に入った。グラマンは驚いたのか、大西機が火を噴いたので油断をしたのか、大西機を追い越して、緩い右上昇旋回に入った。大西機を見ながらゆっくり上昇しようとしたのかもしれない。
《馬鹿め! それがおまえの命取りだ》
山崎は後部座席に広がった火に包まれながら、グラマンの姿を見た。不思議に熱さを感じない。ただ力が抜けて行く。握り締めた機銃の引き金に纏わる自分の指先は、もう何も感じないが、上昇するグラマンを捉えて、引き金を引く命令を出している。機銃が炎にちらちら囲まれたとき、視界も音も戦う気持ちも自然に消えて、姉と最後に会った日を思い出していた。それは、安らいだ気持ちで山崎を満たしていた。
昭和二十年初頭、もう天がすぐそこまで届く高度一万メートル、大気の対流圏上限、その上は空気の対流が無い成層圏だ。氷点下数十度の極寒、空気密度は地表の三分の一に薄くなり、気圧は四分の一。そこを比類の無い美しい飛行機雲を描いて飛ぶ、銀に輝く超大型機の群れがあった。
冬の日の晴れ渡る空を見上げて、姉君江は天を指差した。
「飛行機雲があんなに沢山」
「姉さん! あれは敵のB29だよ。何処かの工場か軍施設を空襲に行くんだ」
正月の晴れ着を着た君江の表情が曇る。影になった縁側から遠くを見る。
「豊さん、日本は負けるのかしら?」
「……心配するなよ、姉さん! おれ達で何とかするさ」
山崎豊はそう言って姉を安心させたかったが、この高空を飛ぶ戦略長距離爆撃機に対抗する迎撃戦闘機、高度一万メートルまで上昇できる飛行機など、日本にはほとんど無かった。その現実が顔に出たのだろう。君江は豊をしっかり見つめ、
「甘えん坊の豊さんには、無理じゃないかしら?」
と、鋭く切り返してきた。
「なんだよ、姉さん! 折角、休暇を貰って会いに来たのに、つれないなあ」
「そうだったわね、ごめんなさい」
豊は姉のそういう、切り替えしが好きで、ちょっと怒ってもすぐ優しく包んでくれる姉がたまらなく愛おしい。父母が早世した豊にとって、君江は美しい三歳年上の姉と言うより、母のように広くて深い女性だった。
豊は話題を変えた。
「先輩の大西さんがねえ、姉さんに会ってみたいって、恥ずかしそうに告白するんだよ。僕が姉さんの話を毎晩するもんだから、姉さんが優しくて綺麗で、好物は何か、どんな性格か、もうすでに全部知ってしまったって。惚れた! 惚れてしまったぞって言うのさ。可笑しいでしょ、大西先輩って」
姉は口元をゆるめて可笑しそうに聞いていた。
「私も豊さんがあんまり大西様を褒め上げるので、ちょっと会って見たいと思っていたのよ。偶然ねえ」
「ええ? 姉さんもそうなの? 姉さんがあの大西先輩にねえ……」
「豊さんが慕う人は私も慕うということかしら?」
山崎豊は大西聡・上飛曹のその古武士然とした風貌を思い出し、にやりとしている自分に気づいて我に帰った。そこはすでに火に巻かれた彗星の後部座席。
《先輩、先に逝きます。姉を頼みます……》
そう山崎は思うと、姉のもとへ帰って行った。
今までの動きとはまったく違う、きちっとした左急旋回に大西はすべてをかけていた。機体が被弾し発火していることもわかっていた。旋回中にグラマンが大きく膨らんで上昇しながら登ってゆく姿を、風防の上方にしっかり捉えていた。
《しめた! 相手は右上昇緩旋回。このままで出会い頭に相手の風防が見えてくる。そこにすべてぶち込んでやる。山崎、もうちょっとだ。耐えてくれえ》
彗星が艦上爆撃機とは思えない小さな半径を描き、反対側に旋回して、自分の獲物の最期を見届けようとしたグラマンに食い込んでゆく。グラマンの操縦士が、火を噴いた彗星の美しい旋回機動と機敏さに気づいたときには、すでに大西が固定機銃の発射ボタンを押し続けているときだった。その炸裂しない玉の雨はグラマンのエンジン上部にポンポンと穴を開け始め、風防にも突き刺さって胴体から尾翼へ、見事な射線跡を残して流れた。一発はグラマンの操縦士の右肩を上から打ち抜き、もう一発は左膝を打ち砕いた。操縦士は呻いて前かがみになり、操縦棒を前に倒してしまう。グラマンは前に突っ込むように機種を下げ、地表に落ちてゆく。 その挙動だけで、大西は相手の操縦士が被弾したことを知った。
グラマン撃墜を確認する余裕も無く、大西は火を少しでも消すために、機体を軽いダイブに入れて、海岸線に沿って着水させようと高度を落とす。尾部からゆっくり海水につけるために、最大迎角でピッチを保ち、速度をできるだけ落として行く。
《あせるな、大西よ。ここであせったら、機体がでんぐり返る》
時の流れが遅い。山崎が気になるが、振りかえったり、伝声管を掴む余裕が無い。尾部が水を捉えた。波頭を数個打つ度に、大西はエンジンの出力を少し下げて、その抵抗の反動を少なくし、徐々に速度を減衰させる。海水の抵抗で速度が落ち、左右のバランスが殆ど取れなくなったとき、エンジンのスイッチを切った。その時、火は大西の操縦席にも燃え移り、大西の右足を焼いていた。機体はでんぐり返らずに大きな衝撃とともに海面に落ちた。
「山崎! 出ろ! 飛び出ろーっ!」
大西は叫びながら、風防を開けて海に飛び込む。海水の中で焼けた右足に感覚が無い。そして、水に足掻きながら大西は見た。後部座席風防のアクリルガラスは溶けて変形し、チラホラ光る火の中に、動かない山崎の黒い影。
「や、やまざきぃー!」
山崎を乗せたまま、機体はゆっくりと沈んで行く。機首から沈みはじめ、尾翼を立てながら海へ消えていった。
姉の手紙
大西は兵舎で、山崎の遺品を整理していた。
山崎が大事にしていた姉の写真と、何通もの姉からの手紙が出てきた。その手紙の一通はまだ読みかけだった。封筒に入れられずに、便箋に書かれたその文字が大西の目に触れてしまった。
豊様、前文お許しくださいませ。
伊那の谷に風に靡く草々を見ております。風のまにまに靡く私の心は、豊様のご無事を思い、不安と心配の狭間に揺れ動いて定まることはありません。あなたは今頃きっと、大空の何処かで、あなたが慕う大西様と一緒に、戦っているのでしょう。二十歳にもならない若いあなたが、命をかけて戦っていらっしゃると思うと、いつの間にか子供のときの、あなたの無邪気な笑顔が思い浮かんできて、懐かしいと同時に悲しくなってしまいます。小さくて体の弱かったあなた。そして優しくて弱虫だったあなたが戦うなんて、私には、今でもどうしても信じられないのです。
女の私には、戦いの理由は良くわかりません。でもあなたが戦うなら、私も戦いたい。そう思っても何も出来なくて、もっと悲しくなってしまいます。
……
お父様が生前、書き残した日記がございました。先日、箪笥を整理して居りましたら出てきましたの。ちょうど病に臥していた頃のことでしょう。そこにこんなことが書かれておりました。
―――病と闘うも、戦場で戦うも、力尽きて死ぬときは同じ死。大将の死も、一平卒の死も、そして病人の死も変わりは無かろうに。定めを思うなら、一人でこの世に生まれ、一人で去ってゆく。それに気づいて行くか行かぬか。それこそが道。人のためでもなく、自分のためでもない。道とは天の計らい、思いを捨て、拘りを捨て、全てを受け入れるその覚悟こそ、生死一如―――
……
かしこ、君江
大西は、毎夜、山崎がその屈託の無い笑顔で、美しい姉のことを語った日々を思い出す。三歳上の姉を慕うその顔は、母への憧憬にも似た甘え。大西もまた、同じ様に早世したおぼろな母の姿に、思いを重ね、夜が更けて二人の気が済むまで、戦いの狭間に人の心に帰って話し込んだ。
姉は山崎のことを心優しい弱虫と呼ぶ。しかし、大西が知る山崎は、今思えば、姉の教え、いや、山崎の父の教えをしっかりと守った男だった。二十歳にもならぬ若い山崎の心を占めていたもの、一緒に死線をくぐった自分にしかわからないだろう。彗星の後部座席に航法士として座るということ、それは全てを操縦士である大西に委ねる覚悟、そして自分達に与えられた彗星という複座戦闘機に、自分の命を預けるという覚悟だった。それは、適わない敵と知りつつ戦い抜く諦観だったのだろうか。
大西は今、
「操縦士の死も、航法士の死も、死には変わりは無い」
そう、山崎が大西に語りかけていたことを悟ったのだ。
《山崎よ、おれもお前と同じ覚悟を持たせてもらうよ》
そう言って、大西はその手紙に瞑目した。
薩摩、示現流
「大西、貴様は、山崎の後任、後部座席の航法士同乗を拒んどるとか! どう言う訳か?」
「首都防衛迎撃戦では、航法士は要りません! また、海上敵艦に対する爆撃でしたら、航法は他機にくっ付いて行きますので、必要ありません。死ぬときは一人で死にたいと思います」
「ばか者! それでは軍の規律が保てん」
「司令! それでは軍の規律に照らして、どうぞ銃殺にしてください。私は梃でも動きません」
大西は尊敬して止まない小園司令に、決意の駄々を捏ねていた。
《司令、わかってください! 彗星が迎撃戦闘機になった瞬間から、後部座席の搭乗員は不必要なんです。内地では航法も要らず、爆撃もしない。ただ、後部銃座のあの豆鉄砲のために搭乗員が乗らなきゃいけないのなら、それは無駄死を作るだけです》
司令は苦虫を噛み潰したような渋い表情を形だけ作って、細長い目をキッと見開いて大西を睨む。細長い顔に大きな鼻筋、唇は真一文字に結ばれ、やはり武士を連想させる。
小園は大西を睨みながら別の事を考えていた。彗星で特攻に飛び立つ搭乗員の事を考えていたのだ。海上渡航には航法士は絶対必要だ。途中、空戦に巻き込まれて位置を見失ったら、敵艦も発見できない可能性が強くなる。だから、彗星一機の特攻は二人の犠牲が伴う。
《大西の言うように、四機に一機だけ航法士を乗せようか。それで三人の航法士が特攻せずに済むかもしれぬ……。いや、それよりも、特攻そのものを止めねば……》
小園は大西を睨みつけていた眼差しを諦め、机の上にある煙草を何も言わずに大西に勧めた。
大西はきょとんとして煙草を勧められるままに受け取ると、小園は声を落として言った。
「わかった。もう良いわ。お前のようないごっそうに説教してもはじまらんたい」
司令が煙草をくわえたので、大西はあわてて司令の煙草に火を付ける。
「ばってん、大西よ、貴様、薩摩の示現流を知っとるか?」
小園司令の突然の質問に大西上飛曹はいぶかしみながら、
「薩摩藩の御流儀剣術ですか? 東郷重位が編み出した『一の太刀を疑わず』、『二の太刀要らず』の一撃必殺剣でしょうか?」
大西は小園司令の本意が判らず、戸惑いながら答えた。
「そうだ。それだ! 貴様が北辰一刀流をたしなむと聞いてな。貴様、彗星艦爆に何年乗っているか?」
「はあ、二年ほどです」
「やはり、貴様しかおらん!」
「司令、何のことですか?」
「貴様、彗星を示現流にしてくれ!」
「……、彗星で特攻せよということなら、もっとはっきり言ってもらえば、覚悟は出来ています」
「いや、特攻と違うのだ。俺は示現流の剣士がほしい」
「司令、それじゃわかりません。彗星は機銃七.七ミリ二丁、追加しても後部座席に二十ミリの斜銃ですよ。示現流にはなりませんよ」
「それがなるんだ、大西。貴様、彗星に戦車砲を積んで、B29を一撃で打ち落としてくれ」
大西は思いだす。この小園司令、元々ラバウル航空隊の副指令、B17爆撃機迎撃のために、ゼロ戦全機に自分の案である斜銃を取り付けろと上層部にぶち上げて、左遷されて厚木に回された人物でもある。三○二空厚木航空隊の主任務は首都防空、その当時は首都東京に大挙して敵機が飛んでくるとは誰も思わなかった閑職だった。しかし昭和十九年(1944年)十一月には、B17よりさらに手ごわいB29が飛んできて、小園に活躍の場が与えられた。小園は双発爆撃機あるいは偵察機になっていた月光に二十ミリ機関砲を前上方斜めに取り付けさせて斜銃とし、夜間戦闘機に仕立ててB29を迎撃、通常戦闘機では戦果の上がらなかった状況を多少とも好転させたのだった。
大西は実力本意で部下を扱う型に嵌らぬこの司令が好きだった。その小園司令がまた何か、やらかそうとしているのだ。大西は何か面白そうな雰囲気を感じた。
「Bさんは高度一万メートルを飛んできやがる。こっちの戦闘機は、零戦、雷電、紫電改も月光も八千メートルが上昇限度、無理にあがっても機体が安定せずに戦闘どころじゃない。陸軍機も同じだ。かろうじて水冷エンジンの飛燕が1万まで上がるが、それもあっぷあっぷ、飛燕の二十ミリマウザー砲でもBさんはなかなか落ちん。うちの隊でそこまで上がれるのは熱田の水冷エンジンを持つ彗星だけだ」
「司令、彗星でも一万は相当きついです。ちょっと間違えば、失速します。それにB29はそんな高高度でも時速五百キロは出します。彗星のエンジン出力は半分以下に落ちてますから、会敵は一度だけで失敗したらもう追いつけません……」
小園は大西をきっと睨み、
「そうだ。だから示現流しかない」
格納庫の片隅で、彗星十二型の周りに数人の整備士が取り付いている。その側にはなぜか陸軍の一式四十七ミリ機動砲が、その大きな二つの車輪と二本の固定脚を扇に広げていた。半自動装填式で発射速度秒速八百三十メートル、一式戦車や九七式戦車にも採用されている戦車の大砲だった。
「おい、加藤、そんなものほんとに彗星に積めるのか? 斜銃には砲身が長すぎるだろう」
実際、砲身は六メートル以上ある。
「はあ、斜めじゃ積めませんよ。機首に固定します。それでも砲身が長いので、三メートル位になるまで砲身を切ります」
「重さはどのくらいだ?」
「この状態で三百二十七キロです。タイヤと固定脚を外して、砲身を削り、砲弾十発を含んで二百キロくらいまでは落とします。彗星の元々の最大爆弾積載量が五百キロですから、その他の機銃や色々いらないものを外して、一人乗りにしますんで、操縦性もそんなに悪くはならないようにまとめますよ」
「……! 出来たら俺が試験飛行することになっているのを知ってるか?」
空技廟から技術者として、小園司令の特別の計らいで出向に来ている加藤は軽やかな笑顔を向けて、
「大西上飛曹、携帯弾数は十発で、三秒に一発出ます。撃ちっぱなしで三十秒はこれをばらまけますからね。B29に必ず当りますよ。一発当れば大穴あきますし、元々戦車の大砲ですからね。いくらBさんでも必ず落ちますって」
「彗星がもてばな」
「そこが小園司令の凄いところですよ。元々の彗星の設計が急降下爆撃を出来るように作られたのを知っていて、充分強度はあるだろうって言うんです」
「元々はそうだけどなあ、テストで急降下爆撃には不向きって言う報告もあるんだぞ。おまえ達だけで改造して、ちゃんと強度計算とか重心調整とかできるんか?」
「そんなことやってたら、戦争終わっちゃいますよ。だから現場でなんとかしろっていう小園司令の特別秘密命令なんで……、試験はぶっつけ本番で大西上飛曹に任せろって。あいつなら剣術やっているから大丈夫だって言ってました」
大西はそういう大雑把な改造で、あのB29を迎え撃とうというその心意気だけは、楽しくいただきたいが、何か滑稽なことをやっているのではという恥ずかしさを感じた。
《こりゃ、戦争は負けだ。負け戦だ》と、しみじみ思った。
科学力、工業力、技術力、戦力で圧倒的に勝る米国に対して、示現流を持ち出して戦おうという追い詰められた日本だった。それも戦闘機に戦車の大砲を積んで、示現流をやれという。一撃必殺というのはその初太刀の速度と勢いだ。空戦で言えば、高度の優位さを利用した一撃離脱攻撃に使うのが普通。彗星でも1万メートルまで上がるのがやっと、それでもBさんと同高度だ。待ち構える時間があれば、数百メートルの高度差は作れるかもしれないが、機体の機動は相当繊細で、ちょっとした操作ミスで高度を失い射撃チャンスは失われる。
ただ、大西はその四十七ミリ砲に確かに惹かれていた。これが当れば必ず落ちる。そう思わせる伝家の宝刀のような気もする。だから、面白いとも思っていた。撃った後はどうなるか考えない。その時、武士の意地を見せられるとも思い、恥ずかしいと思いつつも、負けは負けでも、負けに至る己の道があるだろうと強く感じていた。
戦略でも戦術でも相手が有利。武器の優劣が個々の戦を決めるなら、せめて一太刀浴びせて、大西は不謹慎にも面白く負けてやろう、面白く死んでやろうとも思っていたのだ。大西は不適な笑みを浮かべて、四十七ミリ砲を見つめていた。
会敵、高度1万メートル
昭和二十年(1945年)八月、大西は四十七ミリ砲を搭載した彗星を離陸させた。彗星の上昇率は五千メートルまで七分四十秒、そこから一万メートルまで上がるには三倍以上掛かった。空気がどんどん薄くなって、地表の三分の一の空気密度になるからだ。
眼下には霞む関東平野が広がる。美しい富士も見え、関東平野の北側は白く霞みがかかっている。南の水平線は緩やかな丸みを帯び、そこから薄い青が少しずつ天空に向かって藍に変わる。風防の上はもう宇宙が始まりそうな気配を持つ成層圏だった。
大西は自分がいるこの対流圏の天辺から下界を見下ろした。焼け野原になった東京を翳して見る。十キロ下の首都は霞ながら、今年に入ってから、まるでただれた大地のように様相を変えたしまった。
今年の1月、大西は整備士の加藤からB29の最新情報を仕入れたことを思い返していた。
「陸軍機の飛燕が水冷エンジンを積んでいるので、何とか1万まで上がれて、特攻的な空戦を挑んで、段々わかってきたんですよ」
加藤はそう言って、黒縁メガネの奥に悔しさを滲ませ、安酒をお猪口でぐいっと流し込む。
「そうだな、飛燕のエンジンは元々ドイツの水冷エンジン、メッサーシュミットと同じ。彗星の熱田エンジンとは親戚だな」
「そうなんですよ、大西さん。それと飛燕のマウザー二十ミリ砲、これも零戦の二十ミリより優れものでして、整備が難しく工作も気を使うのですが、その二十ミリを食らわせても、Bさんは落ちないんです」
「それで、飛燕の捨て鉢特攻攻撃か?」
大西は吐き捨てるように聞く。
「はあ、最初はですね。特攻と言うより、胴体に幾ら二十ミリを当てても落ちない。それで操縦席を狙おうとして、接近し過ぎてBさんにぶつかったというのが本当らしいのです。しかし、それで上手くいった。だから挙って体当たりする猛者が多くなりまして。中には、Bさんの上にぶつかる様に胴体着陸して、落下傘で無事生き延びた飛燕の搭乗員も居りましてね」
「陸さんもやるな。だが、二十ミリを食らって何で落ちないんだ?」
「そのカラクリが判ったのが、つい最近なんですよ。それがなんと生ゴムなんです!」
「生ゴム?」
「はあ、落ちたBさんを研究したんですが、なんと燃料タンク外皮と内皮の間にゲル状の生ゴムが多量に入って居りまして。二十ミリは炸裂弾なので、まず外皮に当って爆発しますが、その内側には生ゴムがあって、破裂した破片を殆ど吸収してしまう。だから内皮は殆ど貫通できないのです。例え、僅か貫通したとしても、炸裂弾はすでに炸裂していますから、燃料がこぼれるだけで発火はしない。しかもですよ、その空いた穴をゲル状の生ゴムが流れて埋めてしまうのです。 これじゃ如何しようもない。ましてや七.七ミリ機銃の弾なんて……、そう言う装甲なんです」
大西はお猪口を脇ににおき、湯のみになみなみと酒を注ぎ、手酌であおった。
「うーむ、手の打ち様が無いということか」
「ええ、これはBさんに限ったことではなく、米軍の装甲は燃料タンク、エンジンと操縦士周りを相当強化しており、艦上戦闘機のF6Fの装甲は、零戦の二十ミリでもなかなか貫通しません。猛者はなんとか風防のアクリルガラスを狙って打ち落としていると聞きました」
「それじゃ、陸さんと同じでおれ達も特攻しかないというのだな」
「高度一万の高空をこられたら、上がれるのは彗星十二型の夜戦だけです。それでもあっぷあっぷでしょう。Bさんは空気を濃くしてエンジンに送る過給器が付いていますから、エンジン出力はそれ程下がらず時速五百キロは維持できます。飛燕も彗星も出力が半分以下まで落ちていまいますからね、浮いているのがやっとで空戦も特攻も無理があります」
「それじゃもう、戦争なんかやめたほうが良いじゃないか?!」
大西はやり場のない憤りにまみれて大声を出した。加藤はあわてて、
「声が大きいですよ」
そう言って、同じ様に自分の湯のみに酒を注いで、一気にあおる。そしてまた、空いた二つの湯のみにそれぞれ酒を注ぎ、
「大西さん、あのB29は一機あたり九トンもの爆弾を降らせるのですよ。もうすでに遅いかもしれません。日本の産業はすでに沈黙しなければならない状態に追い込まれています。あの怪物が日本の大都市を無差別に攻撃してきたら、この世の終わりを見ることになります……」
すでに加藤の言ったことが起こってしまっていた。東京大空襲で八万人、大阪では一万人の死亡者を出したらしい。広島・長崎では都市を一瞬にして廃墟にする新型爆弾(原爆)がそれぞれ一発ずつ落ちて、死傷者は数十万人に達するだろうという噂があった。今年になって始まったB29の本土無差別爆撃はすでに百万人に達する民間人の命を奪ったとの風聞も聞こえていた。大西は荒れた大地から変わらぬ深青色の天空に視線を移した。
《山崎、早く逝っちまったお前のほうが幸運だったかもしれん》
操縦席の内側左側面には、四十七ミリ砲の砲身が機首に向かって貫かれ、機首部左に発射穴がある。後部座席は取り払われ、代わりに自動装填装置と砲弾十発が設置されていた。
離陸前の小園司令の訓示が浮かんだ。
「大西、貴様に本日、彗星特別型の飛行試験と四十七ミリ機関砲の試験もしてもらう! なお、この件は事前に通達してあるように、極秘である」
小園司令は何かを無言で伝えたいような表情で、訓示した。
「試験飛行開始はヒトヒトマルマル。以上!」
「ハッ!」
大西は敬礼を返し、にたっと笑って司令を見つめた。小園もにやりとする。
「頼むぞ! 大西、只管打撃だ」
大西が愛機に向かって踵を返すと、司令が後ろからそう言った。
《こりゃかなわん。禅と戦争を混ぜてしまっとる》
東郷重位の示現流派は初太刀に全てをかける。防御や二の太刀への連関さえすべて思わず、持てる全ての力を初太刀だけに込めて相手を抹殺するのだ。それがかわされたら、再び初太刀に返るしかない。初太刀を何度も繰り返し、敵のその戦闘能力を奪うまで只管攻撃する剣法なのだ。躱しや受け手はなかった。
《禅の道元は只管打坐(ただひたすら打ち座る)、内の司令は只管打撃(ただひたすら打ち撃つ)といいやがった》
エンジンは何とか回転してはいるが、出力が落ちている。大西は飛んでいるのではなく、ただ浮いて漂っているように感じていた。
大西は打ち合わせの試験項目をこなそうと、軽いダイブに機体を入れようとしたその時、富士の方向に光る小さな点を見つけた。
富士山の頂上方向、その高さの二倍くらいの上空に、小さな銀色の気配があった。それを目を凝らして見つめていると、その数を増やして行く。大西は確信した。
《Bさんだ! 五十機はいるな……。示現流彗星砲の初陣は武運がある》
大西は滅多にない同高度上の優位置を占めての空戦に、わくわくしながらも、離陸のときの不思議な皆の視線を思い起こす。
司令も加藤も、同僚も整備兵も皆、大西が戦車砲を積んだ彗星に搭乗するとき、型通りの敬礼で見送ってくれたものの、誰の表情にも何か薄ら笑いが僅かに浮かんでいたのだ。大西自身もニタリとしていた。
《特攻の連中が出て行く時と大違いだな。一万メートル上空で戦車砲をぶっ放すんだ、こっちだって命がけは同じだろうが……。特攻の連中みたいにお国のためにとかの大義名分が薄いからなあ。まあ、辛気臭い顔で水杯でも呑まされるのも願い下げだが》
さらに偶然にも、初試験を実践で出来る興奮が重なって武者震いする。しかし、大西は山崎の姉の手紙を思いだして自分の覚悟を決める。
《特攻での死も、訳のわからぬ示現砲の試験で果てるのも、死は死だ。天皇陛下の死もおれの死も、死には変わりあるまい。犬死も栄光の死も、死んだ後ならどっちだって関係ないじゃないの。大西よ、淡々と死地に赴いて、それを自分で淡々と見届けてやろうじゃないか! 大西の致死という大見世物。舞台はそろった。この1万メートルの空、五十対一、空飛ぶ示現流見参。観客は己一人。山崎、そうだろう?》
大西はそう思うと、風防の上の蒼い虚空を見上げた。自分の心がシーンと静まりかえる。すでに、いつもの大西とは違う静かで落ち着いた、波の無い湖のような心境が大西を支配した。
《……誰もがたった一人で生まれ、たった一人で死んでゆく、か? 上手いこといいやがる》
そう言って、大西はちらちら光る銀の粒へゆっくりと機首を向けた。
一の太刀を疑わず
陸軍さんの迎撃戦闘機・飛燕が数機、左右から必死に上がってきて、側面の離れた位置にやっとついた。高度差の無い状態でそのまま、Bさんに掛かっていった。小さなゴマ粒みたいな飛燕があっぷあっぷしながら旋回して射点に入ろうとするところを、Bさんの上下にある回転銃座の十二.七ミリ機銃、合計八丁がパラパラと浴びせられ、飛燕はガクンとダイブして火を噴いて落ちてゆく。
もう一機の飛燕が特攻のように二十ミリを打ちながら横から突っ込み、Bさんに十数メートルまで接近したが、これも当る前に主翼が折られてくるくる回りながら落ちていった。残った一機はやり方の不味さを悟ったのか、右に分かれて、高度差を取ろうとあせっているようにも見える。しかし、Bさんは高速だ、その機は少しずつ取り残されてゆく。
《なるほど、平行しての側面攻撃はBさんの旋回銃座の餌食になるだけだ。あれだけの火力を防ぐには、相対速度が最大になる真正面からの出会い頭か、上空からの急降下によるしかない》
大西は示現流の正しさを学んで、自分の目標をB29編隊の先頭機に決め、その目標の正面少し上空に少しずつ自分の彗星を運んでゆく。相対速度はおそらく時速千キロにも達するだろう。四十七ミリ砲を撃つ瞬間は一秒も無いかも知れない。ダイブしながらの射撃はもっと難しいと思った。
《真正面、これが一番高い命中率、旋回銃座の上下二ヶ所合計四丁なら、横滑りで何とかかわしながら射点を作れるかもしれない。それの方が示現流らしい》
大西はそう考えて、それ以上高度を取ることをやめ、B29の編隊のその先頭を来る一機と同高度を取り、真正面に彗星を運んで、まっすぐな軸線にその巨体を捉えた。
敵の旋回機銃の弾幕が、大西を取り巻くように流れ始めた。禍々しい光の雨だ。大西は機体をロールさせながら、射点を探るように機首の向きを微調整する。迫り来る丸いB29の操縦席があっと言う間に迫ってくた。
操縦士の小さな顔が見えたとき、大西は心静かに発射ボタンを押した。ドンという激しく短い振動が機体と体に瞬間伝わる。機首が左にぶれた。それはやっと浮いている彗星にとって、小さな肩揺れに過ぎないと思われたが、すぐに左翼の失速になって現われ、次いで吸い込まれるように左翼が九十度下に傾いて、次いで尾翼が天を向いた。その時には目標のB29は大西機のすぐ真上にあって、何かの破片が一緒に飛び散っているように見えた。大西は失速して尾翼が縦方向に回転しているのを感じた。上を向いた尾翼は回転の慣性で今は下を向こうとしていた。回転が速すぎて、風防の外の世界が流れて物体を捉えられなくなった。
《初太刀を放ったら、毎回こうなるということか》
錐揉みに入った彗星の中で、大西は遠くの外の世界を見るのを止め、機体の両翼が付いているか尾部胴体はどうか、激しいGの中、体をひねって点検する。
《分解はしなかったようだ》
息を吐き出しながら機体の無事を確認すると、目を閉じて体に感じる動きに意識を集中する。強い圧迫感が色々な方向からやってきては体を挽き千切ろうとする。エンジン出力を最大にして、プロペラピッチも最大にした。
《完全に錐揉みに入ったな。何かのきっかけが無いと回復しないかもしれない》
操縦棒もフットペダルも失速しているのでスカスカだ。大西は高度計を睨んで空気が濃くなる高度八千までは落ちようと決めていた。風防の外には天と地が交互に映っている。その天が移ったときに、一瞬、黒煙を吐くB29一機が群れから離れて落ちてゆくシルエットが見えた。
《初太刀を疑わずか、示現流とはかくも恐ろしい実践剣。「薩摩の者の初太刀は必ず外せ」、維新の近藤勇の有名な実話だ。鹿児島出身の小園司令らしい》
大西はこのときでさえ、自分が剣法のことを考えているのが可笑しかった。Bさんに初太刀はどうも当ったようだ。発射の反動で弾道は左に逸れたが、操縦席では無く、左翼の何処かにに当ったのだろう。四十七ミリの伝家の宝刀は、確実にBさんを破壊したに違いない。
土手の際に立つ敵に放つ一撃必殺の初太刀、二の太刀はないのだ。その勢い、敵を倒しても勢い余って、自分も土手を転がり落ちる。土手の下で留まるか、その先の川にドボンと落ちるか? しかし大西はそれが防御の最たるものとも思う。
《土手を転がり落ちる奴を追っかけて討ち取るのは難しい。川に落ちられたらなおさらか、初太刀が外されても当っても、そのまま逃げて再び態勢を整えよ》
大西は示現流の創始者、東郷重位がそう言っているように思えた。
《さあ、そろそろ、落ちた土手下から立ち上がろうか》
大西は高度計を見た。大西の体は機体の複合した回転ででたらめに揺さぶられ、その動きに無心で必死に対応している。それを覚悟した自分が静かで穏やかにじっと見つめている。その無作為な心、すべてを受け入れた心境、起こる事を成さしめよう、その結果を積極的に受け入れてやる、そう言う覚悟なのだ。
だから、高度計が八千五百を示すと空気が多少濃くなって、方向舵、昇降舵そして補助翼の手ごたえが少しずつ大きくなるのを敏感に感じ取れた。あとは機首が下を向く動きを察知して、その時タイミングを合わせ操舵する。それで機を垂直降下に入れて、翼から剥離した空気の層流を再び翼にくっ付けてやるのだ。
《今だ!》
大西は、三軸すべての舵に圧力が伝わるように少し逆舵を当てた。それは見事に機体の回転を止め、彗星は真下に向かって急降下する。次は速度計に注意して、時速三百五十キロに成ったところで、静かに機体を起し始めた。その間、約一分のこと。水平飛行に移った時は、機速四百キロ程度になって、今なお、高度八千メートルを保ち、見事に錐揉みから回復していた。
大西が攻撃を与えたBさん五十機の編隊はすでに、数十キロ彼方に去った後で、一つの黒煙の跡が地上に向かって長く伸びていた。もうあの一群に追いつくことは叶わない。
《土手下で留まらず、川にドボンだったか》
大西は機体の外部と内部を隈なく点検する。あの発砲のショックで何処かがズレているかも知れない。時速五百キロで飛ぶ彗星を一瞬にして失速させたあの肩揺れ、
《プロペラ軸線から砲身までの数十センチが作った左肩揺れの動きだな、高度一万の希薄な空気だからありうることだ》
外側も内側も大西が見回せる範囲での異常はない。リベットもちゃんと付いている。
《加藤よ、貴様の仕事もしっかりしとる》
その時再び、富士の方向に何かがまた光った。その光は先ほどよりすでに大きい。
《そうか、後続がいたか。シメシメじゃないか》
陸軍の飛燕が一機、左側面からスウッと大西の側に寄ってきた。さっきの攻撃で取り残され、大西の四十七ミリ示現流戦車砲攻撃をあっけに取られて目撃していたのだ。風防内に操縦士の顔が識別できるくらいまでに近づいてきた。その丸顔の操縦士が歯をむいて笑っている。指で大西機の胴体側面に収納された一式四十七ミリ砲を指差している。そして、前方のBさん第二陣を指差す。
大西も右手で飛燕を指先して、その指を上空に向けた。
《よっしゃ、もう一度、見せてやるよ。飛燕さんには撃ち漏らした奴を頼む》
大西はゆっくりと機首を第二陣に向け、今度は同高度を取るのを止めた。同高度で真正面から突っ込むには、あと二千メートルほど登らなければならない。第二陣はその余裕を与えてくれそうも無く、急速に接近してきていた。
大西は喘ぐエンジンを騙し騙し、九千メートルまで上昇させ、Bさんとの高度差を千メートルまでつめた。
加藤の言葉を反芻していた。
「大西上飛曹、四十七ミリの射程距離は砲身が六.七メートルのときに六千九百メートルです。それも射角を上げて放物線弾道での話しです。砲身はすでに半分になっていますから、おそらく射程は三分の一以下の二千メートル程度だと考えておいて下さい。直線的に跳ぶ距離はその八分の一、二百から三百メートルの距離だと思えます、それでも多少お辞儀弾道になるでしょうけど」
大西は二十ミリも二百から三百メートルまで肉薄しないと、お辞儀弾になって当らないことを知っていた。だからBさん第一陣には操縦士の顔が見えるところまで肉薄して、発射ボタンを押した。
今回は事情が違う。同高度以上という有利点も無い。否、千メートル下という不利が歴然としていた。無理にこの位置から上昇しながら肉薄しても、Bさんの弾幕に餌食にされるのが目に見えている。それに多少は空気が濃くなったとは言え、すでに九千の高空で、発射後は再びあの錐揉みに入ることも間違いない。
《失速錐揉みが防げれば、距離を置いて三秒に一発あの編隊の広がりに連射できるな》
大西は一度機体を軽くダイブに入れて速度を付けた。速度がついたところで操縦棒をじわりと引き込み、先頭のBさんのちょっと手前に機首が向くまで、縦円を描いて上昇させる。その時にはBさんの編隊が斜め下前方下千メートルのところにいる大西機に、その弾幕を浴びせ始めていたところだ。
《この距離じゃ、お前らの弾も当らない》
速度のついた彗星の標準器が先頭のBさんの機首少し手前の空間を捕らえた。大西は発射ボタンを押しっぱなしにして、その瞬間、操縦棒を一瞬右に倒す。彗星の尾翼にある方向舵がパタンと右に折れて、機首を右に振ろうとする刹那、戦車砲が火を噴く。ドンという衝撃波は左への肩揺れを作るが、大西が瞬間に作った右への肩揺れに相殺される。大西は口のなかで数を数える。
《一、二、三、一、二、三、一、二、三》
三を唱えるとき、大西は一発目と同じ様に右に肩揺れを一瞬作った。四十七ミリ戦車砲弾がドン……ドン……ドンと正確な調子で発射され、一発目は先頭機より右後方のBさんの左翼付け根に命中、左翼は完全に折れて錐揉みに入って落下。二発目は編隊中央部の一番右にいた機体の一番エンジンの前部に当ってプロペラもエンジンカウルも吹き飛ばした。ガクンと速度を落としたそのBさんは、黒煙をはきながら高度を落とし降下して行く。三発目は遠く編隊の左側に逸れた。
そこまで確認した刹那、機は再び錐揉みに入った。大西は目を閉じて瞑想に入った。
《見たか! 北辰一刀流、鶺鴒の尾撃ち》
それを最後に、頭の中の言葉を捨て、感情を放下して生と死の狭間にくるくる回り落ちる自分を見つめた。四方八方から圧力が掛かり、足先も手先もぶるぶると振り払われそうになり、首もがたがたに揺さぶられる。二度目の錐揉みは一度目より過激で執拗だ。頭に血が上り、目の奥に強い圧力を感じ、意識が遠くなって失神しそうになる。
その狭間、大西に不思議な高揚感が訪れた。穏やかで優しく満ち足りた気持ちが湧き上がってくる。子供の頃、伊那の広い谷間を流れる天竜川で、無心にメダカを取る夏の日の光景、水が澄み、メダカが素早く仲間と泳ぐ。側に父が居り、優しい声が聞こえる。父の声は、
『ほら!』『あっち!』『これ』
何かを指し示す単語なのだ。それが無性に懐かしくて心地良い。大西は浅瀬にしゃがんでメダカを見つめていたが、右脇横に父がいた。自分を見ている父は嬉しそうな笑顔を浮かべている。その笑顔の唇が動いて何か言葉を再び喋っているのだが、何も聞こえない。
《父さん! なんだよ? なんていっているの?》
大西は子供に帰って訊ねるのだが、川の浅瀬の流れしか聞こえないのだ。
《なんだよ、父さん、聞こえないよ》
そう言って、大西はまた澄んだ水の中を泳ぐメダカを見つめた。その時、上流から真っ白な半紙が流れてくる。水面のさざ波に揺られて、大西の目の前に流れ着いた。大西はその半紙をじっと見つめた。
『さとし、げんきになあれ!』
と、半紙にひらがなの文字が滲みもせずに浮かび上がっている。
「そうだ!」
大西は我に帰って、目を見開く。操縦棒とフットペダルに感覚を戻すと、天から地表の境目に景色が流れる刹那だった。
「南無!」
大西は手ごたえのある全ての舵にあて舵を素早く当てた。ぐわんと音がして機体が軋む。流れる景色が形を持って風防の前に映った。それは日本の大地、蹂躙されても美しい夏の平野。大西はゆっくり操縦棒を引いて機体を水平にした。富士山が見えた。
伊那の谷
生還した大西は、司令に報告する前に陸軍の飛燕搭乗員を探し出し、詳しくその時の客観情報を得た。B29撃墜二機、陸軍との協同撃墜一機。四十七ミリ戦車砲を搭載した彗星12型の初陣は華々しい戦果であった。それは当然、米軍も日本に恐るべき戦闘機が存在することを認めなければならない事態となるはず。
司令は静かに報告を聞き終わると、
「大西、ご苦労だったな。良くやってくれた。貴様ならではの空戦だったな。今後はおれの戦いになる。お前は貴重な師範代になった。あの彗星も貴重だ。ここに置いておくと、空襲でやられたらかなわんから、貴様、暫く長野にでも隠れておれ。そのうち準備が整ったら連絡する」
隊内では緘口令が敷かれ、大西の戦果を日本国民が知ることは無かった。大西は休暇を貰い、長野の実家、伊那谷に戻ることにした。同郷の戦死した山崎の焼香も出来る。
山崎の実家、裏手は杉と松が鬱蒼と茂る小山、前には小川があり、その間に広い庭を持つ武家屋敷だった。小川は天竜川の支流だった。姉の君江は初対面の大西を和敬清寂でもてなし、奥の部屋に通されると仏壇に山崎の遺影があった。焼香し、瞑目して虚心坦懐、友に語りかける。
《山崎、人の死は紙一重だな。お前は死に、おれは生きている。ただそれだけだ。お前が生きておれが死ぬことも同じだ。おれがもし死んだら、お前が焼香にきてくれただろう。おれはそれだけで充分だ。だから、おまえもそうだろう? 山崎》
焼香が終わると山崎の姉が、縁側に誘った。伊那谷の風は少し涼しく、夏の田舎が低い垣根の向こうに開けて見える。庭先の小川が水音をたて、小さな石橋の先に広がる青々とした稲穂が、風で波のように所々揺れている。屋敷の左手には杉の大木が縁側に影を落とし、庭には木漏れ日が映る。古びたちゃぶ台の上の茶碗に茶を注ぐ君江、地味で端正な和服を着て、色の白い小さな顔に山崎に良く似た大きな二重の目が少し俯いている。茶道の心得があるのだろう、君江は寡黙の中に弟への弔いを込めて、清寂にそして悲しみを諦観に代えて、清楚な運びと心配りを見せた。
それは、山崎が死んで早くも八ヶ月が過ぎ、君江の中で弟の死の悲しみも静まったことを意味するのだろうか。
山崎が毎夜語った姉が今、大西の前にいる。その君江、山崎が見せてくれた写真の通りに美しい。写真は今、大西がこっそり大事に持っていた。小さな悟りをその目に浮かべて、君江が静かに言った。
「大西さまは弟の手紙に良く出てきましたの。実の兄のように慕っているといつも言いまして……」
君江は俯きかけたまま、少し微笑む。そして、静かに慈しむようにお茶を差し出す。大西は少し緊張して、君江の佇まいとはかけ離れた朴訥な言葉が出てしまう。
「君江さんの眼差しは山崎に瓜二つだなあ。実は、僕も君江さんのことはもう、耳にタコができるくらい聞かされましてね……、美人で優しくて可愛くて、姉さんのことを考えると、銃殺になってもいいから脱走して伊那に帰りたいといつも言っていました」
君江はさらりと表情を明るくして、朴訥さも受け入れてくれる。
控えめな笑顔を浮かべて、
「弟の甘えがまたでたのですね。弟はとっても甘えん坊で、母親が早世してからは、私をまるで母親みたいに扱うのです。でも、手紙の中で、帰りたい、私に会いたいと口癖のように言っていたのですけど、大西さまにお会いしてからは、余りそういうこと、不思議に言わなくなったのです。実の兄のような人が出来て、私のことを忘れたのではと、大西さまに少し、嫉妬もいたしましたくらい」
君江が懐かしそうに目尻を細めた。姉と母の二役が、今は消えてしまったその切なさ、寂しさが目元に滲んでいる。
「僕のほうは、山崎に散々、君江さんのことを聞かされていまして、もう僕の心は山崎と同じ様に、君江さんのことで一杯になりまして。私も銃殺になっても良いから脱走して会いたいなんて、ずっと思って居りました」
大西は、自分が話すことすべて、君江の気持ちから浮いているような気がした。しかし、お決まりの慰めを言える自分ではないのだ。言えば、君江が傷つくかもしれない。
「大西さまも甘えん坊なのですか?」
君江はそんな大西のどんな言葉も涼やかに受けてくれる。
「はあ、そのとおりです。山崎が何と言っていたかわかりませんが、私は生粋の無骨者、その本意は、母親のようにたおやかで優しくて美しい女性には命をかけて是非甘えてみたい、そう思います」
君江は茶をつぎ足しながら、
「それでは弟と大西さまは似たもの同士でしたのねえ」
「はい、その通り。類は友を呼ぶと申します。同じ人を慕っていたというわけです」
「私のような者を慕うなんて、大西さまも弟も変わっていらっしゃる殿方ですわね」
「いいえ、山崎が語った君江さんは、美しくて優しい、そして弟の面倒を良く見る、さらに家族を支える強い女性でして、今、実際にお会いしてみると、まったくその通り。私、大西聡は一目で降参です」
「弟は大西さまが、お口がお上手とは一言も言っておりませんでしたけれど……」
「その通り、無骨者はお世辞など言えません」
君江はしばらく何も言わず、大西をその思慮深い目で見つめた。大西はその目線が快くても、《おれはどうして、滑稽なことを君江さんに言うのだろう? この人を傷つけたらいかん!》
そう思えば思うほど、話がずれてゆく。
君江はそれを見抜いているのだろうか? それが母のように広くて深い姉ということか。
「大西さま、私も弟からあなた様のことを散々聞かされて、いつかあなた様にお会いしたいと思うようにもなって、自分でも驚いておりました……。今日、あなた様にお会いして、それが素直に腑に落ちましたの。弟がお手紙でお話してくれた大西さまと寸分も違わないのです。不思議といえば不思議ですわね。もう、ずっと前から大西さまを存知あげていたかのようです」
君江はそう言うと、一通の封の切られた手紙を大西に差し出した。
「これは、弟からの最後の手紙、大西さまには是非読んでいただきたいと思いまして……」
略敬、愛しいお姉さま、
お手紙いただいて、姉さんもお変わりなくお元気なようで何よりです。暮れも押し迫ってまいりました。生真面目な姉さん、何かと家の用事でお忙しいと思いますが、寒い伊那谷のこと、風邪など引かれない様にご自愛ください。
こちらは大西先輩と生死の狭間を面白可笑しく、日々、父の教えを守って、戦っています。戦闘は厳しく、敵も優れたりで押されている様にも思いますが、敵うときも敵わぬときも生死一如、結果を思わずその時一瞬一瞬を頑張っています。
……
姉さん、縁起でも無いでしょうけど、もし私に何かあったら、是非、大西先輩に会ってくださいね。なぜかとっても、姉さんと気が合う人のような気がしてならないのですよ。年が明けたら、休暇を貰って大西先輩と一緒に姉さんに会いに行こうという話しになっています。日時が決まったら連絡しますね。戦局で流れるかもしれませんが……。
僕達が頑張らないと、伊那の谷が爆撃されてしまう。そう思うと、姉さんを守るためなら、何でもできるような気がします。たとえ、撃たれて傷ついてもきっと守りますよ。
お正月がすぐそこですね、嗚呼、姉さんと一緒に、火鉢でお餅を焼いて食べたいなあ。
姉さん、風邪など引かれない様に暖かくしてお過ごし下さい。こんをつめたりせずに、我々のことも心配せずに、どうぞ健やかに日々を味わってくださいね。姉さんは僕達がきっと守ります。それではまた、
早々、豊
大西は開けた田園の遠くを見る。大西はやはり、弟の死の時をすべて語ろうと思った。
「君江さん、山崎と私は一つの操縦席の前と後ろ、いつも一心同体でおりました。死ぬときは一緒にと、お互い覚悟も決めておりました。しかし、山崎は私を置いて先に逝ってしまいました。私は……」
「大西様、もうそれ以上仰らないでください。弟の死は、語るよりも思ってくだされば、それが一番、弟への供養になると思います。弟の死は、身近にいらっしゃった大西様が一番良くお分かりですもの。そして、きっと一番辛い思いもされたのでしょう。私には弟のことが良くわかります。きっと一生懸命だったはず……、いつも生真面目で頑張り屋、そんな弟だったのです」
大西は堪え切れずに、堰が切れたように号泣してしまった。そして拳を握り締めて泣きながら山崎の面影を思い、弟の死は黙して語らず、そう言う君江の気持ちと、大西へのいたわりが一度に流れ込んできた。
「山崎は日々を、貴方のために、生きていたのです……」
君江もほろりとして静かに言う。
「私には、もう、甘えてくれる人がいなくなってしまいました。大西さま、ときどき、私に甘えてくださいませんか?」
戦争があり、人の生き死にがある。そしてその後のこともある。成る様に成さしめる天の運び、それを受け入れる心の器、君江の言葉は山崎の想いにも思えて、大西は胸の虚空に爽やかな風が吹いてくるのを感じた。
《逝った人も生きる人も美しい》
大西は君江の優しい涙の浮かんだ笑顔に魅せられながら、そう思った。
隣の部屋では、ラジオから玉音が流れていた……。 (了)
あとがき
この話は作者の父から聞いた実話がもとになっていますが、大部分はフィクションです。この作品がその当時に詳しい方の目に留まり、更なる史実等、正確な事情と事実をご教示いただけたら望外の幸せです。
その後の調査で、戦車砲の正体は陸軍のホ・二○三ではないかと思割れます。そうすると口径は三十七ミリで、携帯弾数は十六発となります。また、搭載形式は機首固定ではなく、斜銃であったのではと言う線が濃厚になっています。
ですが、この物語のほうはそのままにして、新事実のほうはすでに新しい別のお話として書いてしまいました。いつか、この「戦車砲」と並列してお披露目できたらと思います。