第一章
ひどい目にあった、と雄也は嘆息した。
場所は病院の廊下である。思いがけない負荷をかけたせいで、先ほどから地味な痛みを訴える右の腋を気にしつつ、雄也はいまだに不機嫌そうな自分のカノジョを見た。
「なあ、誤解だって言っただろ?芹菜」
雄也の右横で足音も荒く歩いていた北川芹菜は「分かってるわよ」と、とげとげしい声で返す。雄也は額に刻んだ皺をさらに濃くした。
「じゃあ、なんでそんなに不機嫌そうなんだ?」
「不機嫌じゃありませんよーだ」
芹菜はそう言うと少し足を速めて雄也の前に移動し、振り向く。連動するように、彼女の少し茶色がかった髪がさらりと宙を撫でた。
「わ・た・し・は、雄也が入院中ほかの女の子とずーーと一緒にいることが我慢できないの!」
(やっぱり不機嫌じゃないか……)
と雄也は苦笑する。自分の台詞をよく考えずに発言するところも、自由奔放で予測不能な行動も。芹菜のみせるすべてに慣れつつある自分がいることに、雄也は何となく気づいた。
「そいつは不可抗力だろ?少なくとも俺のせいじゃないと思うんだが?」
「女の子の心の中は、理屈では語れないんだよ?」
芹菜が唇をとがらせて言う。無茶苦茶な言い分のようで、それでいて反論できない。
「じゃあ、俺はどうすればいいんだよ?」
「さあ?そこは自分で考えてよ」
「なにそれ、横暴だろっ?」
いつも通りのじゃれ合うような会話を交わしながら「どっちかって言うと、彼氏カノジョっていうより姉と弟って感じだよな」と雄也は思った。ほかの女子よりも格段に近い、それでいて安心できるような距離感。尚大とは違う、でもどこか既視感を覚えるような、そんな関係。
「ちょっと雄也?聞いてるの?」
覗き込むように見てくる芹菜の顔を見ながら、雄也はこの少女と出会ったころのことを思い出していた。
「なあ雄也。帰り、合コン行かないか?」
背後にぞろぞろと「子分」を引き連れた尚大の言葉に、雄也はまたか、と息を吐いた。
放課後だった。九月末。相変わらずの厳しい残暑のくせに、日暮は妙に早い。ほかの高校よりも若干早い時間に終わる三上高校だが、それでも窓から入る日差しは昼間のそれとは明確に異なっており、窓に近い教室の床をオレンジ色に染めている。机や椅子が作る影は黒々としていて、まるで解読不能な古代文字のように見える。
「行かない」
「えー、なんでだよ?」
不満気な言葉を軽い調子で発したのは取り巻きの一人だ。軽薄そうな口調によく似合う肩まである茶髪。少年から漂ってくるきつい香水の匂いに顔をしかめながら、雄也は簡潔に言った。
「めんどくさい」
「えぇー、つれないなあ……」
雄也が意図して飛ばす不機嫌のオーラをすっぱり無視して少年は尚大を振り返る。「どうする?尚大」
「……雄也、参加してくれないか?」
「何度も言ってるけど、なんで俺なんだよ?」
「それは――」
と、尚太は自分の周囲にいる少年たちをぐるりと見回した。「こいつらが頼むから」
「えっ!」
尚大の周りの連中が一様に驚いた表情を浮かべた。事実なのだが言ってほしくなかったらしいな、と雄也は推測した。
「じゃあ、なんで俺に直接言ってこないんだよ?」
「それもそうだな。なんで?」
すっとぼけた口調で雄也に同調する尚大を見て「こいつ、確信犯だな」と雄也は思った。
少年たちはしばらく「う……」とか「そ、それは……」とか唸っていたのだが、やがてもごもごと何か言って帰って行ってしまった。
「あれ?帰っちゃうの?合コンは?おーい」
なおもしつこく傷口をえぐる言葉を投げる尚太の袖を、雄也は引っ張った。「おい……」
「なに」
「もういいだろ」
ため息交じりの雄也の声に、尚大はにやりと笑った。
「悪いな、虫よけに協力してもらって」
比嘉尚大と出会って約一か月がたった。人付き合いの苦手な雄也と、明るく社交的な尚大。正反対だと思っていたが、友達関係は良好だ。尚大が雄也に辛抱強くあわせてくれているのが大きいだろう。尚大には感謝している。もちろん言葉に出したことはないが。
だが、時折厄介ごとに巻き込むのは正直やめてほしかった。雄也はふっとため息を吐いた。
「協力じゃない。お前が勝手に巻き込んだんだろ」
「そうかもな」
悪びれた様子を見せない尚大に雄也はまた、ため息を一つ吐いた。
運動特待生として三上高校に入学した尚大に付きまとう連中は多い。輝いている人間のそばにいることで、自分も輝いている気になれるらしいと、彼らの気持ちが理解できないこともない雄也は推察していた。
雄也はその輝いている人物、尚大に目を向ける。「宿主が寄生虫に迷惑しているのはよく分かったが、その駆除になぜ俺を使う。見方を変えれば俺も寄生虫の一種だぞ」
「はは、雄也は違うさ。それに俺がわざと巻き込んだわけじゃない。あいつらがお前に声かけてくれって俺に頼んできたんだ」
快活に笑った尚大が放った言葉に、雄也は首をかしげた。
「あいつらが俺を?なんで?」
「お前ぐらい顔が良いやつを連れて行けば、相手の方も可愛いやつが出てくるんだとさ。お前は自分で思っているよりも、必要とされてるんだよ」
そんな単純なものなのだろうか。だいたいそれは俺目当てにきている女であって、あいつらには何も得がないんじゃないか、と雄也は疑問に思ったが、
「……それは必要とされてるんじゃなくて、利用されてるっていうんだよ」
と返すにとどめた。尚大がにやりと笑う。
「自分が格好いい、ってとこは否定しないんだな」
「……俺の顔を一番多く見てるのは他人だからな。他人がそう言ったんなら、そうなんじゃないのか?」
「さすが、イケメンの言うことは違うね」
「尚大もなかなか格好いいと思うけど?」
打てば響くような雄也と尚大の会話を「あ、あの……」遮ったのは線の細い声。雄也と尚大はほぼ同時に、いつの間にか自分たちのすぐそばまで来ていた少女に目を向けた。
クラスメイトだ、というところまでは雄也も分かった。だが、それまでだ。人の顔を覚えるのが苦手なうえ、あまり他人に興味を示さない雄也は、その女子生徒を見ても「見覚えあるなあ」ぐらいの感想しか抱けなかった。
「萩本さん」
尚大が驚いたような声を上げた。「何か用かな?」
「あ、えっと……」
外見通り、萩本さんは気弱な性格らしい。雄也はぼんやりと思った。今後の生活に全く役立ちそうもない知識だ。
萩本さんはしばらく「え、えっと」とあたふたしていたが、尚大が優しく「何かな」と促すと、意を決したように顔を上げた。
「せ、関口君に!お、お話があるんです」
「俺に?」
と、完全に虚をつかれた雄也は声を上げた。萩本さんは「キャッ」とおびえた目を雄也に向けた。
「こらこら、脅かすなって」
尚大が割って入る。雄也は不本意ながら黙り込んだ。
「それで、こいつに用事って?」
尚大が萩本さんの方を見る。萩本さんは横目で雄也のことを横目で窺いつつ「はい」と頷いた。
「芹菜ちゃんが、呼んでます」
北川芹菜という雄也を呼び出した女子生徒は、屋上にいるらしい。「定番だな」とニヤニヤする尚大を連れて、雄也は萩本さんの案内の元、屋上に向かっていた。
「それにしてもさ――」
数歩先を歩く萩本さんの小柄なシルエットを、ゆっくりとした歩調で追いかけていた雄也に、尚大がひそひそと話しかけてきた。萩本さんには聞かれたくない話らしい。
「なんだ?」
「萩本さん、お前のことめちゃくちゃ怖がってたな」
ニヤニヤと尚大が笑う。
「……怖がらせるようなことは、何もやってないんだけどな」
「何もしてないのにあれだけ嫌われるって、すごいぞ?」
「オ褒メニ授カリ光栄デス」
完全に棒読み口調の雄也に、尚大は苦笑する。
「それにしても――」
尚大がふと、感嘆の表情を見せた。「屋上に呼び出しってことは、間違いなくあれだよな」
「あれってなんだよ……」
「またまた、とぼけるなって」
妙に高いテンションで小突いてくる尚大を、雄也は煩わしげに払う。
明らかにこの話題を嫌がっている雄也に頓着せず、尚大が尋ねてきた。
「で?ぶっちゃけ何回目?」
「なにが?」
「だから、女子から告白された回数」
「……今月で五回目だ」
嫌そうに言った雄也の言葉に、尚大は「えー!」と極少の叫びをあげた。その声が耳元に直撃した雄也が「うるさい」と尚大の顔を押しのける。
尚大はそんな雄也に構わず、信じられないものを見るような目つきで、雄也をじっと見ていた。
「お前……五回って、毎月か?」
「いや、二学期になって増えた。今まではだいたい月に三回だった」
「なっ――」
尚大は友人の衝撃の事実がよほどショックだったらしい。一瞬固まった後、すうっと大きく息を吸い込む。
「羨ましいんだよ!この野郎!」
尚大が魂の叫びをあげるのと、可哀想なくらいに怯えた萩本さんが、屋上に通ずる扉を開いたのが同時だった。
紅い。雄也は思わず目を細めた。
三上高校は都心から少し外れた、静かな場所に建っているので、都内にしては周囲に背の高い建物が少ない。よって、降り注ぐ陽光をさえぎるものはなく、傾く西日が屋上を鮮やかに染め上げていた。
「あっ、関口……」
その赤いステージの、雄也から見て最奥部。落下防止のために屋上を取り囲むフェンスにもたれるようにして、ひとりの女子生徒がこちらを見ていた。
髪の毛は、降り注ぐ夕日のせいか赤く染まっているが、よく見ればその色は茶色。先ほど追い払った「取り巻き」たちのような、ギトギトとした感じではなく、やわらかい色をしている。地毛かな、と雄也は思った。
しかしなれなれしいな。雄也は内心顔をしかめた。芹菜と雄也は初対面のはずだ。それなのに初めから呼び捨てとは。
雄也はぐちぐちとそんなことを考え、「いや、それは尚大もだったか」と思い直した。それと同時に「これが普通なのかもな」と思う。人と接することに関しては、芹菜や尚大の方が上手だ。
雄也は芹菜に向き直り、尋ねた。
「何か用か?」
言った後で、ぶっきらぼうだったかなと反省する。初対面の異性と話すというシチュエーションは、いつになっても慣れることはない。
芹菜はそんなことは、気にならなかったらしい。柔らかな笑みを浮かべて近づいてきた。
「えーと、まずは来てくれてありがとう」
「いや、大した手間じゃない」
「そう……」
芹菜はつぶやくように言うと、雄也の瞳を覗き込むように見てきた。頭一つ下から注がれる、掬い上げるような瞳。雄也は特に何も言うことなく、その視線を受け止めた。
整った顔立ちだった。目鼻立ちがそれほどはっきりしているわけではないが、ひとつひとつのパーツが、きれいに並んでいる。典型的な日本美人という表現が、一番しっくりくる。
もてるだろうな。そう雄也は思った。そして、ここまで近距離にいながら、これほどまでに冷静にいられる自分は、芹菜に対して全くと言っていいほど、恋愛感情を抱いていないということも気づいていた。
「ねえ、せきぐ……ううん、雄也」
芹菜は雄也の瞳に何かを見たのだろうか。少し恥ずかしげに顔をそむけると、やがて言った。
「――私と、付き合ってくれないかな?」
予想していたとはいえ唐突な告白。雄也は少し面食らった。
芹菜は急かすでもなく、雄也を見ている。雄也はすでに用意していた台詞を――
「ああ、ごめ――ごふっ」
最後まで言い終えることは果たせなかった。
「ごめん、こいつテンパってるみたいだから、ちょっと落ち着かせてくるよ。待ってて」
背後から容赦のない首絞めを雄也に食らわせた尚大は、そう言うと、雄也を引きずって芹菜から距離をとった。
「何しやがんだよ」
当然の非難を飛ばす雄也。だが、尚大がそれを上回る怒気を叩きつけてきた。
「正気ですか雄也さん、あの北川から告られて、あっさりフっちゃうなんて」
「うるさいうるさい、耳元で騒ぐな」
つい先刻と同じように、尚大の顔を押しのける雄也。
「雄也、お前馬鹿だろ?」
「少なくとも、お前よりは成績良いぞ」
「そういうことじゃねえんだよ」
尚大はすでに、未確認生物を見るような目を雄也に向けている。
「全男子生徒の憧れの的!分かる?お前がフろうとしているのはそういう相手なんだぞ」
「知らねえよそんなの、俺が誰と付き合おうと勝手だろ」
「いや、勝手だけど……」
尚大は少し考えた後、そうだと手を打った。
「お前告白を断るのが、面倒だと思ってるんじゃないか?」
「あ、ああ。思ってるけど?」
「やっぱりムカつく……!」
自分で尋ねておきながら、尚大は拳を握りしめて、呻く。「で、でもまあ、それなら北川と付き合った方が得じゃないか」
「……なんでそうなる」
「だって、彼女ができたら、さすがに告白してくるやつはいないだろ」
確かに尚大の言うとおりだ。雄也は黙り込んだ。
萩本さんはいつの間にか帰ったようだ。屋上のコンクリートには三人分の影法師が、奇妙なまでに細長く伸びていた。部活生の掛け声が、遠く茜色の空に響いてくる。尚大は部活はないのだろうか。雄也は視線をゆっくりスライドさせた。
芹菜はこちらを凝視しているわけでもなく、両手を体の後ろで組んで、じっと紅色の空を見つめている。その姿は、暇を持て余す子供のようにも、何かに祈っているようにも見えた。
「分かったよ」
雄也は一つ頷いた。「北川と付き合う」
「……うん」
「どうした?なんか反応薄いな」
「あ、いや」
尚大は苦虫をかみつぶしたような顔をしたが、やがて「なんでもない」と首を振った。
「ほら、そうと決まれば早く行く」
尚大が背中をぐいぐい押してくる。そのたくましい腕に導かれるまま、雄也は芹菜と再び対面した。「ほら、雄也。早く」
「あ、いや、えっと」
断るのには慣れていても、こういう局面は初めてだ。あたふたしていると、芹菜はにっこり微笑んできた。
「落ち着いた?」
「えっ?あ、うん。落ち着いた……かな」
オウムのように繰り返しかけ、あわてて最後の二文字を付け足す。頭の中がいっぱいになると、まともな言葉すら出て来ない。芹菜がくすっと笑った。
「きみ、さっきよりもテンパってるね」
思わず見とれるほどに、美しい笑顔。雄也もつられて、少し笑った。「うん、そうかも」
整った顔だ。雄也は初めて、本当の意味で芹菜の顔を見た。大きな瞳にすらりとした鼻筋。薄い唇。頬が赤いのは、西日を受けているせいか。
じっと凝視していると、芹菜が「?」と目で問いかけてきた。雄也は咳払いをすると、すっと芹菜に目を合わせた。
「さっきの話だけど……」
「うん」
「……付き合うよ」
言葉にするのに時間がかかった割に、雄也の口から出たのは、食事に誘われた時の返事みたいになってしまった。尚大が盛大にため息をつく気配が背中から伝わってきたが、こればっかりは慣れていないのでしょうがない。
芹菜は雄也の言葉にしばらく目を丸くしていたが、やがて噛みしめるように、
「……意外」
といった。
「意外って?」
その返答こそ意外だ、と思いつつ問うと、芹菜は照れ臭そうに笑った。
「雄也って、こういうのは相手がどうとか関係なく断ると思っていたから、意外だなって」
本当はそのつもりだったんだけどな。雄也は自分の良心がちくりと痛むのを感じた。しかし、ここで真実を言ってしまうと、それこそ最低だ。自分の表情を気にしつつ、ややぎこちない笑みを作る。
その笑みをどう解釈したのか、芹菜もまたふっと微笑んだ。ひどく悲しげな笑顔をする子だな、と雄也は思った。
「改めてよろしく、雄也。私のことは芹菜って呼んで」
「分かった、せ、芹菜」
名前を呼ぶとき、一瞬躊躇してしまった。芹菜が穏やかに微笑む。「やっぱりテンパってる」
「慣れてないんだよ」
思わず拗ねたような口調になってしまった。それがまた面白かったようで、芹菜は声を殺してクックッと笑った。
「雄也ってさ、話してみると印象変わるよね」
「割とよく言われる」
もっとも言われるほど親しくなった人の数が、圧倒的に少ないが。
芹菜のフレンドリーな雰囲気に、感化されたようだ。緊張感の薄れたせいか、雄也は先ほどから気になっている問いを投げた。
「なあ芹菜。どうして俺と付き合おうと思ったんだ?」
「お前のことが好きだから、に決まっているだろう」
横からからかうように言ったのは尚大だ。雄也は「だとしたら――」と、芹菜から視線をそらさずに問うた。「俺のどこが好きなんだ」
はたから聞いてみると何とも間抜けな問いだ。しかし雄也は問わずにはいられなかった。
雄也の顔は、確かに整っているとよく言われるが、だからといって「群を抜いてる」というほどではない。クラスのような集団の中でまあ目立つ、といった程度のものでしかない。実際、雄也よりも顔が良い男子生徒など、探せば簡単に見つかるだろう。
お世辞にも、愛想がいいとは思えない雄也。ひるがえって芹菜は、明るく活発な少女。
接点のない二人がくっつくとは思えない組み合わせ。
「なんだかほっとけなかったから」
本気とも冗談とも取れる表情と声で、芹菜は微笑んだ。「見ていて危なっかしかったんだ」
「……ひどいな」
どう返すべきか分からない。まよった末にそう言うと、
「そうかな」
と軽く返してきた。雄也は少し笑った。「帰ろうか」
ややぎこちないながらも、右手を差し出す。芹菜の左手がそれを包み込む。指先を絡ませる勇気はなかった。
「夢みたい」
ぽつりと、芹菜がそうつぶやいた。
「えっ」
「なんでもないよ」
芹菜はそういって、少し照れくさそうに微笑んだ。やっぱり悲しい笑顔だ、と雄也は思った。
あれからもう一か月が過ぎた。
長い間、他人とかかわり合わなかった自分が、三か月の間に友人と彼女を作った。すべてを委ねたわけではないが、それでも信じあえる仲間を持った。
雄也は様々な思いを込めて、目の前の茶髪の少女を見つめた。
「どうしたの雄也。急に黙り込んじゃって」
「なんでもないよ」
芹菜は納得しかねるようだったが、「とにかく」と言って右の人差し指を雄也に突き付けた。
「浮気は許さないからね」
「だから、してないって」
何度目か分からない言葉をまたも言い聞かせながら、目の前のドアノブに手をかける。「ほら、尚大を待たせたまんまじゃまずいって」
「それも……そうだね」
完全に納得したわけではなさそうだが、とりあえず怒りは収まったようだ。雄也は扉を押し開けた。
再び舞い戻ってきた真っ白な部屋。まだ入院して日が浅いはずなのだが、帰ってきたような気分になる。
「お、雄也」
尚大がそういって手を上げる。雄也も松葉杖を支えている右手を、手首から上だけ挙げた。
尚大は視線を、雄也の顔と松葉杖とで往復させると、やがて笑った。
「無茶したなあ、雄也」
「返す言葉もないな」
苦笑してそう返す。「笑い事じゃないよ」と芹菜が雄也を小突き、それがまた笑いを誘った。
「あ、そうだ」
ひとしきり笑った後で、尚大が手をポンと打った。「すごい偶然ってあるもんなんだな」
「どうしたんだ、急に」
「ああ、いや。まさかこんなところで会うことになるとは思わなかったから」
「?」と首を傾げる雄也と芹菜に、尚大はにやりと笑った。
「なあ、理華ちゃん」
笑いを含んだ尚大の声。その声に頷いたのは、先ほどから三人のやり取りをにこやかに聞いていた理華だった。「本当だね、尚大くん」
「二人って知り合いだったのっ?」
大きな声を上げたのは芹菜。雄也も声こそあげなかったが、内心では驚いていた。
「ホント、すごい偶然だよ」
尚大がいたずらっぽく言う。「雄也には行ったことあると思うけど、俺の出身地は――」
「沖縄、だろ」
後を引き継いで雄也が言う。「この間いろいろ自慢させられたぜ。……ってことは、新垣さんも?」
「うん」
と理華が頷く。「小学校が一緒だったんだよ。家も近所で、小さい頃はよく遊んでたりもしてたんだ」
理華の説明に芹菜の瞳がきらりと光った――少なくとも、雄也にはそう見えた。
「えっ、何なに?それって幼馴染ってやつっ?」
目をキラキラと――いや爛々(らんらん)と輝かせた芹菜に詰め寄られ、尚大と理華が病室の隅に追いつめられる。
芹菜はそういう恋愛に関係しそうなものが大好きなのだ。大好物といってもいい。とにかく、それらしき単語が耳に入ると、それこそ凄まじい勢いで食らいついてくる。
尚大は知ってるはずなんだけどな、と雄也は思った。芹菜の恋愛に過敏に反応する性質のことだ。そのことを少しは計算に入れていれば、芹菜にこんなに詰め寄られることはなかっただろうに。相変わらず、変なところで詰めの甘いやつだ、と雄也は苦笑した。
その間にも芹菜は止まらない。尚大の恥ずかしい話がいくつか飛び出したところで、雄也は再三にわたって送られていた、尚大からのSOSに応えることにした。雄也が悠々と観察を続けている間に、尚大の顔は激しい渋面になり、理華はほとんどおののくような目で、芹菜を見ていた。
「おい、芹菜」
後ろから肩に手を置く。このモードに入った芹菜は自身も大きく消耗するらしく、雄也の手が置かれた肩は、呼吸を整えるために大きく上下していた。
「もうその辺にしてやれよ」
「えー、こんなに面白そうなことなのに?」
「新垣さんもいるんだぞ。尚大だけならともかく、新垣さんをこれ以上怖がらせるのはあんまりよくない」
尚大から「俺はいいのかよ!」というツッコミが飛んだが、雄也も芹菜も当然のように無視をした。
「新垣さん新垣さんって、やけにこの子の心配ばかりするよね、雄也」
「そうじゃねえよ」
芹菜からの湿度の高い視線を、雄也は自然にやり過ごした。「ただ、俺や尚大は芹菜のことをそれなりに分かってるからいい。けど、新垣さんはまだ初対面だろ。なら、もう少し気を使ってやるべきなんじゃないか?」
言いながら「なんで俺が人間関係について人にレクチャーしてるんだ」と、憤然とした。
「ふ~ん」
なおもなめるような視線を投げかけてくる芹菜だったが、やがて一つ頷いた。
「雄也の言うことには一理あるね。――分かった、今回はここまでにする。比嘉の面白い話も聞けたしねえ」
芹菜は楽しげに尚大の方を向いた。おそらくこれで、尚大は芹菜に頭が上がらなくなるだろう。雄也は内心で合掌した。
「なあ北川」
若干のためらいを含んだ声で、尚大が言う。「今日ここで聞いたことは、内緒にしてくれよ」
「さあて、どうかなあ」
芹菜は意地悪くそう返すと、「そんなことより――」と雄也に向き直った。
「どのくらい入院するの?」
「ああ、順調にいけば一か月後に退院だ」
雄也も哀れな友人を視界から外しつつ答える。尚太の「そんなことって……」という呆然としたため息が、部屋に響いた。
現在は十一月の末。秋から冬へと季節が変わりゆく時期。
近づく冬の足音に呼応するかのように、夕闇の迫る時間は徐々に早くなっていた。
「もうこんなに暗いんだ……」
病室のカーテンを開けた芹菜が、感嘆と残念さを半分ずつ含んだような声を上げた。
現在の時刻は夕方の五時過ぎ。三上高校は現在テスト期間中で、学校は四限までとなる。尚大と芹菜が制服を着ていることからもわかるとおり、彼らは学校から直接この病院にきている。
尚大と芹菜が見舞いに来たのが午後一時くらいとすると、雄也たちはかれこれもう四時間近く話している計算になる。時間がたつのは早いものだな、と雄也は年寄りじみた感慨を抱いた。
「芹菜はもう帰らなくていいのか」
雄也がそう問うのとほぼ同時に、かわいらしい電子音が鳴った。
「あ、ちょっとごめん」
芹菜はそういうとポケットから携帯電話を取り出した。装飾品を一切付けていないシンプルな外見のそれは、普段の芹菜のイメージに似合わない気がした。
「はいもしもし……あ、お母さん?うん、うん……うん、わかった。うん、バイバイ」
ピッと通話を終了させると、芹菜は「帰らなくちゃ」といった。
「お母さんが早く帰って来い、だって」
「一人で大丈夫か」
外は随分と暗い。この辺りは明かりが多いといえども、女子一人が歩くのは危険だ。
「大丈夫だよ」
明るく笑った芹菜が言う。だが雄也はやはり、心配だった。
「尚大」
友人の名を呼ぶ。尚大は「分かっている」というように、少し顎を引いて頷いた。
「頼むぜ」
「任せとけって」
頼もしい返事。雄也は満足して息を吐いた。
「もう、雄也は心配症だよ」
苦笑交じりの芹菜がひらひらと手を振る。雄也は素直に、
「悪いな」
と言った。「俺の心配症に付き合ってくれ」
「はあ、雄也にはかなわないなあ」
冗談のような口調で、芹菜が言う。その背中を尚大が押した。
「ほら、遅くならないうちに帰るぞ」
「はーい」
遠足から帰る小学生みたいな声音で芹菜が片手を上げる。そしてその手を、ひらひらと病室に残ることになる二人に向けた。
「じゃあね、理華。また来るよ――雄也、私がいないからって何かしたら、分かってるよね」
「うん、またね」
「何かってなんだよ。幅が広すぎて分かんねえんだけど」
理華、雄也の順に声を返す。芹菜は両者に背を向けて悠然と歩み去って行った。
「おい、ちょっと待てよ。おいていくなって」
その背中に呼びかけながら、尚大が雄也と芹菜に向き直る。
「じゃあな、また来る」
「ああ」
「うん」
雄也と理華、二人の声が見事に重なる。雄也は理華と顔を見合わせて、少し笑った。尚大はそんな二人を見て少し笑った後、帰って行った。
「あーあ」
遠ざかっていく尚大の後ろ姿を見送っていると、隣で理華が言った。「久しぶりにたくさんおしゃべりしたなあ、今日は」
その声は、まるで遠足から帰る小学生みたいだ。過ぎ去った幸福を、言葉に出して再確認しているような、そんな感覚。
おそらくこの少女は長い間、同年代の少年少女たちと話すことなんてなかったのだろう。どのくらいの間入院しているのか定かではないが、それは短い時間ではなさそうだ。
「また明日も来るよ、あいつら」
理華は「うん」と、それこそ小学生のような瞳で頷いた。
病室に戻ってしばらく後、二人だけの病室に訪問者が現れた。
「よう、理華。具合はどうだ?」
そう言いつつ入ってきたのは、若い長身の医者。粟野である。
「あ、先生」
雄也と他愛もない話をしていた理華は、入室者を見て微笑んだ。「全然、大丈夫だよ」
「そうみたいだな」
微笑みとも苦笑とも取れる表情で、粟野は頷いた。「それから関口雄也、お前も大丈夫か?」
初対面から呼び捨てには、もう慣れた。雄也は特に何も言わず、首肯のみで答えた。
「それにしても」
粟野は二人を興味深げに見てくる。「雄也、お前なかなかやるな」
何のことだかわからない。
「えーと、何がですか?」
「いやあ、理華とすっかり打ち解けているなあって」
からかっているともとれる口調で、粟野は言う。「年頃の男女が同じ部屋になったら、やっぱり、打ち解けるまではそれなりに時間がかかる、と思ってたからさ」
「ああ、それならたぶん、尚大のおかげですよ」
「尚大?」
「俺の友達です。新垣とは幼馴染みたいで……」
「へえ」
と粟野が、少し目を丸くした。「理華は沖縄出身だったよな」
「うん」
理華が頷く。「尚大くんは運動特待で東京に来たんだって」
「それはすごいな。何の競技なんだ?」
「バスケットボールだって言ってたよ」
「へえ、バスケは俺も昔やってたんだ。会ってみたいなあ」
「明日も来るんじゃないかな。ねえ、関口くん」
仲のよさそうな二人の会話を、ぼうっと聞いていた雄也は、突然のフリにあわてつつ、「あ、ああ」と返した。
「そうか、何時ぐらい?」
「多分、一時ぐらいからならいるんじゃないかと。あとは暗くなるまでですね」
粟野はまた「そうか」と頷いた後、ふと雄也に顔を寄せてきた。
「それより雄也」
耳の近くでささやいてくる。雄也は反射で払いのけそうになるのを、何とか堪えた。「理華がなんで入院してるか、知りたくないか」
「いえ、特には」
なるべく平坦な声で返す。が、自分の声が少し高くなったのを感じ、雄也は内心舌打ちをした。
本音を言うと、雄也もそれは気になっていた。理華は特に外傷らしいものはないし、話してみた感じでも病人然とはしていない。
だが、それを本人に聞くのはためらわれた。もし思いのほか重い病で、その場の空気が重たい雰囲気になるのが嫌だったからだ。しかし、それを他人から聞くのも間違っている気がする。
粟野はそんなの雄也の内心を「分かってる」と言わんばかりの顔をすると、重々しく語り始めた。
「実は理華は――そろそろ退院が近いんだ」
「えっ」
理華本人のためには失礼だと思うが、雄也はひるんだ。粟野の言葉が、声の重々しさからすると予想外だったからだ。「それは、なんというか……おめでとうございます……?」
粟野は見当違いの祝福の言葉を言った雄也をじっと見つめていたが、やがてこらえきれなくなったように、ククッと笑った。
「お前、面白いな」
ここに至ってようやく、雄也は自分がからかわれたことに気付いた。
「……不謹慎っていうんじゃないんですか、そういうの」
「そうでもないさ」
精一杯の皮肉を、粟野は軽くかわす。「ま、理華ぐらい長い付き合いの患者じゃないと、こういうことは言えないけどな」
言葉の後半は慰めか言い訳か。懲りた様子のない粟野の反応に、雄也は小さくため息を吐いた。
「まあ、まじめな話、理華の症状はそれほど大きいわけじゃないんだ」
そんな雄也が哀れに見えたのか、粟野は苦笑交じりに語り始めた。
「ただ理華の体はあまり強いとは言えない――と言っても、先天的免疫不全症とかそういうほどじゃないけどな。まあ、それでちょっとした風邪とかにも気を遣わなけりゃならないんだ。で、今回は大きく体調崩したから、念のために病院に入院してもらった、てなわけだ。ただの風邪をこじらせただけみたいだし大事はない。遅くとも年明けには退院できるだろうよ」
「だから、そういう話は本人に内緒ですることじゃ――」
「ばっちり聞いた後で何いまさら言ってるんだよ」
「うっ……」
「何なに?何話してるの?」
理華が横合いから聞いてくる。雄也は「なんでもない」と答えた。
「えー?何それ。気になる」
「ホントに何でもないって」
雄也は少し声を大きくして、これ以上の追及を避けた。「それより、新垣は来月に退院なんだろ?」
「うん、そうだよ」
理華は少し嬉しそうに頷いた。上手く話題をそらすことができ、雄也はほっと息を吐いた。
と――
………キーンコーンカーンコーン
聞き覚えのある鐘の音が、響き渡る。と同時に、病室が真っ暗になった。
「うわっ?」
思わず声を上げる。が驚いているのは雄也だけのようで、
「関口くん、慌て過ぎだよ」
と理華が笑い、
「おっと、もうそんな時間か」
と粟野が言った。
「なに?これ」
「消灯時間ってやつだ」
暗闇から粟野の説明が入る。「お前みたいな精力あふれるガキに夜中まで騒がれると、入院している他の患者の迷惑になるだろうが」
「……はあ、なるほど」
と頷くと、粟野は「分かったらさっさと寝ろ」と言って、病室から出て行った。
暗闇のなか、手探りで手繰り寄せたシーツと毛布をかぶる。ひんやりと冷たい感覚が、服越しに肌にしみた。
カチカチ。毛布を鼻まで引き上げて、包まるように体を横たえる。壁にかかった時計の秒針が刻む規則正しい音を聞きながら、雄也は暗い天井を眺めた。
暗闇のなかで、眠気が訪れるのをじっと待つ。雄也はこの時間が好きだった。
夢と現実の間に落ち込んだような感覚。体が浮遊し、夢の世界と現実の間を揺れ動く。
「まだ起きてる?」
暗闇から声が飛んできた。雄也は襲いくる眠気を払いつつ「うん」と答えた。
「高校って楽しい?」
「えっ」
唐突な問いだ。理華の恥ずかしそうな声が、聞こえてくる。
「私、三月の終わりから入院してるから、高校生活をまだ体験したことがないんだ。退院したら通うことにはなるんだけど……」
「へえ、どこの高校なの?」
雄也の問いに、理華は「あれ?言わなかったっけ」と言った。カーテン越しに首をかしげる気配が伝わってくる。どうやら隣のベッドを使っているらしい。今更ながら、自分が置かれた状況を悟り、雄也は顔を赤くした。
理華はそんなことが気にならないのか、それともまだ理解していないのか。慌てる様子もなく、会話を続ける。
「関口くんたちと同じ、三上高校だよ」
「えー!」
思わず大声が出た。
「シー!関口くん、声大きい」
「ご、ごめん」
素直に謝っておく。「それにしても、本当にすごい偶然だなあ」
「ホントだね」
理華が小さく笑う気配が伝わってきた。「それで、どう?やっぱり高校は楽しい」
「うーん」
雄也は少し考えた後、
「やっぱり、そういうのって人によるんじゃないかな?」
といった。「俺の場合は、よく分からないっていうのが本音かな」
「そうなの?」
理華が心底意外そうに聞いてくる。「中学校の方がよかった?」
「どうかな、それもわからない――ただ、」
「ただ?」
「ただ、高校で手に入ったものもある」
芹菜や尚大の顔が浮かぶ。中学校までは手に入れられなかったもの。変わったのは俺か、それとも周りか。
「いいなあ」
理華がポツリと漏らした。
「新垣も来月から入るんだろ、高校」
「うん」
答える声には、あまり張りがなかった。「でも、さすがに年齢通りにはいかないから、結局、来年の一年生と一緒に入学っていう形になるんだ」
「その辺がやっぱり不安?」
「ううん、そうでもないよ。でもやっぱり、関口くんたちと一緒の学年が良かったなあって」
「そっか……」
雄也はそう、呟くように答えた。
本当は、慰めの言葉をかけてやるべきだとわかっていたし、雄也も理華を慰めてやりたかった。だが、言葉というのは簡単なようで難しい。どんな慰めの言葉も雄也の口から吐き出されることはなく、ただこの部屋の暗闇に紛れて、消えていくだけだった。
「ねえ、関口くん」
「ん?」
「これからは……雄也くんって呼んでいい?」
「えっ」
なぜ急にそんなことを言い出したのか、真意が分からない。「どうしたんだ?急に」
「あ、迷惑だったらいいの」
「い、いや、迷惑じゃない」
少し泣きそうな声になった理華に、雄也は見えないと知りつつ慌てて手を振った。「ただ、ちょっとびっくりしたんだ」
理華はしばらく黙っていたが、やがて「だって」と口を開いた。
「尚太くんも芹菜ちゃんもそう呼んでたから……」
恥ずかしそうな口調。それを聞いて、雄也は逆に緊張から脱した。
「あいつらは『くん』なんて絶対につけないけどな」
と苦笑する。「いいよ、下の名前で呼んでくれても」
「うん、ありがとう」
くすぐったそうな理華の声が、雄也の鼓膜をそっと震わせる。「代わりに、私のことも理華って呼んで」
「えっ」
「だって、そう呼んでくれてないの、雄也くんだけだもん」
少し拗ねたような口調。暗闇のなかで赤くなっている理華の顔が、容易に想像できる。
「分かった」
と雄也は言った。「おやすみ、理華」
カチカチ。時計の秒針は規則正しくリズムを刻む。それに誘われるようにして、雄也は眠気に身を委ねる。
理華はさみしがり屋だ。隣で眠る少女について、新たに分かった事実がある。
眠りつく瞬間、雄也は「おやすみなさい、雄也くん」という声を、聴いた気がした。
入院生活は、基本的に暇だった。
病院に流れる例のチャイムによって、就寝時間は定められているが、起床時間は特に決められていない。診察のない日であれば、いつまでも寝ていられる。
雄也もこれ幸いと、尚大たちが顔を出す昼過ぎまで寝る生活を送っていたが、わずか二日で飽きてしまった。
「あ~、これ以上寝れないってくらい寝た」
ベッドの上で雄也は大きく伸びをした。時計を見ると短針はきっちり「八」の上にある。入院している老人たちが、毎朝日課にしているラジオ体操の音が、細く開けられた窓から流れ込んでくる。この寒い中よくやるものだ。
「おはよう」
先に起きていたらしい理華が、部屋に入りながら言った。
「おう、おはよう。どこ行ってたんだ?」
「一階に本を探しに行ってた」
理華が手元の本を見せてきた。『星の王子さま』。有名な小説だ。雄也も読んだことがある。
飛行機のパイロットである「僕」は、砂漠で不時着中に不思議な少年と出会う。なんと少年は遠い星からやってきた王子さまだった。飛行機の修理をする間に、「僕」は王子さまから様々な話を聞く。
王子さまの、その子供のように純粋な心は、目の前の世界のありのままを切り取って見せてくれる。その語りひとつひとつが、まるで夜空にきらめく星のように、曖昧とした思考の暗闇に鮮やかな切り口を加える。
「それ、好きなの?」
「うん」
会話のつなぎ程度の軽さで発した疑問に対して、理華の答えは思いのほか強い口調だった。理華がそっと本の表紙を指でなぞる。白くきれいな指が動くさまは、この世のものとは思えない。
「もう、十回くらいは読んだかな」
「へえ」
感心して雄也がそういったのとほぼ同時、机の上の雄也の携帯が震えた。
「はい、もしもし」
「あ、雄也?」
電話をかけてきたのは芹菜だった。
「どうした?っていうか、今は朝補習中じゃないのか?」
尚大のような運動特待生を除けば、基本的に三上高校は進学校だ。朝補習は必修とされているはずである。
「忘れたの?雄也」
芹菜の小さく笑う声が、雄也の耳朶を携帯の向こう側から撫ぜる。「今はテスト期間中だから、補習はないんだよ」
「ああ、そうだったな」
毎日のように尚大と芹菜が病室でだべっていたので、テスト前だということをすっかり忘れていた。尚大は特待生だからともかく、芹菜は勉強しないとまずいのではないだろうか。
「芹菜はテスト、大丈夫なのか?」
思ったことをそのまま口にすると、
「そう、それなんだよ~」
と少々(しょうしょう)芝居がかった口調の返事が返ってきた。
「どれだよ」
返しながら窓際に立つ。細く吐いた息が白い煙になって、曇天の空に流れていく。眼下では老人たちが、腕を振り回したり体をひねったりしている。同じ音楽を聴いているはずなのに、だれ一人として同じ動きをしている者がいない。
「――――」
芹菜が何か言った。老人たちの挙動に気を取られていた雄也は、うまく聞き取ることができなかった。
「なんて言った?」
そう言いながら、窓を閉める。そろそろ体温が低下しすぎていた。触れた窓枠は長時間外気と触れ合っていたせいか、冷えた雄也の指よりもさらに冷たかった。
「もう雄也、ちゃんと聞いてる?」
「ごめんごめん」
芹菜の呆れ声に、見えないと知りつつ頭を下げる。「で、なんて?」
「今日は友達と勉強会をするから、お見舞いにはこれないって言ったの」
「ああ、なるほど」
そちらを選んだのは正解だろう。むしろテスト勉強を始めるには遅すぎるぐらいだ。
「尚大はどうするか、聞いてるのか?」
「うーん、分かんない。来るんじゃない?」
尚大たち運動特待生は、基本的に出席日数が足りていれば進級できる。勉強ではなく運動をするために学校にきているのだから、テストを気にしなくていいのは、当然と言えば当然かもしれない。
「分かった。勉強頑張れ」
「うーん、テスト受けない雄也に言われても、説得力ない」
芹菜はそういって笑った。「でも、ありがと」
通話を終えた雄也は、窓枠から手を離して室内に向き直る。目の前に理華の顔があった。
「うわあ」
思わず片足で後ろに跳びすさる。同時に窓で後頭部を強打した。
「いってぇ」
「大丈夫?」
思わず呻くと、理華が心配そうに声をかけてきた。「大丈夫」と答える。
「なんで真後ろに忍び寄ってたんだ?」
「ねえ、雄也くん」
雄也の問いには答えず、理華は口を開いた。「芹菜ちゃんのこと、好き?」
「えっ?」
「……ごめん、なんでもないや。忘れて」
するりと逃げるように、理華の顔が遠ざかる。雄也は思わず伸ばしかけた手をこらえた。
「どうしたんだ、急に」
「ううん、なんでもないの」
理華はそういって笑った。「で、なんていう電話だったの?」
「ああ、あれは芹菜からで――」
雄也は説明をしながら、さっきの理華の言葉を思い返した。
――芹菜のことを好き、か。
あまりにもさりげなく溶け込んできたせいで、雄也自身がその事実を見失いそうになるが、芹菜と雄也は恋人である。そして、雄也が芹菜と付き合った理由は、はっきり言って褒められたようなもんじゃない。
ほかの女子を寄せ付けないため。
理華のさっきの台詞は、そんな理由で芹菜を利用した、雄也のそのいい加減さを感じ取って発された台詞か――または、雄也の心の奥にある、うしろめたさを見透かされたか。
雄也が安易な理由で芹菜と付き合ったことを後悔し始めたのは、付き合いはじめてすぐだった。
雄也も思い違いをしていたのだ。雄也の容姿は異性の注目の対象になるようなものだ。雄也はそれを自認している。そして女子の中には、自分の彼氏をブランド物のように見ている者がいることも知っていた。彼女らにとって、付き合う異性とは自分のステータスの一部なのだろう。雄也は芹菜もそのような一員であると思っていた。
あの誰からの告白も受け付けない男を彼氏とすれば、周囲の自分の見る目はより輝くだろう。そんな動機で告白してきた相手だ。逆に利用しても罰は当たらないだろう。そんな風に思っていた。
雄也はすぐに自分の勘違いに気付いた。それというのも、芹菜は雄也と付き合うことを誰にも明かさなかったからだ。雄也をブランド物として扱うつもりだったなら、そんなことはないはずだ。
デートと銘打って芹菜の買い物に付き合うときも、学校の帰りに手をつないで歩く時も、芹菜は笑顔だった。その笑顔に雄也も笑みを返しながら、自分の胸にある罪悪感を必死に押し殺していた。
雄也が罪悪感に苛まれていることを、たぶん尚大は気づいていたと思う。ただ、尚大は自分から言い出した手前があるのか、何も言わなかった。ときおり、同情とも後悔ともつかぬ視線をよこしてくるだけだった。
芹菜と付き合って二か月近く経った今は、その罪悪感は徐々に薄れていっている。しかしそれは感覚が鈍磨しているだけであることを、雄也はよく分かっていた。それはいわば慣れであり、雄也がやったことに変わりはないのだ。
異性の気持ちを踏みにじるに等しい行為に、慣れで対応しつつある自分。雄也にはそれがとても恐ろしいものに思えた。
だが、かといってすべて芹菜に打ち明けようとも思わなかった。それこそ、芹菜の好意を踏みにじる行為だ。そんなことをしたところで誰も幸せにはなれない。雄也の自己満足で終わるだけだ――。
いや、これも言い訳だな。雄也は内心苦笑した。
結局のところ、雄也は怖いのだ。真実を知ったときに、芹菜がどんな顔をするのか。あの端正な顔から、いつも雄也に笑みを向けてくれていた唇から、どのような罵倒があふれるのか。それは雄也が受け止めなければならないものだとは分かっているのだが、その時を想像すると雄也の体は恐怖で震えた。尚大と同様に、この短期間の間であの茶髪の少女は雄也の心の相当深くに入り込んでいるようだ。少々情けなくはあるが、雄也はこの時ようやくそう自覚した。
そのうえで最初の問いに戻るのだが――。雄也は思いを巡らせる。芹菜のことが好きか、という問いだ。
雄也は芹菜のことは好きだ。だが、それは理華の言う『好き』とは、性質が異なるもののような気がする。雄也の芹菜に対する『好き』は、おそらく一般的に『友達として』と呼ばれるものだろう。だからこそぬぐえない罪悪感なのだ。
では、ほかに気になる異性がいるのかというのかというと、そういう訳でもない。というか、異性に抱く『恋愛感情』と呼ばれる感情が、雄也にはよく分からなかった。
大切にしたいと思うことが恋愛感情なら――離れたくないと思うのが恋愛感情なら、雄也は芹菜も尚大も大切にしたいし、離れたくないとも思っている。かといって、雄也は二股のホモではないだろう。
やっぱりよく分からない。友人と好きな人の線引きはどこで行われるのだろうか。そもそも、恋愛対象は友達になれないのだろうか。そうではない気がするが、断言もできない。
その辺のことがよく分からない雄也から見て、簡単に告白できる人たちの気持ちは理解できなかった。理解できない者は苦手だ。告白してきた芹菜と付き合っている雄也の考えとしてはおかしいかもしれないが、それもこれ以上告白してくる人数を減らす、という理由あってのものだ。
結局今の雄也にできるのは、芹菜に秘密を漏らさぬままで付き合っていくことだけだ。それ以上のことを望む必要はないのだろう。少なくとも今は、それがたとえ見かけ上のものだけであろうとも、雄也の周りの世界は平和に回っている。内側を探れば、尚大にも芹菜にも何か思うところがあるだろう。雄也にももちろんそれはある。
でも今は、この心地よい空間に浸っていたかった。いつかは向き合わなければならないことを分かっていても、今すぐにこの関係を壊すのは性急すぎると雄也は思っている。おそらく尚大も、芹菜も同じように思っているのではないだろうか。
お互いがお互いを探って。傷つけないように、傷つかないように。思いやりと自己保身の天秤のバランスを保ちながら、まるで牙を剥くすきを窺いながら立ち回る猛獣のように、お互いの距離を測りあう。それが最も友好的な在り方ではないかと、雄也は最近思っている。
その日は結局、尚大も病院に現れなかった。
雄也が病院で得た平穏は、思いのほか早くに破られることとなった。
「あの、関口くんにお見舞いの方がきていますけど……」
どこか困惑気味の看護婦さんにそういわれたのは、芹菜と尚大が顔を出さなくなってから、数日後の金曜日のことだった。
三上高校の期末考査は一週間にわたって行われる。月曜日から金曜日にテストが行われ、土日で採点をするという流れだ。テスト前の一週間はテストの準備期間として、学校は四限までとなる。この準備期間も含めた二週間を、テスト期間と呼ぶのだ。
おそらく尚大か芹菜だろう。芹菜はテストがやばかった、とか言って落ち込んでいるかもしれない。
「どうぞ、通してください」
言ってから違和感に気付いた。慌てて看護婦さんを呼び止める。
「なんでしょうか」
「いや……今まで尚大たちが来てた時は確認なんかしてきませんでしたよね。だから、急に確認とったりして、どうしたのかなあ、と思って」
雄也がそういうと、看護婦さんは少し顔をしかめてから雄也に向き直った。
「尚大、という方は知りませんが――」
どうやらさっき顔をしかめたのは、尚太の名前を思い出そうとしていたらしい。「今日こられた方は初めて来られた方のようです。関口君の同級生だとおっしゃっておられますが?」
「えっ?」
雄也は思わず声を上げた。尚大と芹菜以外で雄也のお見舞いにくる同級生など、見当がつかなかった。
「なんですか?『えっ』って」
「あ、いえ……」
思い当たるのは女子だ。芹菜と付き合っても告白してくる女子の数は変わらなかった。芹菜が雄也と付き合っていることを公にしていないので、当然と言えば当然だが。
「男ですか?女ですか?」
と尋ねると「男です」と返された。となると、完全に見当がつかなくなる。
「えーと……どんな奴でした?」
「……髪を茶色に染めた方です」
残念ながら、雄也の高校ではあまり珍しいことではない。「他には?」と尋ねる。
「他に?うーん……すみません、他に特徴となるようなものは……」
「そうですか……」
「すみません。関口くんのお役にたてなくて」
どうでもいいが、この人の敬語は変だ。雄也はいまさらながら思った。言葉遣いはすごく丁寧なのに、呼び名だけは「関口くん」。違和感がありすぎて、名前を呼ばれるたびに気恥ずかしくなる。
「それで、どうしますか?面会を拒否することができますが……」
「いえ、会います」
雄也は首を振ってそう答えた。誰が来たかよく分からないとはいえ、それほど警戒する必要もないと思ったからだ。
「分かりました。ではこちらにお連れしますね」
「いえ――」
出ていこうとした看護婦さんを、再び呼び止める。同時にちらりと室内に目を走らせた。
「――俺が行きます。一階の談話室で会います」
杖を手に取る。確かにそれほど警戒する必要はないが、手放しで安心できるわけでもない。指名がかかった本人である雄也は仕方ないにしても、病室に招き入れて、理華に迷惑をかけることはできない。
「行ってらっしゃい」
背中にかかった理華からの声に軽く手を上げると、雄也は病室のドアを閉めた。
「久しぶり」
談話室に人影はなかった。いつもは暇を持て余した老人たちが、少なくとも一人はテレビを見ているのだが、幸か不幸か今日は老人たちも皆、何か用事があったようだ。
雄也はソファに腰掛けながら、対面する相手をまじまじと見つめた。
確かに茶髪以外に特徴のない人物だった。背丈は、クラスの中でもだいたい平均的なところにいる雄也より少し高いくらい。ひょろりとした印象で、見た目的にはひ弱そうな感じがした。
「えーと……久しぶり?」
再び挨拶をしてきた少年に、雄也は答えた。
「すまんが、俺はお前のことを覚えてない」
「へっ?」
「あーいや、人の顔を覚えるのって苦手なんだ。悪いな」
「は、はあ」
曖昧な表情で少年は頷くと、少し背筋を伸ばした。
「僕の名前は園田達彦。先日はどうもありがとう」
「あ?先日……ってなんだ?」
雄也がそう返すと、少年――達彦は、力が抜けたようにソファからずり落ちた。
「いろいろと予想していたけど、この反応は予想外だったなあ」
「だから何がだよ」
「はあ、本当に覚えてないみたいだね」
ため息交じりにそういうと、達彦はもう一度しっかりとソファに座りなおした。
「君が入院することになった原因は?」
「屋上から飛び降りたやつを――あっ」
「そう、やっと思い出してくれたようだね。僕がその飛び降りた本人だ。だから、君は僕の命の恩人になる。だから今日は、君にお礼を言いに来たんだよ」
達彦はそういうと、再び雄也に頭を下げた。粗雑に染められたその茶色い髪が、彼の表情を隠す。
「あー、いや」
雄也は突然頭を下げた達彦に何と声をかけるべきか分からず、視線を泳がせた。陰口を言われるのはいい加減慣れていたが、同世代の同性に感謝されることなんてほとんどないことだ。
何も答えない雄也を、達彦は待つようにじっと見ていたが、やがて諦めたようにふっと笑った。
「……なぜあんなことしたのか、とは言わないんだな」
「えっ」
「まあ、当然だろうな。お前は俺なんかどうでもいいんだろうから」
「えっ、あ、いや――」
「慰めとか……そういう安っぽい言葉はいらないよ」
雄也が言葉を発する前に、遮るように少年は言う。「分かったんだ。お前に助けてもらったあの時に、お前は俺なんか見ちゃいなかった。違うかよ」
雄也は疑問口調ではない達彦の問いに応えようと口を開いたが、やがて何も言うことなく口を閉ざした。達彦の言ったことが、図星とまでは言わないが反論できない程度には的を射ていたからだ。
「なんか言えよ」
雄也が何も言わなかったことで歯止めがかからなくなったのか、達彦の口は止まらない。
「お前が俺を助けたことは正しいさ。どうしようもなく正しい」
「……」
「俺はさ、あの時に死ぬ気だったんだよ。ホントに生きているのが嫌だったんだよ。俺なんて――俺なんて、お前と違って誰の役にも立たない人間だから」
「そんな――」
「うるさい!」
切り裂くような金切り声が響く。視界の外から何かが落ちるような音が聞こえる。雄也は飲まれた様に黙り込んだ。
「お前に、何が分かるっていうんだ」
唸りのような声が、達彦の唇から低く漏れ出す。「お前に分かるかよ、他人の目を気にする気持ちが。――分かんないだろうな、他人のことなんて気にもしていないおまえには!」
達彦の瞳はどこまでも昏く、覗き込んだら戻れない気がした。その濡れたような瞳が、雄也だけを見ている。静かすぎるほどの怒りをたたえて、ただ雄也だけを見ていた。
「……」
それでも、雄也にできるのは沈黙だけだった。言いたいことは喉まで上がってくるのに、それが音となることはなかった。
「お前が俺を助けたのは、お前の単なる自己満足だ。そんなの――迷惑だ」
吐き捨てように言った達彦の言葉が、彼の濁流のように流れた思いのすべてだった。雄也はゆっくりと視線を落とした。沈黙が静かに降りた。
「……ちょっとよろしいでしょうか」
沈黙を破ったのは、先ほど雄也を案内した看護婦さんだった。雄也の背後に立った彼女は眼光鋭く、口調だけは穏やかに言った。
「院内での大声はお控えください。ほかの患者さんのご迷惑となります」
「あっ」
達彦があわてて周りを見渡す。雄也も遅れて状況を把握した。
雄也と達彦は、ロビー中の注目を浴びていた。その中に芹菜と尚大の姿をみとめて、雄也は初めて泣きたくなった。そんな自分の心理に、雄也自身が驚いた。
「あ、あの……俺は――」
何か言おうとした達彦の声を、看護婦さんは首を振ってとどめる。達彦の肩がガクリと落ちたように、雄也には見えた。
「……失礼しました」
ちらりと雄也を見た達彦は、そう言って去って行った。院内にしみ込むように徐々にいつもの雰囲気が戻ってくる。でもそれはどこかぎこちなく、雄也を中心に触れるのを避けるように感じられた。
「雄也」
呼ばれてようやく顔を上げる。目の前いっぱいに、心配そうな芹菜の顔があった。少し顔を巡らせる。
「……尚太は?」
「なんか、さっきの奴を追いかけていったよ」
出入り口の方を顎でしゃくって、芹菜は言った。「それより雄也、病室に戻ろうよ。久しぶりに理華に会いたいな」
にこりと笑う芹菜。どうやら先ほどのことには、触れないようにしてくれているらしい。その暖かい心遣いが、うれしくもあり、どこか腹ただしくもあった。
「……ん?」
立ち上がりざまに、小さく声を漏らした雄也に、芹菜がいぶかしそうな視線を送る。雄也は「なんでもない」とごまかして、松葉杖を手に取った。問題ないと判断したのか、看護師さんが離れていく。雄也と芹菜も、ゆっくりと病室に向かって歩き出した。2人分の足音と松葉杖のコツコツという音が、リノリウムの床に反響する。
あいつ、名前なんだったけ?
雄也はひっそりと考えた。つい先ほどまで対面していた少年の名前が、全く思い出せなかった。
お前は俺のことなんか、見てなかった。
つい先ほどの少年の言葉がよみがえる。本当にその通りだ、と思った。
人が初めて劣等感というものを抱くのはいつだろう。
例えば、雄也が初めて劣等感を自分の中に認めたのは、幼稚園の運動会の時だ。かけっこで一緒に走った健斗君は、子供心に「絶対に敵わない」と思うほど、圧倒的に足が早かった。
「頑張ったね」
そう笑う母親に「うん」と返しながら、自分と同じように母親に手を引かれている健斗君の後ろ姿をじっと見送っていたのを、雄也は今でも覚えている。
あの胸がむかむかして体中から気力が徐々に抜けていく感覚を、あのころの雄也は呼び方さえ知らなかった。それでも運動会の続く中で、ふとした拍子に活躍する健斗君を目で追っていたりする自分に気付いていたし、心のどこかで健斗君が何かを失敗することを期待している自分に驚いたりした。
それでも次の日、雄也は元気に幼稚園に行き、健斗君を含めた友達たちと元気に遊んだ。健斗君を見ても、あの胸のむかむかは現れなかった。
あの頃はそれで良かった。自分のことで精いっぱいで、周囲と自分を比べる余裕なんてなかったし、友達と遊ぶことにすべてを傾けて没頭することもできた。一日一日が新鮮で、ただ生活することで満たされていた。
しかし小学生の高学年ほどになると、周りを見ることができる余裕ができてきた。
もちろんそれは、悪いことではない。むしろ当然のことだ。周りを見ることができない者は、子供の社会でも孤立する。大人になったときは言うまでもなく、だ。
だが、周りを見る余裕ができるということは、周りと自分を比較できるようになるということでもある。ある程度視野が広くなったものは、見たくないものも見えるようになるというわけだ。
雄也は小学生のころから大抵のことができる子だった。だがそれは裏を返すと、雄也は特筆すべき点のない子だったということである。雄也が得意だと思っていることがあっても、それを雄也よりも得意な人物が必ずいた。中学に上がるころには、雄也はあまり人と関わらなくなっていた。
人と関われば、必ずその相手と自分とを比べてしまう。比べた結果、自分が相手に劣っているものが、少なくとも一つ見つかる。その差異がなけなしの自尊心を傷つけ、その相手との関係に負の感情を挟んでしまう。それはとても疲れることだ、と雄也は十二歳で気づいた。気づかずにはいられなかった。
雄也はクラスでも遠巻きにされるようになった。すでに彼に寄ってくるのは、面食いの女子かその女子に興味を持ってもらいたい男子だけになっていた。それらも雄也がすげなくあしらっていると、いつの間にかいなくなっていた。
小波ひとつ立たない水平線のような人生。それでも呼吸は問題なくできる。心臓は問題なく鼓動を刻む。それが賢い生き方だと雄也は思った。少なくとも、その時まではそう思っていた。
雄也の生き方が大きく変わることになったのは、中学のときだった。
人と関わることを極力避けてきた雄也だったが、唯一と言っていい外部との接点があった。小学生のころから続けてきたサッカークラブに所属していたのだ。
サッカーは雄也の心の支えとなっていた、と言っても過言ではなかった。長く続けてきた故かレギュラーの座も手に入れて、自分が自分であることを客観的に認識してもらえる場だったからだ。だがそれも、永遠の安寧を約束してくれる場所ではなかった。
ある日、雄也は新しく入ることになった二人の教育係を任された。なぜ雄也が選ばれたのかというと、その二人組が雄也と同じ中学二年生だったからだ。チーム内での雄也は真面目で通っていて、「とりあえず雄也に任せておけば無難」といった雰囲気がチーム内にあった。
二人組は互いに知り合いのようで、雄也が二人の元に向かった時は、二人でしゃべって間を持たせていたようだった。
「よろしくぅ」
「仲良くやろうぜぇ」
初めから妙にノリの軽い二人だった。言っていることはまともだが、そのセリフからはどことなく白々しさが感じられた。雄也は内心で面倒だと思っていたので、「よろしく」と返してさっさと用件に取り掛かった。
練習メニューからチーム内の決まりまで、それなりに真面目に説明する。二人組は黙ってその説明を聞いていた。飲み込みはあまりよくなかったが、サッカーに対する熱意は本物のようだった。
彼らは当初の印象からは意外にも、真面目に練習に参加した。人当たりも悪くなかったので、上級生にも下級生にも好意的に受け入れられ、あっという間にチームの中に溶け込んでいった。
雄也はそれを間近で見ていた。自分にはまねできないその人懐こさが羨ましくもあったが、耐えられないほどではなかった。ああなりたいとは思わなかったし、何よりサッカーの実力で勝っていたからだ。
徐々に立場が変わってきたのは、三年に上がってからだった。
二人組のサッカーの実力は、メキメキと上がっていた。それこそ――雄也の実力を追い越すほどに。
彼らが実力をつけている間、雄也がサボっていたわけではもちろんない。二人組と同じように、むしろそれ以上に練習していた。だが、雄也がいくら練習を重ねても目に見える変化がない一方で、彼らは目に見えて成長していく。
初めは雄也も楽観視していた。始めたばかりでのびしろのある彼らが成長していくのは当然で、彼らもある一定のレベルまで達すれば、自分と同じように伸び悩むだろうと思った。
しかし彼らの成長はとどまることを知らず、雄也がやっと焦りを覚えたころには、何もかもが手遅れだった。いつの間にか、雄也よりも彼らの方が、試合に出してもらえるようになっていた。
才能。それが残酷なまでに、雄也の目の前に現れた瞬間だった。
それはあまりにも理不尽なものだった。同じサッカーという競技をしていながら、彼らと雄也はまるで違う道を走っているかのようだった。追い抜かれた瞬間すら気付けず、どれだけ走ったって、その背中さえ見えなかった。
「サッカーをやめようと思う」
雄也が両親にそう言ったのは、中学三年の夏休み前だった。表向きは「入試に専念するため」ということにしていたが、それは言い訳でしかないことは、雄也が一番よく分かっていた。
「それは逃げっていうのよ」
と母親は詰り、父親は
「そうか」
とだけ、短く言った。どういう反応をされようと、雄也の心には波風ひとつ立たなかった。
早めに受験勉強を始めていたのが功を奏したのか、雄也は地元でもそれなりに有名な進学校でもある三上高校に入学することができた。それでも、あの二人組に感じた、屈辱という感想すらわかなくなる脱力感が、雄也の中から消えることはなかった。
雄也はますます孤立した。が、それはあまり気にならなかった。満たされないものを抱えて、それでも一日は二十四時間で回る。雄也にとってその当たり前の事実は、残酷でありがたいものだった。
この世にいる人間のどれほどが「必要とされる人間」なのだろうか。そもそも必要とされる人間の定義が分からない。どういう人間がひとから必要とされるのか。
雄也に分かるのは、自分はその部類に属さない、ということだけだったし、それだけで十分だと思った。
隠していた劣等感と、やりきれなさが溢れたのは、夏休みのことだった。
その日は雨が降っていたが、雄也はいつも通りの時間に家を出た。長期の休みに入ってから日課になっている散歩だ。
「雨降ってるのに行くの?」
「傘持っていくから」
背中で母親の声にこたえる。父親はすでに仕事に出ている。さらに何か言われる前に、雄也は逃げるように家を出た。
行く当てが特にあるわけでもなく、雄也は足の赴くままに歩いた。傘が雨をはじく音が頭上でリズムを奏でる。アスファルトで跳ねた雨粒がズボンの裾を濡らしたが、気になるほどでもなかった。
歩くのが好きなわけではない。それでも毎日散歩をするのは、ひとえに家に居づらいからだった。
父親も母親も雄也に気を遣っているのだろう。サッカーをやめたことと、学校であまり友達ができていないこと。おそらく二人には雄也が抱えているものがなんなのか分からないのだろう。それを知りたいと思っていながら、どこまで踏み込むべきかがつかめない。そういう感情が表情の裏で渦巻いているのが分かって、それが雄也は不快だった。
こちらのことをよく考えてくれていることが分かるので、邪険に扱ったり無意味に反発することもできない。雄也にできることは、こうしてなるべく彼らから距離を置くことくらいだった。
「……あっ」
歩きながら考え込んでいた雄也は、足元の感触が変わったことに気付いて顔を上げた。
昔ながらの商店街が広がっていた。雄也が登校する時によく通る場所だ。習慣とは恐ろしいものだと思った。
「――ん?」
雨音以外の音を聞いた雄也が、あたりを見回す。発信源はすぐに見つけられた。
「……ネコ、か」
段ボールの中に猫が数匹いた。さんざん雨に濡れたのか、どの猫もトラ縞の毛がぴたりと体に張り付いている。それに浮かび上がったその体のラインは、お世辞にも健康的とは言えないほど、げっそりと痩せていた。
「そっか、お前らも――必要とされなかったのか」
思わず雄也はそういって、傘をダンボールに傾けていた。途端に雨が全身を叩いたが、気にもならなかった。
「つらいなあ、お互い」
返事はない。それは当然で、だからこそ安心できた。
「辛いかどうか、それが分かんないんだよなあ」
頬に熱いしずくが伝ったのを感じたが、それを拭おうとは思わなかった。やがてそれは天上のしずくと混ざって、落ちた。
「……ダメだなあ、俺は」
雄也の声は雨音にかき消される。それでも、止まらなかった。「ダメなんだよ、ホント。何にも分かんねえ」
そういって一度鼻をすすると、段ボールの中の猫が、いちど鳴いた。肯定とも否定とも取れない鳴き声。痩せてなおぎらぎらと光るその眼光が、まっすぐに雄也を見ていた。
「お前、いいやつだな」
間抜けなセリフだと自分でも思った。それでも、それは心の底から出た言葉だった。
ポケットから携帯電話を抜く。短時間で驚くほどかじかんだ指先を必死に動かして、目当ての番号にかける。ためらいは一瞬もなかった。
「――もしもし?」
「あ、母さん?うちで猫飼いたいんだけど――」
そして雄也は猫と出会い。尚大に出会った。しばらくして芹菜と出会った。
猫たちは少し面倒を見てやると、みるみるうちに回復した。そして回復するなり、逃げるように雄也の家からいなくなってしまった。結局、最後まで雄也には懐かなかった。
彼らはぬくもりを恐れたのかもしれない。一度失ったものをもう一度手に入れるのはつらいことだ。失った瞬間の痛みを知っていながら、それでもそれを得るというのは。
熱源から遠ざかるのが最も傷つかずにすむ方法なら、雄也はどうするべきなのだろうか。その問いに答えはあるのだろうか。
……キーンコーンカーンコーン
聞きなれたチャイムが鳴り響き、雄也ははっと我に返った。電気はすでに消えていて、暗闇があらゆるものの輪郭を曖昧にしている。
病室はとても静かだ。聞こえるのは部屋の隅にあるエアコンの駆動音と、理華のかすかな寝息だけ。
芹菜と病室に戻ってから、俺はどうしてたんだろう。雄也は記憶の糸をたどったが、思い出せなかった。諦めて毛布をかぶる。体が石のように重たかったが、意識は妙に冴え冴えとしていた。
自分でも意識していなかったが、おそらく雄也は恐れていたのだろう。
バスケットボール部のエースである尚大。人当たりが良く人気者の芹菜。
二人に比べるとあまりにも平凡な雄也は、それゆえに恐れたのだ。二人がいつか離れていってしまうのではないか、と。だからこそ、気を引こうとしてあんな無茶をしたのだろう。
考えてみるとあまりにも幼稚だ。親の気を引こうとして騒ぐ子どもと変わらない。ベッドの中で、雄也は思わず苦笑した。
お前は俺なんか見てなかった。
昼間の少年はそう言った。それは間違っていない。
では、雄也のしたことも間違っていたのだろうか。考えてみたが分からなかった。
人の役に立つにはいったいどうすれば良いのだろう。
そう思ったのを最後に、雄也は眠りに落ちた。




