落ち続ける心、留まる心
次は学校の屋上だ。屋上はないので、正確には屋根の上だけど。
音楽室を出た僕は、そのまま浮き上がって屋根の上に顔を出す。
屋根の縁に、学ランを着た少年が足を宙に投げ出して座っているのが見えた。少し長めのその髪は黒く、学ランの黒と相まって闇に溶け込んでいるように見える。まだまだ夜明けには早いから、辺りは真っ暗だ。もちろん、死神の目ならはっきりと彼の姿を捉えることができる。
「こんばんはー……」
「……」
返事はなかった。
いつも声をかけてみるんだけど、彼が返事をしてくれたことはない。
少年はぼんやりと虚空を見つめて足をぶらりと宙に投げ出している。一度も彼が僕に目を向けてくれたことはないし、声を聞いたこともない。この学校に残っている魂の中で、唯一コミュニケーションを取ったことがない存在だ。
すると、不意に彼の体がお辞儀をするように傾き、重力に従って暗闇の中へ落下していった。
嫌な音が遠くで聞こえる。
目を凝らして見ると、地面に彼が倒れていた。彼はピクリとも動かない。
しばらくして、彼の体がスゥッと薄らいで消えたかと思うと、次の瞬間には屋根の縁に先程と同じように足を投げ出して座っていた。
彼は、今自分が落ちたことなどなかったようにそこに座っている。
これは最初こそ驚いたけど、今では見慣れた光景だった。
彼はどうやらここから飛び降りて死んだらしい。死んでからも、死んだ時のことをずっと繰り返しているらしいのだ。
どうしたら彼を助けてあげられるのか悩んではいるんだけど、何しろ彼との会話が未だに成立していないので、解決の糸口が掴めない。
そうこう考え込んでいる内に、彼はまた飛び降りていった。下の方から鈍い音がする。
本当にどうしよう。できれば早く彼をこの連鎖から助けてあげたいけど。
「あら、彼のところにいたのね」
「うわぁ!」
突然女の子が足元から顔を出してきたので驚いて転んでしまった。それを見て女の子は笑って鋏を鳴らす。
「そんなに驚くことないのに」
「そ、そりゃ驚くよ!」
女の子は笑いながら屋根の上に滑り出て、また戻ってきた彼に視線を移した。
「彼とは話せた?」
「……全然」
「でしょうね」
わかっていて聞いてくるなんて意地悪だ。僕は肩を落とす。
「彼を助けたい?」
「そ、そりゃもちろん!」
「どうしたらいいと思う?」
「うーん、彼と話せるようにならないとどうにも……」
何か少しでも話ができたらいいんだけどなぁ。もしくは彼のことを知っている人に話を聞けたらと思うけど、今は目の前の女の子しかいない。
試しに聞いてみようかな。
「ねぇ、君は彼と話したことある?」
「ないわよ」
望みがあっさり砕かれて僕は項垂れるしかなかった。
すると、女の子は鋏を鳴らして首を傾げた。
「死神さんは、彼がどうして落ち続けているのか、わからないかしら?」
「え?」
彼が落ち続けている理由?
「彼は、自分から望んで落ちたわけじゃないわ。追い詰められてしまって、落ちるしかなかったのよ。彼にとっては、もうその道しか残されていなかった」
女の子はまるで何かを知っているように話す。彼と話をしたことはないって言ってたけど、本当は何か知ってるんだろうか。
少年に目を向けると、彼はまた落ちて屋根の上に戻ってきていた。
「こうしてずっと落ち続けているのは、心のどこかで、待っているから」
「待ってる?」
「彼が望むものが何なのか、死神さんはわからない?」
待っているって何を待っているんだろう。それは、僕にもできることなのだろうか。
考えていると、女の子は鋏で彼を指した。
「じゃあ、最後のヒント。死神さんは彼に触れることができるかしら?」
「え?」
死神にとって魂に触ることは難しいことじゃない。
意識レベルを相手に合わせることで、生身の体に触れるのと同じように触れられる。得手不得手はあれど、死神はそうした訓練を受けるから、僕にも一応できる。
ただ、意識レベルを合わせるっていうことは魂に引かれやすくなることだから、無暗に多用してはいけない、という注意を受けている。もし触れた魂が負の感情を強く持っていた場合、その感情に心が飲み込まれてしまうんだそうだ。
見たところ彼は悪霊と言えるような魂ではなさそうなので、たぶん触ることに問題はないと思うけど。
でも、触れるからどうなんだろう。
考えている内に、また彼が落下していった。彼のいなくなった屋根の縁を見つめながら、僕は彼女からもらったヒントを思い浮かべて、ふと思いついた。
考えてみれば、簡単なことだ。
彼がまた屋根の上に戻ってきた。ぶらぶらと足を揺らし、そしてまた体が傾く。
僕は少年の肩に触れようと手を伸ばした。しかし、その手は体を通り抜けてしまい、彼はまた闇に落ちて行った。
「うーん、難しいな……」
すり抜けてしまった手を握ったり開いたりして、僕はため息をつく。
はっきり言うと、僕は魂に触れるのはそこまで得意ではない。訓練でも、3回に1回ぐらいの成功率で、試験もギリギリ合格、といった有様だ。
でも、今のでなんとなく感覚はつかめたような気がする。
少年が戻ってくるのを待って、僕は深呼吸をする。戻ってきた少年の背中を見ながら、また落ちそうになった彼の腕に手を伸ばした。
確かな感触が伝わって来た。
彼の体がガクンと勢いを失って止まった。僕は彼の腕を掴んだまま、成功した喜びを噛みしめながら言葉をかけてみた。
「あ、あの」
「……」
彼は何も言わない。しかし、ゆっくりとこちらを向いてくれた。
驚いたような顔をした少年は、僕の顔と僕が掴んでいる腕を交互に見ていた。
「えっと、ごめん。早くこうしてあげられたらよかったんだけど」
「……と思ってた」
少年が何か呟いた。
「え?」
よく聞こえなかったので聞き返すと、彼はもう一度さっきよりも大きい声で言ってくれた。
「止めてくれる人なんて、いないと思ってた」
僕が腕から手を離すと、彼はその場に立ち上がって僕に向き直った。
「……気づくのが遅くなってごめん」
少年は首を横に振って笑ってくれた。
「ずっと、独りだと思ってたから、嬉しい。誰も、俺のこと止めてくれなかった……誰かに、止めてほしかったから」
少年は、本当に嬉しそうに笑ってくれた。
「ありがとう」
彼の体が薄らいで光の魂になった。
僕は鎌を振って彼の魂を回収する。一閃された魂はスゥッと鎌に吸い込まれるようにして消えた。
これで三つの魂を回収できた。心なしか、鎌が重くなったような気がする。
僕は一息つくと、鎌を背中に背負った。
「おめでとう、死神さん」
女の子はまた鋏を鳴らして祝福してくれた。
「あ、ありがとう! 君のヒントがなかったらわからなかったかも」
女の子は鋏を鳴らして、廃校舎の時計塔の上に飛んでいき、時計盤に腰かけた。
「これで、もう魂は回収し終わったわね。お仕事お疲れ様」
「ううん、まだ君がいるよ」
この子もこの学校に定着してしまった魂だ。もちろん彼女も連れて行かないと、僕の仕事は終わらない。そう言うと、彼女はキョトンとして僕を見下ろした。
「私? 私は管理塔に行くつもりはないわよ」
「えっ、どうして!?」
驚いて尋ねると、女の子はおかしそうに笑った。
「私は、最期までこの学校と一緒にいるわ」
「そんな……ねぇ、君も何か未練があるんでしょ? 僕が手伝うから、何でも話してみてよ」
僕の言葉に、女の子は一瞬悲しそうに目を伏せて、僕と視線を合わせるように降りてきた。
「今日ね、この学校が取り壊されちゃうの」
「えっ!?」
そんなことは初めて聞いた。
「ここがなくなったらあの子たちは行き場をなくしてしまう。だから、今日中に死神さんに連れて行ってもらおうと思ってたの」
「だ、だから、協力してくれたってこと?」
女の子は頷いた。
でも、
「それじゃあ、君は……」
行き場をなくすのは、彼女も同じのはずだ。
「私はこの学校と一体化してるから、無理矢理回収しようとしてもできないと思うわ」
「ここと一体化してるって……じゃあ君はこの廃校舎そのものってこと?」
「そうとも言えるし、違うとも言えるわね」
物と人の魂が一体化してるなんて滅多にない事例だ。しかも、こんなに大きな物と一緒になってる例は聞いたことがない。
「いつ……一体化してるって気づいたの?」
「教えてもらったの」
「……誰に?」
「誰だと思うかしら?」
僕の考えを読んだように、女の子は微笑んで首を傾げた。
「……僕の前にも、死神に会ったりしてる?」
自分が普通には回収できない魂だなんてやけにはっきりと言うものだから、もしかしたらと思ったけど、予想通り彼女は頷いた。
「随分昔、ここにまだ私しか魂がいなかった頃。新人さんだったみたいだけど、私のことを回収しようとしたけどうまくいかなくて……結局こうして私は残された」
彼女は鋏を鳴らして廃校舎の時計を見上げた。時計は3時50分をさしていた。
「もうすぐお仕事が終わる時間よ、死神さん」
「……君は、どうするの?」
尋ねると、女の子は笑顔で鋏をくるりと持ち直した。
「この学校と一緒に消えるわ」
「そ、そんな、駄目だよ!」
せっかくここまで助けてもらっておいて、ただ消えるのを見過ごすなんて僕にはできない。
女の子は困ったように笑った。
「でも、仕方ないの。私はここを離れられないから、管理塔にいってあげることはできない」
僕は何も言えなかった。
どうしよう、どうにかしてあげたい。
消滅するのが彼女の望みとは思えなかった。望んでいるんだとしたら、あんな寂しそうな顔をするはずがない。
どうしたら彼女を助けてあげられるだろう。
この学校と切り離すというのも難しそうだ。彼女の話や魂の状態から察するに、一体化してから随分時間が経っているようだ。無理に切り離したりしたら、彼女の魂が壊れてしまう可能性がある。
どうしよう。
僕は、どうしたらいいんだろう。
どうするべきなんだろう。
このまま見過ごすなんて絶対に嫌だ。彼女だって、同じはずだ。
でも、僕にできることなんて……。
時計の針は、もうすぐ4時をさそうとしていた。