舞う旋律
さて、次はどこに行こうかと考えていた時、階段の方からピアノの音が聞こえてきた。
三階の音楽室からのようだ。とても人の指で弾いているとは思えない早さの旋律が聞こえてくる。
そういえば、聞こえてくるのはいつも同じ曲だけど、この曲は何ていう名前だったかな。聞いたことはあるけれど名前が出て来ない。元の曲の速さより大分早いテンポで弾いているみたいだ。
僕はそっとドアをすり抜けて音楽室を覗く。窓からの月明かりに照らされた殺風景な教室の中で、誰も座っていないピアノが勝手に旋律を奏でていた。
いつも思うことだけど、姿を消してピアノを弾く意味はあるのかな。
声をかけようとした瞬間、突然大音量でピアノが鳴った。驚いて出そうとしていた声が引っ込んでしまった。
「あ、あの……こんばんは、死神です」
恐る恐るそう声をかけてみると、誰もいなかったピアノの前に突然少女が現れた。椅子から立ち上がり、両手を鍵盤の上に叩きつけた姿勢のまま、驚いたようにこちらを向いている。
「あ、う、こ、こんばん……は」
その少女は顔を真っ赤にして弾かれるように鍵盤から手を離し、おどおどとした様子で挨拶を返してくれた。
最初の頃は悲鳴を上げて逃げられてしまっていたことを考えると、進展しているのかなと思う。
それにしても、さっきまでの荒々しい曲を演奏していたのが彼女だなんて傍から見たら信じられない。小動物を思わせる怯えぶりで涙目になり始めた彼女にどう対応しようか迷いつつ、僕は言葉を慎重に探しながら会話をする。
「えっと、今の、なんていう曲、弾いてたの?」
「……ぇ、ぅ……つ、つる……剣の、舞って……言い、ます」
言われて納得した。そうそうそんな名前の曲だった。
「そっかそっか。ハチャトゥリアンが作曲した曲だよね」
「……そ、ぅ……そう……です」
「えっと、すごいね。こんな早い曲を弾けるなんて」
僕が笑ってそう言うと、少女は涙目で首を大きく横に振った。
「え、ど、どうしたの?」
「この曲……ま、まだ……弾けないの……」
「そうなの? あれだけ弾けてたらすごいと思うけど」
そう言うと、少女はまた首を振った。
「ぁ……ど、どうしても、途中で……間違っちゃう、の」
「それでいつも同じ曲を弾いてたんだ」
「ぅ……うん……」
そこで会話が途切れてしまった。このままだんまりしていてもしょうがないので、僕は本題に入ることにした。
「えっと、この前話した管理塔の話、覚えてるかな?」
「……ぅ、うん」
「考えてくれたかな?」
「……そ、その……まだ、その……」
皆までは聞かずにおいた。
「君は、どうしたい?」
「……ひ……弾けるように……なりたい、から、練習……」
この子はこの曲が弾けるようになれば、未練はなくなるのかな。
どうにかしてあげたいけど、僕は音楽を教えてあげられるような技術はないし、困ったなぁ。
どうしようか考えていると、
「おひゃぁ!」
「ひぅ!」
鋏の音がして頭上から鋏が降ってきた。僕の鼻先を鋏が通過していき、一拍遅れて飛び退く。我ながら間抜けな僕の声に驚いて、少女も悲鳴を上げて消えてしまった。上を見ると、女の子がこちらを見下ろしていた。女の子は鋏を鳴らして僕の頭上をくるりと回る。
「その子は、人と話すのが苦手なんだけど、死神さんのことはちょっと気に入ったみたいね」
そう言われて僕はなんだか照れくさくなった。本当に気に入られているのなら嬉しいけど。
あれ?
いや、そもそも今どうして鋏を落とされたんだろう?
「あ、あのさ、あの子が弾いてた曲、君はわかる?」
「剣の舞ね、知ってるわよ」
「君は、弾ける?」
女の子は小さく笑って、鋏を鳴らした。
「私は弾けないわ」
「そっか……」
僕は肩を落とす。弾けるならアドバイスもできるかと思ったんだけど。
「そんなに落ち込まないで。アドバイスくらいなら、死神さんもできるでしょ?」
「え……うーん、でも僕は音楽よくわからないし……」
「素人意見でも、プロにとっては意外な見落としだったりするものよ?」
そんなものなのだろうか。僕はピアノに目を向けて遠慮しながら声をかけた。
「えっと、まだいるかな?」
すると、ピアノの陰から少女がビクビクしながら顔を出してくれた。本当に小動物みたいだ。だんだんかわいそうになってくるくらいの怯えっぷりだけど。
「ピアノの練習、僕にできることなら協力するから、一緒に頑張ってみないかな?」
「ぇ……?」
「何かアドバイスできることはするし、どうかな?」
そう言うと、少女は涙目のまま女の子の方を見た。女の子はそんな視線に気づき、笑顔で鋏を鳴らした。
「死神さんはとっても頼りになるのよ。お願いしてみたら?」
なんだかハードルを上げられた気がする。それでも、少女は小さく頷いて、おずおずと椅子に座った。
「うーんと、まずはいつも通り弾いてみて」
「……ぅ、うん」
少女はびくびくしながら鍵盤に指を置き、深呼吸すると指を動かし始めた。先程までびくびくしていた様子を微塵も感じさせない、力強い指使いだ。
しかし、テンポが速い。
このテンポでここまで弾けているのが信じられないほどだけど、相当練習したのかな。
すると、突然また少女が手を鍵盤に叩きつけた。どこか間違ったらしい。正直、速すぎてよくわからなかった。
「え、えっと……?」
「……また、間違っ……た」
そう呟いて見る見る目に涙を浮かべ始める。僕は慌てて何か言おうと言葉を探した。
「あ、あのさ、もっとゆっくり弾いたら、駄目なの?」
「ぇ……?」
「聞いてるとさ、僕が知ってる剣の舞よりずっと速いテンポだから」
「……ぇ、そ……そう、なの?」
知らなかったんだ。この子は何で原曲を聞いたんだろう。
「じゃあ、僕が手を叩くよ。それを参考に弾いてみて。これぐらいの速さで」
僕は曲を思い出しながら手を叩いてみた。少女は、真剣な顔でじっと僕の手の動きを見ながら、手拍子に合わせて首を動かしている。なんだかかわいい。
「……こんなに、ゆっくり、でも……いいの?」
「いいと思うよ。むしろ君のテンポが速過ぎる感じだし」
「……そ、そう、なんだ……」
少女はそう呟くと、椅子に座りピアノに向き合った。ゆっくりと深呼吸をして、指を鍵盤に置く。僕が緊張して見守っていると、彼女は曲を弾き始めた。今までのよりずっとゆっくりな調子で弾いている。それでも、やっぱり速い曲だから、普通に弾くことができているのはすごい。やがて、鍵盤に手を叩きつけることなく演奏が終わった。僕は思わず拍手する。
「おめでとう! 最後まで弾けたね!」
「……ぅ、ぅん……ひ、弾け……弾けた!」
少女は震えながら涙目で何度も頷いた。しばらくすると、涙を流して小さく笑った。
「ぁ……ありがとう」
少女の体が薄らいだ。少女の姿が光の魂になる。僕は慌てて鎌を振って回収した。
その瞬間、今までそこに立っていたピアノの足が突然折れて、大きな音をたてて崩れた。
「うわぁ! な、なんだ?」
「このピアノ、もうずいぶん古くなっていたんだけど、あの子の意志がピアノを今まで維持させていたの」
鋏を鳴らしながら女の子はそう教えてくれた。
それにしても、ここに来てから2ヶ月目にして二つの魂を回収できた。今日だけでこんなに順調に仕事が進むなんて、嬉しいけどなんだか変な感じだ。と言っても、先輩の死神なら最初の一日で終わらせてしまう仕事なんだろうけど。
気づくと、鋏の女の子はいなくなってしまっていた。お礼が言いたかったのに、と僕は残念に思う。こうして魂を回収できたのも、あの子の協力があったからだ。
でも、あの子はどうして今日に限って僕のことを助けてくれるんだろう。いつもは鋏を鳴らしながら校内を徘徊しているだけなのに。
僕はしばらく考えていたけれど、答えは出ないので次の場所に向かうことにした。
崩れてしまったピアノが、ポロンと一つだけ音を発したのを、僕は聞いた。