欠けたキャンパス
僕の名前は、死神4319番。
つい半年前に死神試験に合格したばかりの新米死神だ。
死神の仕事は、死期が来た人の魂を魂の管理塔へ送ること。でも僕はまだ新米だから、はぐれた魂の回収が仕事だ。
はぐれた魂というのは、死神の導きを得られなかった魂のこと。人の死期はリスト化され、それぞれ死神が宛がわれるのだけど、死神も全ての人の死期を把握するのは難しく、希にリストから漏れてしまう人がいる。そうした人は死んでも死神に導いてもらえないので、魂があちこち彷徨ったり、一か所に留まってそのまま定着してしまうことが多い。そうしたはぐれた魂を回収するのが、新米死神の仕事。
この学校に残っている魂を全て回収することが、今の僕の仕事だ。今回の廃校舎が初めてもらった管轄区でもある。
魂は脆い存在だから、変質や消滅してしまう前に回収しなければいけない。その地に定着してしまった魂はどんどん劣化していってしまう。説得できなければ、無理矢理にでも回収するように言われている。
しかし、僕はどうも無理矢理と言うことが嫌いな性分で、なかなか魂を回収することができないでいた。
事情を話して管理塔へ来てくれるよう頼んでみるのだが、みんな未練が強く回収作業は難航している。
しかも、彼らは決まった時間、午前3時から1時間ほどしか姿を現さない。それも仕事が捗らない要因の一つだった。
なぜこの時間なのか上司にわけを聞いてみたら、丑三つ時だからだろうと、どこか適当に答えられた記憶がある。本当のことはわからない。
仕事をもらってもう2カ月になる。未だに魂を一つも回収できていない。
そんな状態でも上司が何も言わずに仕事に送り出してくれるのは救いだ。今日は殺されるかと思ったけど。
僕はまず二階の美術室へ向かった。校内のどこに魂がいるのかはすでに把握している。
使われなくなって長い校舎の中は埃っぽく空気も淀んでいて、美術室も同様だった。絵具に塗れた机や椅子、教卓には埃がつもり、木製の棚の上にいる胸像たちは埃を被っていても無表情のままだ。
美術室の真ん中には、キャンパスに絵を描いている少年の姿があった。
椅子に座っている彼の足は、両足ともあり得ない方向に折れ曲がっている。カラフルな絵の具に彩られたエプロンの下のワイシャツは、乾いた血でどす黒く染まっている。事故か何かだったのだろう。
彼はずっと黒い絵具を筆でキャンパスに塗りたくっている。そのキャンパスはすでに真っ黒だ。
彼はいつもこうして真っ黒になったキャンパスに一心不乱に筆を走らせている。いつも同じものを描いているらしいけれど、真っ黒になってしまったキャンパスでは何を描いているのかわからない。
「や、やぁ、こんばんは」
「……こんばんは、死神さん」
彼はキャンパスに虚ろな視線を向けたまま、こちらを見ずに挨拶を返してくれた。
これも最近のことで、最初は見向きもされなかったのだから、返事を返してくれるようになっただけちょっと嬉しい。
「あ、あのさ、ここを離れるって話、考えてくれたかな?」
「……絵が完成しないと、無理」
彼はいつもそう答えている。どうやらこの絵に対する執念は並々ならぬものがあるらしい。
「そ、そっか。その絵は、いつ完成する?」
真っ黒なキャンパスを見ると、何が完成なのかよくわからない
「……これは、違う」
彼は珍しくこちらに向いてそう答えた。その顔に表情はなく、何の感情も窺えない。どこか遠くを見ている目だ。僕を見ているはずなのに、その目は僕を見ていない。僕は首を傾げる。
「このキャンパス以外にも君の絵があるの?」
「……」
彼はまたキャンパスに視線を戻してしまった。ちょっと進展したかと思ったけど、まだまだ難しそう。
「クスクス」
笑い声がして振り向くと、女の子が顔をすり抜けさせて美術室を覗いていた。ドアの向こうでシャキンとハサミの音がする。
「あなたはまだそのキャンパスにソレを描いているのね」
「……」
少年はちらりと女の子の方を横目で一瞥する。女の子は体をするりと美術室に滑り込ませ、少年の背後にふわりと浮かぶ。
「あなたの本当のキャンパスは、どこに行っちゃったのかしらね」
「……あんたには関係ないよ」
その会話を聞いて、僕は首を傾げた。
彼の本当のキャンパスってことは、今描いているキャンパスは本来の彼のキャンパスじゃないのかな。完成していないって言っていたのは、もしかしてそっちのキャンパスのことなのかも。
「死神さんに探してもらったら? あなたはここを動けないんだから」
「え、僕?」
突然話を振られて僕は驚いて女の子を見る。
「そう。死神さんは魂を管理塔ってところに連れていくのがお仕事なんでしょ? なら、ここを離れられるようにしてあげたら?」
確かに彼女の言うとおりだ。でも彼が本当にそれを望んでいるのだろうか。
「君がいいなら、僕が君のキャンパスを探してきてあげる」
そう言うと、少年はまたこっちを向いた。その目は、ちゃんと僕を見てくれているような気がする。
「……本当?」
「う、うん。僕じゃ頼りないかもだけど」
そう言って僕は笑った。我ながら、情けない笑い方をしているなぁと思う。
少年はしばらく僕の方を見ていたけど、不意にキャンパスに視線を戻してぼそりと呟いた。
「……職員室に、飾ってある」
「えっ飾ってあるの? でもそれ、完成してないんじゃ?」
それ以上、彼は何も答えてくれず、僕は大人しく職員室へ向かった。場所がわかっているのなら、探す手間が省ける。職員室に飾られている絵は一つしかなかったのですぐにわかった。
それは空を描いた大きなキャンパスだった。
真っ青な青空で、雲が立体的に描かれている。今にも風に流れていきそうな雲だ。完成しているように見えるけれど、どこが未完成なんだろう。そんなことを考えながら眺めていると、背後で鋏の音がした。
「人が見れば完成された絵でも、彼にとっては違ったのね」
女の子が同じように絵を見上げながらそう呟いた。
僕はとりえず壁に掛けられた絵を外して美術室に戻った。まだ真っ黒なキャンパスに筆を走らせ続けていた彼は、僕の抱えている絵を見て初めてその表情を変えた。驚いたように目を見開いて、口をポカンと開けている。
「……本当に、持って来てくれた」
「そ、そりゃ約束したし」
意外そうに言われて思わず苦笑してしまった。信用されていなかったのはちょっと悲しい。
「はい、この絵でいいんだよね?」
「……うん」
彼はそう言って僕の手から絵を受け取った。真っ黒なキャンパスを脇に寄せて、青空のキャンパスに向かった。何を描き加えるんだろう、と思って見ていると、絵の隅に黒い絵の具で何かを描き加えた。
「何描いたの?」
「……俺の、名前」
見ると、絵の隅に小さなサインが描かれてあった。
「名前を描く前に、死んだから……そのまま飾られてしまって描けなかったんだ」
彼はそう言って自分のふとももをさすった。
「……ずっと、名前を描きたかった」
彼はそう言うと、自分の絵を見て小さく笑った。小さいけど、とても満足そうな笑みだった。
「ありがとう」
そう言うと彼の体がすぅっと薄らぎ、小さな光の魂になった。
僕は慌てて背中の鎌を振り翳し、光の魂を一閃する。一閃された魂は鎌に吸収されるようにして消えた。
「や、やった……」
初めて魂を回収できた。あとは管理塔に一緒に行くだけだ。二ヶ月の苦労が実を結んだ瞬間。ずっと望んできたことなのになんだか現実味がない。
「よかったわね、死神さん」
拍手の代わりに鋏を鳴らして女の子が祝福してくれた。
「う、うん。ありがとう」
とにかく一つの魂が回収できた。でも、これで安心しちゃいけないと気を引き締めて、鎌を握る手に力を込める。
「よ、よし、この調子で頑張ろう」
「クスクス、頑張ってね」
女の子は鋏を鳴らして姿を消してしまった。
僕は誰もいなくなってしまった美術室を振り返る。青空のキャンパスに書き加えられたサインと、真っ黒になってしまったキャンパスを見る。彼が一心不乱に筆を走らせて描いていたのは、絵に添えるサインだったんだ。
彼がいなくなってしまったその場所は少し寂しかったけど、僕は嬉しく思いながら美術室を後にした。