聖堂、秋の夜の騒動。
秋の深まりを感じさせてくれる夜風に、聖堂の店主はその優しげな目元を更に和らげて、灯りの少ない石畳の路地から空を見上げた。
「良い風ですねぇ」
さらりとした艶のある黒髪をその風に躍らせ、後れ毛をほっそりとした手でかき上げながら、散歩をしているところだった。元々昼間でも静かな石畳の古い町並みの路地は、夜ともなればひっそりとして現実感のなくなる場所になる。
時々店主は夜の散歩に出かける事がある。涼やかな夜の気配が落ち着くのと、その時間にしか出会わない不思議な者達を見るのも、また店主の楽しみであったためだ。
聖堂からしばらく歩いていくと、神社がある。こじんまりとしたそこは稲荷神社で、商売を(一応?)している店主も、挨拶をするところだった。虫の声を聞きながら鳥居を抜けて入っていくと、不意にその耳に届く声がした。
「いらっしゃーい」
明るい、その場所に似合わない声に店主は思わず苦笑する。姿の見えない元気な声の主に穏やかに微笑んで声を返した。
「こんばんは、朧」
「今日も男っとこ前だよねー、あんた。いや、綺麗って言うの?」
楽しげな声が店主のすぐ後ろから聞こえて振り返ると、そこには二十歳過ぎくらいの男性の姿があった。褐色の肌に長くて艶やかな黒髪を頭の高い位置でまとめている男、少し幼そうに見えるのは性格を知っているせいかもしれない。濃紺の甚平姿の軽装に、赤い瞳に大きな耳と尻尾。ふわりと空に浮きながら、夜の訪問者にニコニコと笑っている。因みに朧はこの神社を守る狐、妖狐である。
「そうですか?私などたいしたことはありませんよ」
「あんたがそれ言うと、嫌味にしか聞こえないんだけど」
切れ長の瞳を眇めながら朧と呼ばれた男はにやりと笑う。ふさふさとした尻尾を手で遊びながら、店主の前に音もなく降り立った。
「今日はなんか騒がしくない?」
大きな耳をそばだてる朧に、店主も頷いた。確かに今日は何となくではあるが、いつもより静寂さがない。普通の人間なら気づかないことではあるが、店主も朧も人外の存在であるために、気配は充分に理解していた。
「そういえば、蓮太郎はどうしたのですか?」
ふと店主は朧に向かって尋ねた。朧といつも一緒にいるもう一人(いや、一匹と言うべきか)の狐がいない。それに朧は鼻で笑う。
「あいつこの気配が怖いって、さっきから隠れてる」
「怖い?そうですかねぇ…怖さなどはないように思うのですが…」
「それはあなただからですよッ」
店主が言い終わらないうちに、またどこかから声がする。しかも限りなくおどおどとした声だ。店主が辺りを見渡すと、社の後ろの方から、まるで社の壁にへばりつくようにして、真っ白な何かが動いた。白い髪、白い装束白い耳、白い尻尾、輝く金色の瞳。端整な容姿なのに、今にも泣きそうな顔で店主の姿を見つけると慌てて走ってきた。
「これなんですか!?なんでこんなにおかしな空気がいっぱいなんですか!?」
まくし立てるように言葉を継いだ白い男に、店主はクスクス笑ってその目を細めた。
「蓮太郎…お前はそんなことでここを守れるのですか?仮にも稲荷神にお仕えする立場なのに」
「そ、それは…なんとか頑張りますよ……多分」
視線を彷徨わせて蓮太郎は言う。長身の端整な男なのに、いかにも気の弱そうなその様子に店主は呆れて笑い、ふわりとした蓮太郎の髪の毛を撫でた。それから首をかしげて辺りをうかがう。
「最近この通りの少し先で、大きな建設工事が始まったのですが…」
「あー、きっとそれだ」
朧が店主の言葉を拾い返事をした。ふわりと浮き上がった朧は社の屋根の上に立ち、その切れ長の目をじっとある方向に向かって注いだ。
「うん、やっぱそれだわ。なんかいろんなもん出てきてるぞー」
いやに楽しそうに朧は笑ってまたふわりと店主の傍に降り立った。そのまま店主の前に回り、綺麗な唇を笑みの形に変える。
「で、なんかする?」
「はい?」
いきなり言われて店主はきょとんとした顔で、自分より少しだけ背の低い朧を見つめる。その横で朧の考えている事を理解した蓮太郎が眉根を寄せて店主の着物にしがみ付いた。
「だめです!また朧は何かいけないこと考えているんでしょう!?」
「何だその言い草は。俺のどこがいけないことを考えてるってんだ」
じろりと睨まれた蓮太郎は、情けない声を出して店主の後ろに隠れてしまった。大きな身体を小さくしてふるふると震えている。
「だって…今の朧、すごく意地悪な顔してました…」
「はぁ?おまえ喧嘩売ってんのか」
「そ、そんなことないですよ!」
「まぁまぁ…朧も蓮太郎もおやめなさい」
間に挟まれるようになった店主が苦笑しながら言葉を投げ込み、背中に隠れてしまった蓮太郎の手を握ってやる。
「それにしても。この気配はあまり良くはありませんねぇ」
のんびりした声とは裏腹に、店主の優しげな目許がやや厳しくなったようにも見え、空を見上げて小さく溜息をついた。
聖堂とこの神社のある一帯は、戦前からの古い町並みの残る場所ではあるが、ここを少し離れると途端に近代的な建物の密集する街に変わる。高いビルとにぎやかな商業施設などがにぎわう中心地が拡大し、この静かな一帯のすぐ傍にも高層マンションなんかも出来上がってきている。最近工事の始まったその場所も、いずれは高い建物が完成することだろう。
しかしその場所は、店主はさして興味もないことなので知ろうともしなかったが、なにやら良くないもの達の吹き溜まりのような場所らしい。工事の始まる前は病院のあった場所だった事もあり、様々な思念がこびりついた土地のようだ。どこに行ってもいわくのある土地はある。なので店主も気にしていなかったが、夜になりそういったモノ達が活発になる時間帯になると、いやでも感じてしまうこの気配。しかも今日はいつもより強いような気がする。
長い艶やかな黒髪を風に遊ばせながら店主はまた溜息をついた。
「ここはおまえ達がいるので影響はないと思いますよ。あちらから何か仕掛けてこなければ、わざわざ手を打つ事もないでしょう。かまっていたらキリがありませんからね」
穏やかな顔の店主に、朧は若干残念そうに眉を顰めた。
「そうなの?遊べるかと思ったのに」
「そんな遊びなんかいりませんよッ」
「蓮太郎に言ってねー。つかおまえ黙ってろよ」
イラッとした眼差しを向けられて、蓮太郎はまた情けない声を出して店主の後ろに隠れた。
「おまえ達は仲が良いのか悪いのか…困った子達ですね」
先ほどから苦笑しかしていない店主の耳に、なにかの声が聞こえて来る。遠くから聞こえてくるそれは不愉快な笑い声と叫びと、うめき、怒号。様々な、でもどれも不快な声ばかりだ。瞬く間に近づいてきたそれに蓮太郎は震え上がり、朧はその瞳をワクワクした様子で煌かせた。
「ちょっと来たんじゃない?」
まるで準備運動でもするかのように朧はピョンピョンと飛び跳ねている。そんな好戦的な黒い狐の周りにふわりといくつかの青い炎が生まれた。
「言っているそばからこれですか…蓮太郎?」
店主は自分の後ろにいる蓮太郎を見下ろして、少しだけ声音を強めて言った。
「おまえの役目はここを守る事です。怖がってばかりいてはお役目は果たせませんよ?」
その、普段明るい穏やかな瞳を強められまっすぐに向けられて、蓮太郎も怖いながらに覚悟を決めて立ち上がった。泣きそうな顔は変わりないが、背筋を伸ばしてしっかりと立てば、なかなか優秀そうに見える。
「は、はい。頑張ります」
若干情けない声で蓮太郎は返事をして、その金色の瞳で星の瞬く空を見上げた。店主もそれをなぞるように空に視線を移した。そこには愛らしい星と蜂蜜色の月が穏やかな光を注いでくれているのだが、次第に暗くて不気味な色に変わってくる。三人が見上げている間に混沌とした膜のようなものが光を遮り、一層暗く闇が蔓延ってきた。笑い声も叫び声も何もかも、店主と狐達を取り巻くように下りてくる。その数は膨大といって良い。店主の滑らかな肌に、ざらりとした感触でそれはまといついてきた。吐き気すら伴うその感触に店主は思わず眉根を寄せて、優雅な仕草で叩きつけるように払い落とす。
「これ程沢山だとは、予想外ですねぇ」
しかし声はのんきなものだ。次々にわいてくるそのおぞましい思念、人間の言う「霊」たちは、朧にも蓮太郎にも纏い付き、その神聖な存在に取り入ろうと蠢いた。
「うっとーしー!でもたのしーなーコレ!!なぁ、こいつら焼いても良いんだろう?」
けらけらと心底楽しそうに笑う朧が、周りの炎で焼き尽くしながら店主を振り返り言う。青い炎を矢のように打ち込んで、ゲームか何かの感覚なのかもしれない狐の様子に店主も小さく笑った。
「もう焼いているじゃありませんか。私に確認なんてしなくてもかまいませんよ。ここはおまえ達の場所なんですからね」
軽く会話をしながら、店主も溢れる邪なものたちをいとも簡単に自らの発する白い光で浄化していく。殆どその場から動くことなく、右に左に前に後ろに、次々と光を生み出して、清らかなそれを飛び掛ってくる思念に確実に当てていった。光のはなたれる風に長い黒髪を躍らせて、静かに、でもその綺麗な瞳に陰惨な光を持ってぞっとするくらいに薄く笑いながら。
「もー無理ですよ!こんなにたくさんっ!」
店主と朧が余裕で思念を掃討している横では、なんとか自分にとり付いてこようとするものを祓いながら蓮太郎が必死になっていた。白い綺麗な炎を携え、へっぴり腰になっていても奮闘している。
「おまえホントどうにかなんないのか、そのへたれっぷり!」
おかしそうに笑う朧が蓮太郎の背後から襲ってきた黒いものに青い炎を投げつけて祓った。
「そんなこと言ったって怖いものは怖いんです!朧と一緒にしないで!」
「なんだおまえ。生意気な奴だな。やっぱ喧嘩売ってんだろ!?」
「なんでそんな考えになるんですか!?馬鹿なの!?朧は馬鹿なの!?」
「はぁッ!?殺すぞてめー!」
「今殺されそうになってるんですよッ!!」
涙目になる蓮太郎は朧を睨んで言葉を返す。二人はやいのやいのと言い合いながらまだ一向に数の減らない黒い思念に炎で応戦している。
普段静かな神社の中で人間には見えないが、暗闇の塊と白の炎と光、そして青い炎がぶつかり合って弾けていく不思議な光景が展開されていた。あたりに強い風が巻き起こり、木々が枝葉を擦り合わせてざわつく。その中で狐達は軽やかに飛び跳ね、店主はあくまでも動かずに淡々と自分に絡み付いてこようとするモノをあしらう。
そこに、「見える者」がふらりと姿を現した。黒に近い青の髪の毛と、煌く宝石のような青紫の瞳。青みを帯びるくらいに白い肌を漆黒のローブに包んで、薔薇の蔦の絡みつく大きな死神の鎌を持ったアンリだった。
聖堂に行ったアンリが店主の不在に気づき、散歩がてらふわりふわりと漂っていたらしく、この神社の変異に気づいて様子を見に来た。そこで世にも珍しい、ちょっと活動的な店主を見つけて空から降りてきた。アンリは穢れが苦手で、見ているだけで胸の悪くなる状態だが何事かと驚き、怖いもの見たさのほうが勝ってしまった。
店主の背後に降り立ったそんな死神に、突然大きな白い光が風と共に叩きつけられる。
「うわぁっ!」
全く予想していなかったそれに、アンリはぎょっとして飛びのいたが、肩の辺りのローブとさらりとした綺麗な髪の毛を燃やされてしまった。その拍子に頭にかぶっていた黒衣のフードがはらりと肩に落ちる。
「ちょっと何するんですかッ!?」
燃やされた髪の毛を手で押さえてアンリはそれを放った相手、店主に眼を向いて言った。
「おや、おまえも来たのですか?…どうしたんですか、その格好は」
しれっと、確実に分かっているはずの店主がにやりと笑って言い返した。それにアンリはぽかんと口を開けて見つめる。
なんか…すごく楽しそうなんだけど、この人。
薄ら笑いながら黒い思念を叩き潰す店主に、アンリはなにやらその黒いもの以上に黒さを感じる。元々穏やかな中に明らかな黒さを持つ店主の奥を垣間見たような気がしてならない。
「そんなところでボーっとしてたら、おまえもやられますよ?」
「……っていうか、コレなんですか?」
鎌に絡みついた邪なものを、ぶんと振り払いアンリは店主に尋ねる。そして目の前で飛び跳ねる狐達にも視線を向けて、ますます分からないといった顔で店主を見た。
「私にもよく分かりません。あぁ、ほら後ろ」
言いながら店主はまた大きな光をアンリに向けて放った。突風と共に放たれたそれは、明らかにアンリを狙ったかのような弧を描き、僅かにずれてアンリの後ろから襲い掛かってきた暗闇に命中する。
「今の絶対僕を狙ったでしょっ!!」
先ほど以上に身を仰け反らせてよけたアンリが店主を睨んで声を荒げる。
「人聞きの悪い事をいわないで下さい。助けて差し上げたのですよ?」
ニヤニヤと底意地の悪い笑みを浮かべる店主に、アンリは大きく嘆息して、とにかく今はこのおかしな状況に参加しなければいけないと思う。いや、したくはないのだが。
「僕も手伝いますから、後でお茶淹れてくださいねぇ」
死神の鎌を構えて言ったアンリに、店主は穏やかな笑みを見せて頷いた。
「私ももう年ですから、おまえがなんとかしてくださいね」
「僕コレでも仕事帰りなんですけどー。もー仕方ないからさっさと終わらせますよ!」
アンリがあどけない笑顔で店主に言い、ふと空を見上げた。まだまだ降り続くその暗闇の大元を、綺麗な青紫の瞳で見つめて、そしてその整った顔から笑顔を消した。両手に鎌を水平して持ち、瞳を伏せて言葉を紡ぐ。その言葉によって、死神の鎌にふわりと浮かび上がったのは炎だった。煌びやかな七色の炎は瞬く間に大きく燃え上がり、アンリの黒衣をなぞるように包み込んでいく。普段間抜けなほどにのんきなアンリを彩ったその炎の中で、妖艶で残忍な笑顔を見せた死神がいる。長い睫毛に囲まれた宝石の瞳の中にも炎は映りこみ、その炎の生み出す熱風で揺らめくアンリは気高く、これが本来の姿だったのかと、店主まで目を見開いて驚いてしまうくらいに凄絶で荘厳だった。
暴れていた狐達も、いきなり出てきたその綺麗な死神に対して思わず見とれてしまっている。そんな視線など気にもしないアンリはただ猟奇的にも見える笑みを浮かべて、ふわりと身体を宙に浮かせた。おぞましい暗闇に向かって、炎の中でアンリは一度あどけなく笑い、両手でしっかりと持った燃え滾る死神の鎌を大きく薙いだ。空気を裂く音と共に台風のように強い風が吹き荒れて、アンリの髪の毛と黒衣が激しく踊る。
アンリの鎌から迸る七色の炎があたり一帯を照らし、そして暗闇を一掃していく。光が闇を飲み込むように七色が黒を覆いつくして弾けていく。大きな大きな花火のようなその光と熱に、狐達は顔をそむけて目を守り、店主は腕を組み楽しむように見ていた。アンリがもう一度大きく鎌を薙ぎ、完全に黒を七色で覆ってしまうと、絶叫と共にそれらが完全に消えていくのにそう時間はかからなかった。
あれほど戯れるようにいた邪な者達がほぼ一瞬にして姿を消してしまった。アンリの炎によって跡形もなく、全て焼き尽くされて、消滅した。
「ご苦労様でした」
大きな溜息をついたアンリが地上に戻ってくると、店主が穏やかな声で言う。それにアンリは乱れた髪の毛と黒衣を整えながら軽く店主を睨んだ。
「これ位あなたなら余裕じゃありませんか?なんだってちまちま遊んでたんですか」
「私の店の中なら容赦はしませんが、ここはこの子達の場所ですからね」
そういった店主の視線の先には、呆然とした様子の狐達がいる。青紫の瞳を瞬かせたアンリが店主に問いかける。
「この子達は?」
「ここを守る子達ですよ。可愛らしいでしょう?」
「はぁ…」
はじめて見るその狐に、アンリはきょとんとしたままだ。そこに朧が声をかける。
「あんたスゲーなぁ」
「…そう?」
「うん。綺麗だった、炎。もっかい出して?」
「はぁ?」
無邪気な朧の言い方にアンリは間抜けな声を出す。
「いいじゃん出してよ。俺のは青だけだからあんたの見たいんだもん」
「いや、見せ物じゃないし…炎出すのも疲れるんだよ?」
何言ってるの、この子…馬鹿なの?
アンリはあきれ果てた様子で朧を見てそんなことを考えてしまった。なおも食い下がる朧に困り果てて店主を振り返る。
「助けてくださいよ、この子なんなの?」
「朧は好奇心旺盛ですから。ですが私も今日は疲れましたので、そろそろ帰りましょうか」
すっかり静かになった空を見上げて店主はアンリに言う。
「えーもう帰るの?」
朧が不満げに言い、蓮太郎は疲労困憊なのか渇いた笑いを零すだけだ。
「また来ますよ。今度はゆっくりと、お話でもしましょうか」
にこやかな店主に朧も仕方がないといった様子で納得する。そのままアンリに視線を流してにやりと笑った。
「あんたも来てね」
「へ?」
「次、絶対あんたも来てよ?」
小首を傾げて無邪気な笑顔で朧が言った。それにアンリはあどけない笑顔で頷く。
「仕方ないから来てあげるよ」
「へへ」
互いに何か分からないが、気に入ったようだ。
店主はそんな二人を見て穏やかに微笑み、アンリをつれて神社を後にした。
空には綺麗な星と月が優しい光を滲ませて、静かな社の屋根の上には、二人を見送る白と黒の狐がちょこんと座っていた。
*おわり*