婚約指輪を妹に譲れと言われました。構いません、その石は最初から割れています
婚約者の顔より、指輪の石のほうが長く見ていられる。
そんなことを言うと、たいていの人は呆れる。
でも、事実なのだから仕方がない。
人の顔は、機嫌で変わる。
言葉でも変わる。
見栄でも変わる。
けれど石は、変わらない。
割れた石は割れているし、濁った石は濁っている。
内包物は嘘をつかない。
光を当てれば、たいていのことは分かる。
少なくとも私は、そう思っている。
だから、婚約者であるエドガー・ヴァルク侯爵子息が、私の実家の応接間でこう言ったときも、私は彼の顔より先に、彼の手元を見ていた。
「クラリス。君との婚約を破棄したい」
エドガー様の手には、小さな黒革の箱があった。
私の婚約指輪を入れるための箱である。
中に入るべき指輪は、今、私の左手にある。
青い石を留めた銀台の指輪。
ヴァルク侯爵家に代々伝わる青晶石だと聞かされていたものだ。
ただし私は、初めて見た日からずっと、少しだけ気になっていた。
石の中心に、髪の毛ほど細い割れがある。
角度によってはほとんど見えない。
でも、ある。
しかもその割れ方が、どうにも可愛い。
「聞いているのか、クラリス」
エドガー様が眉をひそめた。
私は顔を上げる。
「はい。婚約破棄ですね」
「ずいぶん落ち着いているな」
落ち着いているというより、今まさに石の割れ目を見ていた。
でも、それを言うとまた怒られるので黙っておいた。
ここはエルヴェール伯爵家の応接間である。
主は私の父、エルヴェール伯爵。
今日の話し合いには、父と母が同席していた。
エドガー様は、ヴァルク侯爵家の代理として一人で来ている。
正式な婚約解消には両家当主の書面が必要なので、今この場で決まるのは、あくまで申し入れと条件の確認だ。
そのくらいは、私でも分かる。
石ほどではないが、婚約の手順も少しは知っている。
「理由を伺っても?」
父が低い声で問うた。
エドガー様は、わざとらしく息を吐いた。
「クラリスは、私を見ていません」
「見ておりますが」
「見ていない」
即答された。
少し困った。
見てはいる。
ただ、長く見るほどの面白みがないだけで。
「彼女はいつも石ばかり見ているのです」
エドガー様は続けた。
「夜会で宝石を贈っても、喜ぶのは輝きではなく傷だ。婚約指輪を贈った日でさえ、私への礼より先にルーペを取り出した」
「取り出しましたね」
私は頷いた。
「あの石は、光の入り方が面白かったので」
「そういうところだ!」
エドガー様が声を強めた。
母が扇の陰で、ほんの少しだけ目を伏せる。
たぶん笑いを堪えている。
「私は君の夫になる男だぞ。なのに君は、私より石の割れ目を気にしている」
「正確には、割れ目だけではありません」
「訂正するところはそこではない!」
「内包物も見ています」
エドガー様は額に手を当てた。
私は少し反省した。
今のは言わなくてもよかったかもしれない。
「エドガー様」
父が口を挟んだ。
「つまり、性格の不一致ということでしょうか」
「はい」
エドガー様は頷いた。
「私は、もっと柔らかく、私を見てくれる女性を妻にしたい」
「なるほど」
父の声は硬かった。
「それで?」
「そこで」
エドガー様は、私の隣に座る妹へ視線を向けた。
「ロゼッタ嬢と、新たに婚約を結びたいと考えています」
ロゼッタが、頬を染めてうつむいた。
私の妹。
エルヴェール伯爵家の次女。
薔薇色の頬と柔らかな金髪を持ち、宝石は身につけてこそ美しいと信じている子だ。
姉妹仲は悪くなかった。
少なくとも、私はそう思っていた。
ロゼッタが私の宝石棚から勝手に石を持ち出すたびに、私は怒るより先に研磨面の傷を確認していたし、彼女が謝れば返してくれたからだ。
だが、婚約者まで持ち出すとは思わなかった。
石ではないので。
「お姉様」
ロゼッタが、小さな声で言った。
「申し訳ありません。でも、わたくし、エドガー様をお慕いしてしまったのです」
「そう」
私は頷いた。
それ自体は、まあ、そういうこともあるだろう。
人の心は石よりずっと動く。
「それで」
エドガー様は黒革の箱を卓の上へ置いた。
「婚約指輪を返してもらいたい」
「もちろんです」
「さらに、その指輪はロゼッタへ譲るつもりだ」
「分かりました」
「……分かったのか?」
エドガー様が拍子抜けした顔をした。
ロゼッタも目を丸くしている。
「ええ」
私は左手の指輪を見た。
「構いません。実はその石、最初から割れていますので」
応接間が静かになった。
父が、ゆっくりこちらを見る。
母の扇が、ぴたりと止まる。
エドガー様は私を睨んだ。
「負け惜しみか」
「いいえ」
「姉として、妹へ傷物を渡すのが悔しいのかしら」
ロゼッタが、少しだけ勝ち誇った声で言った。
私は首を振った。
「むしろ心配しています」
「心配?」
「熱を受けると、たぶん割れます」
ロゼッタの顔が引きつった。
「割れる?」
「ええ。綺麗に」
私は少しだけ目を細めた。
そう。
あの割れ方なら、たぶん綺麗に割れる。
中心から斜めに光が走り、表面に小さな羽根のような裂け目が出るはずだ。
惜しい。
非常に惜しい。
割れる前の石は好きだが、割れる瞬間も見たい。
でも妹の指で割れるのは危ない。
悩ましい。
「クラリス」
母が静かに呼んだ。
「その説明を、婚約指輪を受け取ったときにしたのですか」
「しました」
「どう伝えたの」
「この青晶石は内部に細い割れがあるので、暖炉の近くや強い日差しの下で長く身につけるのは避けたほうがよろしいかと」
「誰に?」
「エドガー様に」
「聞いておりません!」
エドガー様が叫んだ。
私は首を傾げた。
「お伝えしました。婚約披露の小宴のあと、南廊下で」
「覚えていない!」
「そのときエドガー様は、私がまた石の話をしているとおっしゃって、途中で薔薇園へ向かわれました」
「そんな細かいことを覚えているのか」
「石のことなので」
エドガー様は、また額に手を当てた。
どうして皆、石の話を聞くと頭を痛くするのだろう。
石は面白いのに。
「姉上」
父が言った。
ここでいう姉上とは、母のことだ。
父は昔から、母を身内の愛称で呼ぶ癖がある。
「念のため確認したほうがよさそうだ」
「ええ」
母は頷いた。
「クラリス、その指輪を卓へ」
「はい」
私は指輪を外し、黒い布を敷いた。
布は私物である。
応接間で婚約破棄されるかもしれないとは思っていなかったが、石を見る布は常に持っている。
令嬢の嗜みではないかもしれない。
でも私の嗜みではある。
その上へ、指輪をそっと置く。
そして、袖の内側から小さなルーペを取り出した。
「今、どこから出した」
エドガー様が呆然とした。
私は答える。
「袖です」
「なぜ袖にルーペが」
「便利なので」
「何に」
「石を見るのに」
「今でなくていいだろう!」
「今が一番必要です」
私はルーペを片目に当て、石を覗き込んだ。
やはり綺麗だ。
青い石の中に、白い糸のような割れが一本。
その奥に、小さな泡が二つ。
さらに底近くに、黒い粒状の内包物がある。
初めて見たときも気になったが、やはりヴァルク侯爵家に代々伝わる石にしては、少し新しい。
研磨跡も甘い。
端の処理に、職人の癖がない。
というより、別人の手だ。
「……おかしいですね」
私は呟いた。
エドガー様が肩を揺らした。
「今さら何が」
「この石、代々伝わる青晶石ではありません」
「何だと」
「似せていますが、違います」
私はもう少し角度を変えた。
光を入れる。
内側の泡が丸く浮かぶ。
「本来、ヴァルク家の古い青晶石は、山脈北側の鉱脈から採れたものだと伺っています。あの鉱脈の石なら、内包物は細い針のように伸びるはずです。これは泡が丸い」
「そんなもの、誰に分かる」
「私です」
「君だけではないか!」
「たしかに」
そこは否定できない。
私だけが分かっても、証拠としては少し弱い。
でも、石は嘘をつかない。
分かる人が見れば分かる。
「お父様」
私は父を見た。
「ユリウス様はまだいらっしゃいますか」
「来客棟にいるはずだ」
「呼んでもよろしいでしょうか」
「呼ぼう」
父はすぐに執事へ合図した。
エドガー様の顔色が、わずかに変わる。
「ユリウスとは誰だ」
「ユリウス・ラングレー伯爵です」
私は答えた。
「ラングレー伯爵家は、西方鉱山の管理家です。今朝、父と鉱石取引の話でいらしていました」
「なぜそんな者を」
「石を見るためです」
「石を見るために伯爵を呼ぶな!」
「伯爵は石を見るのが仕事です」
エドガー様は黙った。
ロゼッタも、少し不安そうに指先を握る。
私は指輪を見た。
やはり、良い割れ目だ。
ただ、婚約指輪として妹へ渡すには危ない。
鑑賞用なら良い。
身につける用ではない。
「お姉様」
ロゼッタが小さく言った。
「本当に割れるの?」
「条件が揃えば」
「条件?」
「強い熱、急な冷え、または強い衝撃」
「普通に身につけるぶんには?」
「暖炉のそばで長く手をかざしたあと、冷えた杯を持つと危ないかもしれません」
「普通にありそうなのだけれど」
「だから心配しています」
ロゼッタは青ざめた。
私は少し安心した。
勝ち誇られるより、怖がってくれたほうが指輪を雑に扱わない。
やがて、応接間の扉が叩かれた。
入ってきたのは、黒髪に灰色の目をした男性だった。
ユリウス・ラングレー伯爵。
若いが、すでに家督を継いでいる。
西方鉱山の管理者で、父とは鉱石取引の相手でもある。
そして、私が王都で数少ない「石の話を最後まで聞いてくれる人」だ。
「失礼します」
ユリウス様は室内を見回し、状況を察したのか、少しだけ目を細めた。
「婚約破棄の場だと伺いましたが」
「はい」
「なぜ黒布が出ているのですか」
「指輪を見るためです」
「なるほど」
彼は、それだけで納得した。
とてもありがたい。
普通は、ここでなぜ婚約破棄より指輪を見ているのかと聞かれる。
でもユリウス様は聞かない。
石が出ているなら見る。
それで十分なのだ。
「ラングレー伯爵」
父が卓上の指輪を示した。
「この石を確認していただきたい。ヴァルク侯爵家に代々伝わる青晶石かどうか」
「承りました」
ユリウス様は黒布の前に立ち、手袋をはめた。
動きが丁寧だ。
石に触れる人の手つきである。
私は少し感動した。
こういう手つきは、美しい。
舞踏会での手の差し出し方より、ずっと。
「クラリス嬢」
ユリウス様が言った。
「先に、あなたの見解を」
「よろしいのですか」
「ええ。どうせもう見ているでしょう」
「はい」
私は頷いた。
「内部の泡が丸いです。北側鉱脈の古い青晶石なら、針状の内包物が出やすいはずです。それから、端の研磨が新しい。古い家宝を留め直したというより、最近削った処理石に見えます」
「割れは」
「中心から斜めに一本。熱で走ると思います」
「同感です」
ユリウス様はすぐに言った。
エドガー様が息を呑む。
「まだ見てもいないだろう!」
「見ました」
「いつ」
「入室したときに」
「そんな一瞬で分かるわけがない!」
「分かることもあります」
ユリウス様は静かに指輪を持ち上げた。
窓からの光へかざす。
灰色の目が、石の奥を追う。
その横顔は真剣だった。
私は思わず見入ってしまった。
人の顔より石のほうが長く見ていられると思っていたが、石を見ている人の顔もなかなか良い。
「これは、ヴァルク家の古い青晶石ではありません」
ユリウス様が断言した。
「処理石です。色を濃く見せるために加熱されています。割れがあるので、指輪として日常使いするには不向きです」
「そんなはずはない!」
エドガー様が立ち上がった。
「これは我が家の指輪だ!」
「台座は古いですね」
「ほら見ろ!」
「石だけ替えています」
短く、はっきり。
エドガー様の顔色が変わった。
父が低い声で問う。
「エドガー様。婚約時に示された説明では、青晶石も台座もヴァルク家伝来のものということでしたね」
「そ、それは」
「違っていたということですか」
「私は知らない!」
「知らない?」
母の声が少しだけ鋭くなった。
「では、どなたが石を替えたのでしょう」
「職人だ。修理に出したから、そのときに」
「修理?」
私は石から顔を上げた。
「いつですか」
「それは……」
「婚約披露の前に見せていただいたときには、すでにこの石でした」
「だから、その前だ!」
「その前に家宝の石を外し、処理石に替えたのですか」
「私は知らないと言っている!」
声が大きい。
大きい声は、だいたい割れた石に似ている。
力を入れすぎると、そこからさらに崩れる。
「エドガー様」
私は静かに訊いた。
「本物の青晶石は、今どこにありますか」
「知らない!」
「質屋ですか」
「なっ」
今の反応で、父の目が細くなった。
母の扇が閉じる。
ロゼッタが震える声を出した。
「エドガー様?」
「違う。違う、ロゼッタ」
エドガー様は慌てて妹のほうを向いた。
「少し金が必要だっただけだ。すぐ戻すつもりだった」
「質に入れたのですか」
父が問う。
「家宝の青晶石を」
「一時的にです!」
「理由は」
「……」
「答えなさい」
父の声は、静かだった。
エドガー様は唇を噛む。
ロゼッタは、もう泣きそうな顔だった。
私は指輪を見ていた。
なるほど。
本物を質に入れ、似た処理石を台座に留めた。
婚約者である私が気づくとは思わなかった。
いや、気づいたが聞かなかったことにしたのだろう。
彼の中では、私が石の話ばかりしているのは、ただ気味の悪い癖だったのだから。
「ロゼッタへの贈り物ですか」
私は訊いた。
エドガー様が目を逸らした。
ロゼッタが小さく息を呑む。
「まさか」
「……彼女が欲しいと言った首飾りがあった」
「エドガー様!」
「君のためだったんだ、ロゼッタ!」
「わたくし、家宝を質に入れてまで欲しいなんて言っていません!」
「だが、君はあの首飾りを気に入っていた」
「だからといって!」
「クラリスは石にしか興味がないから、どうせ分からないと思ったんだ!」
ああ。
そう来るのか。
私は思わず、指輪の石から顔を上げた。
エドガー様は、言ったあとで自分の失言に気づいたらしい。
顔色が一段落ちる。
「どうせ分からない」
私は繰り返した。
「石にしか興味がない女が、石のすり替えに気づかないと?」
「……」
「それは少し、見積もりが甘いです」
ユリウス様が、横で小さく咳をした。
笑ったのかもしれない。
母は扇の陰に完全に口元を隠している。
父だけは笑わなかった。
父は、かなり怒っていた。
「ヴァルク侯爵家へ正式に確認を入れます」
父が言った。
「婚約解消の申し入れは受けます。ただし、原因はエドガー様側の不誠実、エルヴェール伯爵家への虚偽説明、および婚約指輪に関する重大な説明違反として扱います」
「待ってください、伯爵!」
「待ちません」
「父上にはまだ」
「あなたが家宝を質に入れたことを、侯爵はご存じないのですね」
「……」
「ならば、なおさら正式にお伝えしなければなりません」
エドガー様は、完全に言葉を失った。
ロゼッタは両手で顔を覆っている。
少し可哀想ではある。
ただし、姉の婚約者を奪おうとしたことは事実なので、そこは別で反省してほしい。
石に罪はない。
しかし人には、たまに罪がある。
「お姉様」
ロゼッタが涙声で言った。
「わたくし、本当に知らなかったの。エドガー様が家宝を質に入れていたなんて」
「でしょうね」
「信じてくださるの?」
「ロゼッタは、石の値段は見ますが、石の来歴は見ません」
「それは信じていると言えるのかしら」
「かなり正確な評価です」
「お姉様!」
「でも、家宝を質に入れさせる子ではありません」
ロゼッタは、そこでぽろぽろ泣き出した。
私は少し困った。
妹が泣いているとき、普通の姉なら抱きしめるのだろうか。
でも今、私の手には割れた石がある。
いや、まだ割れてはいない。
割れそうな石がある。
落とすわけにはいかない。
「ロゼッタ」
私は言った。
「今後、男性から高価な宝石を贈られたら、一度私に見せなさい」
「今それを言うの?」
「大事です」
「大事かしら」
「とても」
ロゼッタは泣きながら、少しだけ笑った。
よかった。
完全に壊れるほどではなさそうだ。
「クラリス」
母が私を見た。
「あなたは、その指輪をどうしたいの」
「返します」
私はすぐ答えた。
「婚約指輪ですから」
「本当に?」
「はい」
一拍置く。
「ただ、割れるところは少し見たいです」
「クラリス」
「分かっています。返します」
私は指輪を黒革の箱へ戻そうとした。
そのとき、ユリウス様が静かに口を開いた。
「その前に、記録だけ取っても?」
「記録?」
「この処理石の割れは興味深い。加熱の仕方が雑ですが、裂け方は美しい」
「そうなのです!」
私は思わず身を乗り出した。
やはりそうだ。
分かる人は分かる。
この石は婚約指輪としては最低だが、失敗例としてはかなり良い。
「斜めに走っていますよね」
「ええ。たぶん冷却が急だったのでしょう」
「中心の泡も丸いです」
「処理石らしい泡ですね」
「可愛いです」
「分かります」
応接間が静まり返った。
でも構わない。
私は今、かなり大事な話をしている。
失敗した石には、失敗した石の可愛さがある。
完璧な宝石だけが宝石ではない。
割れ目には割れ目の物語がある。
「……クラリス嬢」
ユリウス様が、ほんの少し笑った。
「あなたは本当に、石が好きなのですね」
「はい」
私は即答した。
「人より?」
「場合によります」
「かなり正直だ」
「嘘をついても石には負けますので」
「いい答えです」
エドガー様が、信じられないものを見る目でこちらを見ている。
その顔は、婚約を破棄した女が、別の男と割れた石について楽しそうに話しているのが理解できない、という顔だった。
私にも少しは分かる。
たぶん、普通ではない。
でも、婚約者を妹へ譲れと言われた場で、元婚約者の顔色ばかり気にするより、石の割れ目を気にしているほうが私は私らしい。
「クラリス」
父が声を低くした。
「この場は、いったんここまでだ。ヴァルク侯爵家へ正式に書状を出す」
「はい」
「ロゼッタも、あとで話があります」
「……はい、お父様」
ロゼッタは小さく頷いた。
エドガー様は、執事に案内される形で応接間を出ていった。
黒革の箱も、証拠として父の手元に残された。
婚約指輪。
処理石。
割れた家宝の代用品。
そして、私が少しだけ欲しかった失敗例。
応接間に静けさが戻ると、母が深く息を吐いた。
「クラリス」
「はい」
「婚約破棄されたのよ」
「はい」
「少しは傷ついている?」
「傷ついています」
私は答えた。
それは本当だった。
婚約者に石しか見ていないと言われた。
妹と新しく婚約したいと言われた。
婚約指輪を譲れと言われた。
そのうえ、石のすり替えに気づかないと思われていた。
傷つかないはずがない。
「でも」
私は少し考えた。
「石のすり替えに気づかないと思われたことが、一番腹立たしいです」
「そこなのね」
「はい」
「あなたらしいわ」
母は少し笑った。
父はまだ難しい顔をしていたが、怒りは私へ向いていない。
それが分かるだけで、少し落ち着いた。
「ラングレー伯爵」
父がユリウス様へ向き直った。
「急な確認に感謝する」
「いえ。興味深い石でした」
「本当に興味深かったようですね」
「はい」
ユリウス様は真面目に頷いた。
父は少しだけ苦笑する。
「娘の相手をしていただき、助かりました」
「相手ではありません」
ユリウス様は言った。
「会話です」
私は、その言葉に少しだけ胸が温かくなった。
そう。
会話だった。
私が一方的に石の話をして、相手が困るのではなく。
石を見て、石について話す。
ただそれだけのことが、どうしてこんなに嬉しいのだろう。
「クラリス嬢」
ユリウス様が私を見た。
「このあと、来客棟のほうに鉱石見本を広げる予定でした」
「鉱石見本」
「西方鉱山の新しい採掘分です」
「新しい採掘分」
「割れ、濁り、形の悪いものもあります」
「形の悪いもの」
「見るだけなら」
「見ます」
即答だった。
母が小さく咳をした。
父が眉を上げる。
私は慌てて言い直した。
「見せていただけるなら、拝見したいです」
「もちろん」
「婚約破棄直後の令嬢を鉱石見本に誘うのは、少し危険です」
「なぜですか」
「弱いので」
「鉱石に?」
「はい」
「では、なおさら慎重にお見せします」
この人は、分かっているようで少しずれている。
でも、良いずれ方だ。
私はそう思った。
その日の夕方、ヴァルク侯爵家から急ぎの返書が届いた。
侯爵は、息子が家宝の青晶石を質に入れていたことを知らなかったらしい。
書状はかなり強い筆圧で書かれていた。
婚約解消は、ヴァルク侯爵家側の責任として受け入れること。
青晶石はただちに買い戻すこと。
エルヴェール伯爵家への謝罪と違約金を支払うこと。
エドガー様はしばらく領地の鉱山監査へ同行させること。
最後の一文を読んで、私は少しだけ目を丸くした。
鉱山監査。
それは罰なのだろうか。
私には少し羨ましい。
いや、エドガー様にはつらいだろう。
石に興味がない人に鉱山は厳しい。
たぶん。
ロゼッタは、しばらく社交を控えることになった。
父と母からかなり厳しく叱られたらしい。
彼女は泣きながら私の部屋へ来て、こう言った。
「お姉様」
「何?」
「わたくし、これから宝石をいただいたら必ずお姉様に見せるわ」
「ええ」
「あと、男性の言葉も少し疑うわ」
「それも大事ね」
「でも、石ほどは分からない」
「石より人のほうが難しいから」
「お姉様でも?」
「私でも」
ロゼッタは少しだけ考え込んだあと、ぽつりと言った。
「なら、わたくしは人を見るのが下手だったのね」
「たぶん」
「そこは慰めてほしいわ」
「ロゼッタは、似合う宝石を選ぶのは上手よ」
「それは慰めなの?」
「かなり」
「お姉様って、本当に変」
「知っているわ」
ロゼッタは、今度は泣かなかった。
少しだけ笑って、帰っていった。
たぶん、この妹とはこれからもいろいろある。
でも、少なくとも家宝を質に入れる男よりは、まだ磨きようがある。
人を石にたとえるのはよくないかもしれない。
でも、原石だと思えば、だいたいのことは少し許せる。
それから数日後。
ヴァルク侯爵家から本物の青晶石が戻されたと連絡があった。
父は確認のため、ラングレー伯爵家へ鑑定を依頼した。
もちろん、私も同席した。
もちろん、というほど当然ではないかもしれないが、私は同席したかった。
本物を見ずに終わるなど、あまりにも惜しい。
ラングレー伯爵家の王都屋敷には、小さな鉱石室があった。
壁一面の棚。
標本箱。
黒布。
銀の小道具。
窓辺の自然光。
そして、古い石の匂い。
石に匂いはないと言う人もいる。
でも、ある。
土と木箱と古い布と、わずかな金属の匂い。
私は入った瞬間、少しだけ息を止めた。
いい。
かなりいい。
「大丈夫ですか」
ユリウス様が訊いた。
私は真剣に答える。
「危険です」
「また?」
「はい。この部屋は危険です」
「では、椅子を用意しましょう」
「そういう危険ではありません」
「では、どういう危険ですか」
「帰りたくなくなります」
「それは困るような、困らないような」
「困ってください」
ユリウス様は、少しだけ笑った。
そして黒い布の上に、青晶石を置いた。
本物だった。
見た瞬間に分かった。
青が深い。
処理石のような作った濃さではない。
奥に小さな針状の内包物が走っている。
まるで夜明け前の雪原に、細い銀の草が生えているようだった。
私は言葉を失った。
「クラリス嬢?」
ユリウス様が呼ぶ。
私は、ようやく息を吐いた。
「これは」
「ええ」
「すごいです」
「そうですね」
「なぜ質に」
「私にも分かりません」
「なぜ質に」
二度言ってしまった。
でも仕方ない。
こんな石を質に入れるなど、信じがたい。
エドガー様は、本当に石を見ていなかったのだ。
「取り戻されてよかった」
ユリウス様が言った。
「はい」
「ただ、あなたの婚約指輪としては戻らない」
「それは構いません」
「本当に?」
「はい」
私は青晶石を見つめたまま答えた。
「これは、ヴァルク家で大切に保管されるべき石です。私が身につけるより、そちらのほうが良いと思います」
「石の気持ちを優先するのですね」
「石に気持ちはありません」
「では?」
「私の気持ちです」
ユリウス様は、少しだけ黙った。
それから静かに言った。
「あなたは、石を飾りとしてではなく、石として見ている」
「はい」
「私は、それが好ましいと思います」
「ありがとうございます」
普通なら、ここで頬を染めるべきなのかもしれない。
でも私は、青晶石の内包物に見入っていて、それどころではなかった。
ユリウス様も、それを咎めなかった。
むしろ、自分も隣で石を見ていた。
しばらく、二人で黙って石を見た。
何も話さない時間なのに、気まずくなかった。
不思議だった。
エドガー様とは、話していても気まずいことが多かったのに。
「クラリス嬢」
ユリウス様が、やがて口を開いた。
「西方鉱山には、誰も価値をつけない石を集めた倉庫があります」
「誰も価値をつけない石」
「割れ、濁り、歪み、変な形、売り物にならない原石ばかりです」
「……それは」
「見に来ますか」
「求婚ですか?」
「まだ違います」
「危ないです」
「何が」
「私には、かなり効きます」
「では、順番を間違えましたね」
ユリウス様は真面目な顔で言った。
私はまばたきをする。
「順番?」
「先に鉱山の倉庫を餌にしてはいけなかった」
「餌」
「あなたは、良い石倉庫の話に弱い」
「とても弱いです」
「覚えました」
彼は、そこで一度姿勢を正した。
青晶石の前で、真正面から私を見る。
石を見ていたときと同じくらい真剣な目だった。
「では、改めて」
ユリウス様は言った。
「クラリス・エルヴェール嬢」
「はい」
「私は、あなたと石を見ている時間が好きです」
「……はい」
「あなたが石に夢中で、時々こちらを忘れるところも、嫌ではありません」
「それは少し問題では」
「私も石を見るので」
「なるほど」
「西方鉱山の石倉庫を、あなたに見せたいと思っています」
「はい」
「それから、そのあとも、できれば一緒に見たい」
「はい」
「これは求婚の前段階の申し込みです」
「前段階」
「婚約を破棄された直後の令嬢に、いきなり正式求婚するのは性急でしょう」
「常識的です」
「ですが、何もしないと、あなたが石だけ見てどこかへ行きそうなので」
「それは否定しきれません」
「ですから、まずは交際の申し込みを」
「交際」
私は青晶石から、ようやく完全に目を離した。
心臓が少し速い。
石を見ているときとは違う速さだった。
不思議だ。
今まで、人の言葉でこんなふうに胸が鳴ったことはあまりない。
「条件があります」
私は言った。
ユリウス様は頷く。
「聞きます」
「鉱山へ行くときは、必ず標本箱を持っていきたいです」
「用意します」
「割れた石を捨てないでください」
「捨てません」
「売れない石だからといって、価値がないとは言わないでください」
「言いません」
「私が石を見て黙っていても、怒らないでください」
「怒りません」
「あなたより石を見ている時間が長くても、拗ねないでください」
「おそらく私も石を見ています」
「では、大丈夫です」
ユリウス様は、少し笑った。
「返事は?」
「お受けします」
「ありがとうございます」
「ただし」
「まだありますか」
「西方鉱山の倉庫は、本当にありますね?」
「あります」
「割れ、濁り、歪み、変な形の石も?」
「山ほど」
「山ほど」
「ええ」
「……それは、ほとんど結婚詐欺に近い魅力です」
「気をつけます」
私たちは、二人で少し笑った。
青晶石は、黒布の上で静かに光っている。
あの日、婚約指輪として私の手から離れた石は、結局私のものにはならなかった。
でも、それでよかった。
あの石は、あの家に戻るべきだった。
私の手には、代わりにもっと面白いものが残った。
石を見る時間。
石の話を聞いてくれる人。
割れたものを、割れたまま面白いと言える場所。
王都では、しばらく私の噂が流れたらしい。
婚約者を妹に奪われた令嬢。
婚約指輪を譲れと言われた令嬢。
けれど、その指輪の石が偽物だと見抜いた令嬢。
元婚約者より、石の割れ目に夢中だった令嬢。
どれも、だいたい合っている。
少しだけ言い方がひどいけれど、間違ってはいない。
だから私は訂正しない。
ただ、もし誰かがこう言うなら、そこだけは直すつもりだ。
宝石にしか興味のない女。
それは少し違う。
私は、宝石を飾るより、石そのものを見るのが好きな女である。
そして近いうちに、石倉庫つきの交際を始める予定だ。
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