無言のくちびる
なんとか言ってよ、と責められたとき、田舎から送られてきた羊羹を勧めてみたのは失敗だった。涙ながらに出て行った彼女を追う気もなく、一人で羊羹を食べた彼は、翌日、社内の女性たちから一斉に冷たい眼差しを向けられた。それはいっそ、面倒なお愛想から解放されて幸いだったのかもしれないが。
ただ惜しむらくは、いままで喜び勇んで請け負ってくれたはずの雑用を、一切拒否されたことだ。ただでさえ休日出勤、残業などざらにある部署内で、コピー取りから郵送手続き、くだらない書類整理にまで追われてしまってはさすがに痛い。勤務時間が大幅に長引いたのも無理はなく、能率的でないことこの上なかった。だが、泣き出す女の感情に振り回されるのはそれ以上にまっぴらだったのだ。
こうして切れた女の数は一体何人に上るだろうかと思い返しながら、せっかく手にした代休の前日だからと、近場で見つけたカウンターバーの重い扉を押し開けた。
店内は薄暗い照明ばかりで、時間も遅い、客は奥のテーブルに一人きりと、うってつけな閑散さだった。初めて入った店ではあったが、人のざわめきに煩わされないところは気に入った。新客に気付いて振り返った店員に目配せだけして、細長いカウンターの前に並ぶスツールへと腰掛けた。
空いている隣へ鞄と上着を引っかけたとき、店員の指先が灰皿を差し出した。
「ワイルドターキー。ボトル入れて」
貼りついたような穏やかな愛想笑いでそう告げた途端、店員がグラスを寄越す手を止めた。
「麻生……?」
思いもよらず呼びかけられ、彼はぼんやり店員を見上げた。見覚えがあるようなないようなその顔は、男にしては青白く、整った目鼻立ちはどこか混血くささを感じさせた。彼は記憶を辿ったが、その顔に関する情報は引き出せなかった。たかだかバーテンなどやってる男に知り合いなどいるものか。大方誰かの知人かツテか。どのみち役に立たない人間の顔など覚えているはずがない。しかたなく、早々に敵意のない穏やかな愛想笑いを深くした。
「ええと……?」
店員ははっはと軽く笑って、親しげに彼へと顔を近づけた。覗き込んできたその涼しい双眸は、不思議なほど、しっかりとした力強い意志や心根の良さを感じさせた。
「覚えてるわけないか。高校のとき同じクラスだったろ。三崎。って言っても……わかんないかなあ」
確かに覚えはなかった。もとより級友の顔を覚えているほど暇な学生生活を過ごしていたわけではない。面倒なことになったと少々思い、この場をどう返そうかと思案しながらも、微笑みだけは絶えず保った。
しかし懸念するまでもなく、三崎と名乗ったそのバーテンは、グラスとボトルを用意しながら軽快に話を続けた。
「おれはすぐ分かったけどね? 麻生は優秀だったから。…世間は狭いって聞くけど、こんなところで昔の馴染みに会ったのは初めてだよ」
馴染みと言われるのも心外ではあるものの、勝手に盛り上がっているのなら水を差すこともないだろう。適当に相づちを打つのは得意技だ。用意されたアルコールで喉を潤しながら、ただ悠然と微笑んでみせた。
「エリートサラリーマンって風情だね。さすが。おれ、あの頃、麻生に憧れてたんだよ?」
「へえ……?」
憧れていたという言葉が意外で、麻生は初めて不思議そうな表情をあらわにした。女性徒や教師の覚えはめでたく、男子生徒に関しても敵を作るまいと尽力したのは確かだが、憧憬を抱かれたことはなかった。学生時代といえば、優秀さが嫌味にならないよう、注意深く穏やかさを売り物にしたものだ。いいやつ、と呼ばれながらも、良くも悪くも派手にはならない。憧れとは無縁の存在だったろう。
だが、眼前のバーテンは、十年も前の昔話をまるで昨日のことのように上機嫌で語った。
「気付かなかったろう。そういうとこがね、飄々として涼しい顔で、そのくせ優しい物言いなんかがね。…おれはばかみたいにガキだったから、羨ましかったし、見てて気持ちがよかったよ」
「そんなこと言われたのは初めてだけど? 優しすぎるって、昨日彼女に振られたばかりだしね」
抜け目なく笑いながら自分の落ち度も披露してみせると、この、昔の級友は裏のひとつも持たないものか、まるで自分が不遇にでも出遭ったみたいに眉をひそめたかと思うと、ぐいとボトルを押し出した。
「なんだよ、飲めよ、飲んで忘れちまえ。愚痴でもなんでも言えばいいしさ」
それを一瞬眺めたあと、麻生は思わず本気で笑った。親切ごかしの同情なんかでもなく、ただ本気でまっすぐ、この男は人の不運に怒っているのだ。
突然笑い出した麻生へ訝しげな視線を向けながらも、三崎は黙って自分のボトルとグラスまで用意した。どうやら付き合ってヤケ酒というコースに励む気になったらしい。
「女に振られるのはしょっちゅうだよ、そんなに落ち込んじゃいないよ?」
込み上げる笑いを押さえつつ、なんとかそれだけ言ってはみたが、三崎は自分のグラスへ酒を注ぐのをやめなかった。
「おれもしょっちゅう振られるけどね。慣れてるからって寂しくならないわけじゃない。……あ、でもこれはべつに、おまえにツケようってんじゃないから」
「ツケたっていいよ。付き合ってくれるんだろう?」
「飲みたいから飲むんだよ。平日の夜は客も少ないし。マスターも休みだし。偶然の再会もあったしね」
むしろそう言う彼の方が寂しそうな顔をして、カウンターの向こうに立ったまま、静かにグラスへと口をつけた。
それをやはり静かに眺めているうちに、麻生は不意に、どこともなくどこかが、染み入るようなアルコールを渇望しているような気がした。
「慣れてるからって、寂しくならないわけじゃない……?」
手のひらの中に収まって、からん、と氷の軽い音を立てるグラスの琥珀を眺めながら、麻生は彼の言葉を繰り返した。
「…そうだよ」と、彼はひとこと言った。
その声はいたわるような深みを持っているにもかかわらず、どこまでもさりげなかった。しっかりと大人の男の声でありながらも、奇妙なほど印象に残るユニセックスな声音。店内に流れる微かなジャズより懐かしく響く。
寂しいのだろうか。
恋人に固執していたわけではない、誰を何を、求めていたわけでもない、寂しいと感じたことはない。
だが、確かに何かが足りないのだと、麻生は気付いた。孤独はいつも寄り添うように、この身の傍らに蹲っているのだ。慣れすぎてその存在にすら気付かなくなるほど長い間、誰が隣で眠っていても満たされないほど。
どんな瞬間にも癒されない孤独が。
「……まいったな、こんなこと」
言いかけて、麻生は言葉を止めた。さほど飲んでもいない酒に酔ったのか、声が震えかけていることに自分で気付いてしまったからだ。たやすく披露できる恋人との別れ話なんかとは明らかに違う、もっと深く限りない自分の弱さが露呈しそうになったからだ。
三崎は無言で麻生のグラスに酒を注ぎ足した。その何気ないしぐさに、麻生は惹かれた。
もしも自分の貼りついた微笑みとはまったく別の、本当の優しさなんてものがこの世に存在するのならそれは―――。
そこまで思ったとき、奥の客が立ち上がり、清算しようとするのに気付いた三崎が、カウンターの上へボトルを戻した。それをぼんやりと目で追った麻生は思わず咄嗟に、離れていこうとする三崎の腕を掴んでいた。何の用があるわけでもない、ただなんとなく掴んだ腕を三崎がゆっくり見下ろした。そんな不審な行動に、我に返って慌てて麻生がその手を離した。
三崎は微笑った。
「…すぐ戻る。ついでに店閉めてくるよ」
そう言い残して、最後の客の応対へと向かっていった彼の背を見つめながら、麻生は名残惜しげに掴んだ手首の感触を、その記憶を、手のひらに留めようとした。
もしも本当の優しさなんかがこの世に存在するのなら。それはたとえば、この、顔も覚えていなかった級友が、そのひとつを知っているのかもしれない。慣れ親しんだ孤独の影を追い払うすべを、知っているのかもしれない。
何の確証も持たずに指を伸ばしたのは初めてだった。ただ、孤独の代わりに彼が傍らに寄り添ってくれるならと、漠然とした思いを抱いた。客を送り出す三崎の姿を眺めた。彼の浮かべる微笑は、作り物の、麻生のそれとは随分と違って見えた。ごまかしのない、にせものではない、暖かい力強ささえ感じられた。それがなぜだかわからなかった。三崎は麻生に憧れていたと言った。ならばはたから自分の顔を眺めたら、やはりこんな微笑だと感じるのかもしれない。
そうであればいい、あんなふうに笑えていればいい。自分の弱さも卑屈さも、この身に潜む、あらゆる醜さが暴かれていなければいい。そんなふうに笑えているのなら、きっと自分はうまく生きているのだろう。
ほどもなく、店の看板を引き摺り上げながら三崎が戻った。扉には鍵をかけ、店内の照明をさらに落とし、カウンターの周囲だけがぼんやりとオレンジ色の光に照らされた。
いいのか、と麻生は尋ねた。親しくもなかったろう知人と再会しただけだ。店を早く閉めるほどのこともない。だが三崎は笑って、どうせ店じまいの時間なんて決まってないんだよ、とだけ答えた。時計はもう夜の一時を回っていた。
「おまえの方こそいいのか? 明日も仕事なんだろ」
麻生は皮肉のつもりでもなくただ微笑んだ。
「代休取ってあるんだ。最近休日出勤で出ずっぱりだったから。別れた彼女がね、どっか行こうって誘ってたんで」
「無効?」
「無効だね。明日の予定はガラ空きだ。…たまにはいいさ」
「じゃ、いくら勧めてもいいってことか」
軽快に笑う三崎に、麻生は苦笑して応じた。
「商売根性出すなよ?」
「…そんなんじゃないよ」
入れたばかりのボトルを飲み干すほど飲んだ後は、三崎の好意で新たな酒が持ち出された。ここの店長は三崎の叔父で、実際水のような卸値の酒をどう扱おうとさほど気にしはしないのだと彼は語った。
それでもさすがに深夜まで店に居残るのもどうか、堅苦しさもあるしと、三崎は麻生を自室へと導いた。三崎の部屋はこの店の二階に間借りしており、足りなくなった酒は、彼が店から氷とともに持ち出した。
1DKのような作りのその部屋は、玄関から伸びた細く狭い廊下の脇にユニットバスやクローゼットの扉と簡単なキッチンがあり、流しのそばには店にあるものと同じスツールがひとつだけ寄せられていた。正面のガラス扉の奥が寝室を兼ねた一間だった。そこに入って見渡すまでもなくいきなり視界に飛び込んだのは、シングルベッドの上に陣取っているやけにサイズの大きいテディベアだ。いくら三崎が若く見えても、同級生だというならば二十八になるはずで、こんなものにそぐわないこと極まりない。実際他の家具や部屋の色調はシックとも言えるほどの調和を保っていた。
「……これは、女からのプレゼントかなんかか?」
歩み寄って触れてみると肌触りはいいものの、幾分古くて薄汚れている。その背後からグラスを用意してきた三崎がこともなげに笑った。
「意外とわかりやすいやつだなあ。……もらいもんなのは確かだけど、べつにいやいや置いてるわけじゃないよ」
狭い部屋のローテーブルにグラスを置くと、三崎はそのまま麻生の背中へと回った。
「そんなに怪訝そうな顔するなって。けっこう落ち着くもんなんだよ、ほら」
さもおかしそうに笑いながら、麻生の後ろ頭へと手をやって、半ば強引にぬいぐるみの腹へその頬を押し付けた。頬に当たるやわらかい毛並みの感触を、ばかばかしくもなされるがまま味わってしまい、麻生はわずかばかりの安心感さえ感じもしたのだ。そのまま身を委ねていたいような、懐かしさとぬくもりを覚えたが、はたと気付いて、慌てて頭を上げた。
「…女と寝たほうが健全じゃないか」
少々ふてくされた子供のような恨みがましい口調になったが、三崎は意にも介さず涼しい顔で、二人分のグラスの中へ酒を注いだ。
「そうかもね。ま、どのみち気休め」
「笑われるだろう、この部屋に恋人なんか連れ込んだ日には」
「部屋に恋人連れ込む趣味はないけど。…なんにしろどんなことしてたって、笑われることなんか少なくないだろ? 誰でもさ」
麻生は何気ない三崎の言葉に押し黙った。なぜ彼はこうもたやすく、誰も認めたくはないような本当のことを、あっさりと口にできるのだろう。そこが彼の強さなのか。だとしたら自分には持ち得ない強さだ。笑い方を真似てみようとしたところで、おそらく敵わないような強さだ。
「飲まないのか?」
手際よく用意した酒を三崎が勧める。だが、それを受け取るのをためらった。悪酔いしそうな気分だった。敗北感に似た、羨望に似た、哀しい孤独を感じた。彼は寄り添うものか、こんなにも弱い自分に。手に入れたいといくら望んだところで、敵わないだろう、この強さには。それはとても寂しい確信だった。
「麻生?」
「もう、酔ってるんだよ……」
低く呟きながら、案ずるように手を伸ばしかけた三崎の肩へ、不意に堅く目を閉じて額を預けた。けしてこのみっともない表情を見せまいとしながらも、寄せられた眉間やむりやり食い縛った震える唇はいまにも泣き出しそうな面持ちで、麻生の自尊心を粉々に砕こうとするのだ。三崎は躊躇しているのだろう。だが、縋るような麻生の身体を振り払おうとはしなかった。それどころか、麻生の強張った背へ両手をまわしてゆっくりと、宥めるように抱き寄せた。
「……ばかだな、寂しいのは誰も同じで、だからおまえばっかり……我慢しなきゃならないわけじゃないのに」
穏やかなその声はまるで麻生の弱さを赦すように優しく響いた。麻生はしがみつく指先に、知らず、力を込めていた。
「こんなになるまで……我慢するなよ」
ぼんやりとその声を聞きながら、なぜ赦すのだろう、と麻生は思った。誰であってもそうして優しく抱き寄せて、聖母のようにすべてを赦そうというのか、その包容力で彼は脆弱なすべての人を。
欲しいのは、万人への愛情ではないのに。分け隔てなく与えられる優しさではないのに。こうしていることで手に入れられるのは、深く浅い、穏やかな優しさでしかないのか。
違う、と、麻生は彼の身体を掻き抱き、かつてない荒々しい激情で細い首を掴み、その唇を……驚いたように麻生を見上げる彼の唇を奪った。女性の唇よりも堅い、しっかりと守られているようなその唇に歯を立てる勢いで、自分のそれを重ね、こじあけ、抗う隙もなく濡れた舌を絡めとった。これが愛情とでもいうのか、身体の奥のどこかから突然に現われて、彼のすべてを貪り尽くしたいと願う。彼の身体を心をこの手中に収めたいと、相手の意思も尊重できないほどに。夢中でくちづけ、闇雲に彼を押し倒した。
「あ、麻生……?」
「誰にでもくれてやるものなんかいらないんだ、おれはただ……無性に、おまえが欲しいんだよ……」
躊躇いの声を抗議ととって、それをねじ伏せるように麻生は言った。そのまま彼の服を剥ぎ取ろうとし、しかしそれでも足りないものを、奪っても満たされないだろうものをと、寂しさに押し潰されかけて乱暴な腕が止まった。むやみに、愚かに、奪っても無意味なことだと、麻生はそのままゆっくりと静かに、脱がされかけていた彼の胸へと顔を沈めた。
「…どうかしてる、おれは」
自戒するように呟いた麻生の髪を、彼はそっと指先で梳いた。
「男相手に、興が削がれたか」
感情のない、冷たくも聞こえる声を発した三崎へ、麻生は慌てて面を上げた。
「そんなんじゃない、興味半分でなんかするもんか。だけどこんな……むりやりなんて、意味がないんだ……」
言い訳めいた言葉を聞きながら、麻生の顔を見ようとはせずに黙って上半身を起こした三崎は、さっきまでとは打って変わって覇気がなく、生気がなく、別人かと思うほど冷たい横顔をしていた。そして彼はグラスを片方手にとって、からんと氷が溶け落ちたのを見届けたようにそれへ口をつけた。
「伊達や酔狂で男に組み敷かれる気になんかならないよ」
彼は言った。躊躇いながらも、彼は抵抗しなかった。麻生は信じがたいものでも見るように彼を見つめた。
「憧れてたって言ったろう。……優しすぎるところも変わってないな。ずっと好きだったよ」
苦笑して、グラスに再び口をつける。
麻生はその頑なになってしまった背中に触れた。ほんのすこし身じろぐ背中は、何かを恐れるようでもあり、秘めたる高揚を現わしているようでもあった。案外に頼りなく、儚く思えたその人を、麻生はぎゅっと抱きしめた。
「酔ってるんだろう」
と三崎が咎めた。しかし麻生はその手を離さなかった。酔いなどもうとっくに醒めてる。触れたい想いは酒のせいではない。
「…キスをしよう、恋人同士みたいに」
「恋人じゃないよ」
「いまからなるんだ。本当の恋人に」
真剣な声音で低く囁いた麻生へ、三崎は答えず、黙って両手で顔を覆った。
麻生は覆い隠そうとするその手をゆっくり解いて彼の唇にくちづけた。啄ばむだけの優しいキスを繰り返すと、やがて三崎はそれを追うように応えた。
「…なにひとつだって、誰にでもくれてやることなんかない」
キスの合間に三崎が言った。
「おまえじゃなきゃ、この部屋にだって」
唇に阻まれた言葉の続きは、言わずとも知れた。麻生はその腰を抱き、無言でベッドへと導いた。
胸の底から湧き出るような愛しさで彼に触れた。敬うような慎重さで彼に触れた。胸に脚に、その揺るぎない意志に。
初めて人を心の底から愛しいと思った。
初めて自ら肌を合わせたいと願った。
敬いたいと、傷付けまいなどと。保身でなく感じたことなどなかった。この湧き出る慈しみが愛情というものなのだろうか。暗い孤独が払拭される。彼を抱き寄せるごとに。彼の肌にくちづけるたびに。満たされる、光の温床へ導かれているようだ。
同じ想いを、彼は共有してくれるだろうか。
もしもこの世に至福なんてものがあるのなら。それはいま、この瞬間であるのかもしれなかった。
小一時間ほどで、ふと目が覚めた。ベッドの隣は半分空いたまま、冷たくなっていた。一緒に体温を分け合いながら眠りについたはずの彼の姿がないことに、妙に不安を感じた。これまで付き合った恋人たちには抱いたことのない感情ばかりだった。
薄暗い部屋の周囲を見回すと、ガラス扉の向こうからわずかな明かりが漏れていた。麻生は眠い目をこすりながらのそりと起き出して扉を開けた。簡易な備え付けの流しの前に、彼はいた。
「なに……? 眠れないのか?」
その、頼りない背中に問いかけると、三崎は驚いたように振り返り、それからふっと微笑んだ。
「…なんだ、せっかく寝付くまで待ってたのに。結局起こしちゃったな」
申し訳なさそうに眉を歪めながら、手にしたグラスの中の水を口に含んだ。もう片方の手に何かを握っているのに気付き、麻生は彼へと近付いた。
しかたないと諦めたのか、彼は麻生にかまわずその手に握っていたものを口に入れた。錠剤だった。麻生は眉をひそめた。
「薬? どこか悪いのか?」
「ただの眠剤、睡眠薬だよ」
また別の錠剤をパッケージの中から取り出して口に入れながら彼は答えた。一度に何錠かをまとめて飲んでいるようでもあった。見ている限りでも四錠、いや、五錠かもしれない。そんなにも飲むものだろうか、飲む人を知らないわけではなかったが。
「眠れないのか」
麻生は不審そうに尋ねた。あれだけ酒を飲んでおいてと、言外に付け足すように、意図せず口調はわずかに責める格好となった。
三崎は困ったように笑ってみせて、それから水の入ったグラスを片手に持ったまま、流しのそばによけられていた黒いスツールへ腰掛けた。
「軽い神経症……って言うのかな。よくわかんないけど。ほんと、おまえって何にも覚えてないのな。はは。他の同級生だってあれは覚えてるよ。おれに至っては重大事だったしね」
「なに…?」
三崎のそばへ寄り、シンクの縁へ軽く腰を預けて彼の顔を覗き込んだ。しかし彼は片手で両目を覆ってしまい、その表情はほとんど読めなかった。
「初めて出たのが十七のときだったんだよ。リーダーの授業中にさ、ミスしたな、と思った途端に視界が狭まって。……左頬が、化け物みたいに見る見る腫れ上がったんで、クラス中、大騒ぎになった。そのあとしばらく休んだけど」
聞かされたところで思い出せない。そんなことがあったろうか、そのとき自分はいたのだろうか。関心がなかったためか。まったく記憶に残ってはいなかった。
「まあ、すぐに腫れは引いたんだけどね。なんかミスすると出るんで、妙だなあと思ってたら、次は腰がおかしくなったり動悸が止まらなくなったり。ちょうど初めて付き合ってた子とうまくいかなかった頃から始まって、そのあとはことあるごとに。……何年もほっといたんだけど、眠れなくなったときにはさすがに医者行って、それからは薬で大分落ち着いてる」
淡々と、三崎はそれを語った。わずかにうっすらぼやけて見える、三崎の背後の窓辺からさす月明かりだけが青白く彼の頬を照らして、冷たく見える容貌に深みを増した。
麻生はゾッと鳥肌を立てた。
何も言葉にできなかった。相手の境遇に同情してのことではない。底知れぬ不安を感じたのだ。現実的な陰惨な泥沼に足をすくわれるかもしれない恐怖を感じたのだ。
以前、大学時代に付き合っていた女に狂言自殺を図られたことがあった。あんな面倒な思いは二度と御免だと咄嗟に思った。しかも相手は男で、先刻自分は彼に何を口走ったろう。
本当の恋人になろうだって?
それがどんな意味を帯びるのか、この身をもって幾度も体験したではないか。自分からはそのつもりがなくとも、恋人たちが泣いて縋って重い枷を嵌めようとしたではないか。軽い恋愛がしたいわけでも、何人かを天秤にかけるつもりもないが、貼りついたこの微笑でごまかしきれない恋など、面倒なだけだった。たとえこの先結婚しても、漠然と存在感の薄い、あたりまえの日常的な家庭を築くのだろうと思っていた。
ただ穏やかで。いてもいなくても変わり映えのしない。弱くも強くもない父親像を、自分のなかに描いていたのだ。
それをなぜ好き好んで、彼へよもや自分から、本音で向き合うような恋愛を約したりなどしたのだろう。あの時はただ孤独を彼が埋めてくれるように思え、さりげない居心地のいい優しさを与えてくれるように思えたのだ。
激しい激情に飲まれたくはない。鬱陶しい恋愛感情には巻き込まれたくない。
相手が誰であろうと同じだ。まして彼のことなど何も知らない。
「どうせ、薬が効いてくるまで眠れないんだ。先に寝ててくれないか」
麻生の思惑になど気付いてもいないのだろう彼の言葉に、運よく救われた気分で無言のまま寝室に戻った。扉を後ろ手でしっかりと閉めながら、血の気の引いた額へと手を当てた。冗談じゃない、付き合ってなどいられるものか。病院に運び込まれたあとの彼女はひとたび回復した途端、人目も憚らず泣き縋って興奮して、面倒を避けて別れないと告げた後も猜疑心の固まりとなり、ついにはノイローゼで通院する彼女に付き合わされ続けたのだ。彼女に次の男が見つかるまでの期間がどれほど長く感じられたことか。
何も求められたくない。どっぷりと漬かるような依存心も委ねられたくない。彼のあの強さはどこへ行ったのだろう。強い人間だって? どこが。神経症を起こして薬に頼る人間のどこが強いのだ。間違っていた。強い人間だと敬ったはずの彼はとても弱くて脆いのだ。弱い人間は嫌いだ。何をしでかすかわからない。その弱さに引き摺り込まれる。対等な恋愛などできるものか。
明日、夜が明けたらここを出よう。彼が眠っている隙に。まだたった一夜だ、一夜しか過ごしていない。まだ間に合う。深入りする前に逃げ出さなければ。
思いながら、ベッドの中に潜り込んだ。目の裏を、手首から血を流す女の、青白い顔が横切った。夢見は悪かった。
あの至福は一体どこへ消え去ったのか。
時折、悪夢から浮上してくる意識の中でぼんやりと、あの瞬間の想いが潰えたことを悼んだ。
目覚めたのは早朝だった。
右腕が重く、ふと目をやると、静かな寝息を立てる三崎の瞼に出くわした。腕の中で眠っている彼の頬が、カーテンの隙間から射す朝の光に白く染まっていた。
穏やかに眠る彼の姿は、昨夜感じた恐怖も不安もかき消して、やわらかい安堵と、無性な愛しさを感じさせた。彼を起こさぬよう、思わずそっとその瞼にくちづけた。あたたかい。触れ合う肌の一つ一つが歓喜するように幸福で離れがたい。
すぐに出て行こうと決めたはずだ、深い眠りに落ちている彼を置いて。今からそっと抜け出せば、気付かれずにまたいつもの生活に戻れるはずだ。連絡先など教えてもいない。この店に立ち寄らなければそれですべてが終るというのに。
泣き出したいような切なさが込み上げて、いま、この幸福な一瞬を誰にも壊されたくないと願う。愛情だろうか、これは。彼のそばにいたいと願い、この、光に透けて消えてしまいそうに儚くも見える存在を、支えてやりたいとさえ思うのだ。愚かなことだ、面倒だと思うその裏で、込み上げて止まらない想いが暴走して疼く。
麻生は左の腕で泣き出しそうな自分の両目を覆った。
恐かった。自分の想いに飲み込まれる、離れられない、逃げ出したい、もう関わり合いたくない……。しかしそれでも息づく激情がまだ残っている。いとしくて切なくて手放したくない。ずっとこのまま、この光に照らされていたい。彼の放つやわらかい光に。
好きだよ、と、思わずそっと囁いたのは、本当に自分の声だったのか。眠る彼に向けて放った直後に、その言葉が麻生の胸を苛んだ。
三崎が目を覚ましたのは昼近くなった頃だった。何度となく帰ろうと思いながらも目覚めるのを待ってしまったのは、もう一度、目覚めた三崎のあの強さを見たかったからかもしれない。
しかし三崎は、目覚めてからもしばらくはおぼつかない足取りで、はっきりとしない、薄い膜がかかったような虚ろな瞳を向けるばかりだった。会話は少なく、麻生が黙って帰らなかったことを後悔しはじめた頃、彼はようやく意識をはっきりと保ちはじめたようだった。
「悪い…。寝起きは薬が残ってて、頭が…はっきりしないんだ」
会話の糸口とともに、覚醒した三崎の意志力の強さをどことなく感じ取ると、麻生は内心胸を撫で下ろす思いで会話を繋いだ。
「いつもこうなのか」
尋ねた麻生に、三崎は微笑みとも苦笑ともつかない表情を垣間見せた。その穏やかでさりげないしぐさは深夜に起き出した時のあの脆さではなく、あたたかい包容力を思わせる、確かに麻生が惹かれた彼だった。
「いつもじゃないよ、夕べはけっこう飲んだしね。その割には普段より睡眠時間が足りないから、薬が抜けきらないんだ」
「そうか。……具合は?」
「慣れてるから、そう酷いもんじゃない。最近は落ち着いてたし」
この話の流れでは聞き方がまずかったと、麻生はバツ悪く顔をそらした。
「そうじゃなくて……」
言葉を濁した麻生の真意をようやく悟って、三崎はからからと軽快に笑った。
「ああ、そっちは慣れてなかったな。でも思いのほか」
視線を逸らしたままの麻生へ、膝でいざって近付いて、彼は笑いを噛み殺しつつ囁いた。
「……悦かったよ。優しすぎるくらい優しくて」
ありきたりの安っぽい情事の戯言も、彼が語るとなにか、えもいわれぬ衝動を誘う。同じ男でありながらもっと遠く神聖なものに触れる許可を得られたような心持ちで。
麻生は近付いていた唇にキスをした。
ひとたび触れてしまうと抑えることはままならず、やさしいくちづけはほどもなく深みを求め、いとしさに焦がれそうな体は熱をもって彼を組み敷いた。彼は笑いながらも嬉しそうにそれへ応じた。
これは間違いではなかろうか。こうして肌を重ね続けてかまわないのか。
躊躇う気持ちも、すぐに熱へと飲み込まれた。獣が神を飲み込もうとするかのような激しい熱に。
荒々しく身の内に潜むけだものの存在を、彼に出会って初めて知った。それは歯止めの効かない、強さと弱さの交じり合った人間くさい醜悪さでもあった。
麻生は静かに、そこから目をそらした。
会社帰りには、あの店へ足を運んだ。普段の三崎は包容力はもちろんのこと、理性的で知的で、彼がなぜバーテンなどをやっているのかと疑問を抱かずにはいられないほど完璧な存在だった。神のように神聖な存在にも見え、また、三十近くにもなる男性には見えないほどユニセックスな印象さえも与えた。
愛想よく客をあしらい、飲み屋に似つかわしい面倒が起ころうとも、冷静に難なくすり抜ける。そんな三崎を眺めることが誇らしく、幸福だった。三崎は世間の流れの中でも、はっきりとその頭角を現わしながらうまく流れへ身を任せることができるに違いなかった。その涼しい生きざまで。
「なんでバーテンなんかやってるのか不思議だよ」
店を閉め切ったあと、いつものごとく居残って二人の時間を持った折りに、麻生はついそんな言葉を口にした。それは常々考え続けてきた彼の才覚を惜しむ気持ちでもあったが、三崎は一瞬、わずかに顔色を変えた。
「高卒だって、言ってなかったか? まっとうな会社に入れるような人間じゃないよ」
すぐにいつもの微笑みに戻った三崎は、まるで軽口でも叩くようにそう言った。麻生にしてみればそれは初耳だったし、この店のバーテンに甘んじているのもただ叔父の手伝いをするためだけなのだと思っていた。
「なんで…。おまえ、頭いいだろう」
「麻生にしてみれば、大学行くのもあたりまえのことなんだろうけど? 残念ながらそういうわけにはいかなかったね。高校だってやっと卒業できたようなもんだし」
人込みの中にいると自由でいられなくなるんだよ、と三崎はこともなげに笑って付け足した。彼の完璧な肖像が崩されるように思えて、麻生はその言葉を疎んじた。無言で目をそらした麻生の気配で何もかも承知したかのように、三崎が微笑を自嘲に変えた。
「エリートのおまえには考えられないだろうけどね……」
寂しげに呟いた三崎の声を、麻生は苛立ちの中で聞いた。何も答える気にはならなかった。ただグラスに残っていたアルコールを飲み干した。
あれきり、三崎の弱さを目の当たりにすることはなかった。泊まった夜には薬を飲む姿を何度か見たが、翌朝に響くほどには飲んでいないようだった。最初の頃よりだんだんと薬の量を減らしている様子の恋人は、快方に向っているのかもしれなかった。麻生はそれを見ながら安堵した。そしてだから、三崎の強さは日に日に麻生の中で確固たるものになっていく。自分よりも完璧で自由で強い彼に、麻生は惹かれてやまないのだ。
それを押し崩そうとする三崎の自嘲的な言葉は、時折耳にしながらも意識の外へと追いやった。だからこそ続けていられた。三崎の弱さを目の当たりにすればこの想いは砕け、好意や羨望は嫌悪へと変わっていくのかもしれなかった。あの晩に感じた恐怖や不安が呼び覚まされるのかもしれなかった。
漠然とした不安はいつも付き纏いながら、オブラートに包んでしまえば万事はなにごともなく幸福で愛情深く日々をやり過ごせたのだ。
一瞬、視界の端で三崎が、誰にも気付かれないようそっと錠剤を口に含んだように見えた。
麻生は視線を外してグラスへ酒を注ぎ足した。気のせいに違いない、きっと。何も見ていない。
想いはかさむふりをしながら日を追うごとに痩せ衰えていく気がした。
「今日は上で休んでるよ。具合が悪いらしいから」
この店に週の半分も顔を出すようになったというのに、初めて見知る店長は、いつものことだと言わんばかりの口調で三崎の不在を告げた。麻生は彼の友人であると説明し、二階へ上がる許可を得た。
店の暗い階段を上がって三崎の部屋の扉の前に立つと、途端にためらい、戸を叩くべきかと迷った。はっきりとした正体のない、漠然とした不安に駆られた。見たくもないものを見ようとしているような不安だった。
しばし立ち止まって迷った挙げ句、麻生はその扉をほんのすこし、とても軽く叩いた。中から返事はなかった。聞こえないよう叩いたのだ、ただ恐ろしくて。
意を決してもう一度戸を叩いた。今度はしっかりと力強く叩いてみせたにもかかわらず、返事はなかった。麻生はもう一度激しく戸を叩いた。
「……だれ……?」
中からようやく響いた声は、低く、緩慢で、虚ろだった。麻生ははっきりと相手に聞こえるよう、声を上げた。
「おれだよ、開けてくれ」
「……麻生?」
ゆっくりと、聞き取りづらいろれつで中の声は呟き、それからすこしのあいだ沈黙した。固唾を飲んで中を伺いたい気が焦り、扉へ拳と額を預けたまま返事を待っていたが、ついに業を煮やして、もう一度麻生は呟いた。
「開けてくれ……三崎」
気弱な声が出た。それを麻生は恥じた。しかしその羞恥の代償のように、声は返ってきた。
「今日は、駄目だ……帰ってくれ」
扉の近くに寄り添ってきたのか、声はさっきよりも間近で聞こえた。麻生は引き下がれなかった。三崎の声は明らかに様子がおかしく、それを耳にして一層恐怖がぶり返したものの、ここで帰るわけには行かなかった。
「頼むよ」
そんな言葉に三崎は笑った。自嘲するような笑い声が扉の下方で響くのは、彼がしゃがんでいるということだろうか。
「……なんで、こんなに見栄っ張りのおれが」
自嘲的な笑いを続けながらも言葉を繋いで、ゆっくりと、眼前の扉が開かれた。
「おまえには、弱いんだろう……」
扉をすべて開けきる力が抜けたように、鍵とチェーンの外されたドアは半ばで止まった。麻生はドアノブを引いて中へと足を踏み入れた。
三崎は半分伏せた両目で麻生をぼんやり見上げていた。玄関先に寝間着のままぺたんと座り込んでいる三崎を抱き起こしながら、麻生は先ほど扉を叩く前に感じた漠然とした恐怖の正体を見た気がした。こんな彼の姿を見たくはなかったのだ。完璧ではない彼の姿を。抱き起こしても崩れ落ちる、すっかり力の抜けたような三崎の体は重く、口もとはだらしなく歪められていた。両目はともすると閉じてしまうのか、何度か閉じかけた目を意識的に必死で開けようとしながらも、弛緩した筋肉に阻まれて、半分開けばいいほうだった。
そこに神の姿など見えるはずもなく、彼は薄汚れたぼろ雑巾のようだった。人間としての尊厳すらなくしたただの生き物として蠢いていた。あの整った顔の造作すらも醜く見え、姿勢のぴんと張ったしなやかな肢体は緩んでおぼつかない体中の筋肉で肉の塊のようにだらしなかった。
重い体をベッドへと運び上げ、虚ろな瞳を閉じようとする彼を、麻生は咎めた。
「……どういうことなんだ」
らしくもない詰問調に、三崎は再びぼんやり目を開けた。
「くすり……飲み過ぎた、だけ…だ」
思考力も弱っているのだろうか。答えるまでにいちいち随分と時間がいった。麻生は苛立った。
「おまえらしくない、こんな。…自分でセーブできるんじゃなかったのか」
「そー…言うと、思った……」
三崎はへらへらと笑ってみせたが、それはいつもの微笑みなんかとはまったく違う、卑しい、だらしない笑い方だった。麻生は思わず眉をひそめて目をそらした。
「話にならないだろう、こんな状態で」
「だから、帰れって……」
言ったんだ、と続けようとしたまま、三崎は結局、目を閉じてしまった。そのまま眠り続けるしかないだろう三崎が、もし起きたとしてもこれだけの状態ならば会話が成り立つようになるまで何時間かかるのか。しかたなく、麻生は出直すことにした。立ち上がって寝室を出ようとしたとき、寝言にも聞こえるようなおぼろげな声が彼の背中を追った。
「おまえに……話す気があったなんて、知らなかったよ……」
麻生は一瞬立ち止まり、しかし後ろを振り返らずに部屋を後にした。
話し合う。いったい何を、話し合おうというのだろう。
あの日のことは触れたくなかった。
二週間、店には顔を出さなかった。仕事が忙しく、夜も深酒するほどの余裕などなく、休日には疲れきって家で寝た。恋人に会う暇など、ほんとうに、ほんとうにただの数分もなかったのだ。店の電話番号は知っていたが、客商売のさなかにかけるほどの用事もなく、三崎の部屋には電話がなかった。麻生の住所も電話番号さえも、聞かれなかったから教えなかった。
あの日の三崎の姿が自分の部屋を徘徊する夢を見た。それを薄気味悪いと思い、声をかけようともせず、ただ目をそらしてじっと息を殺し続ける夢を見た。
あれは自分の恋人ではない。
恋人は美しく聡明で、なによりもしっかりとした意志力を維持し続ける完璧な人間だ。だからあれは自分の恋人ではない……。
会いたいと思い、会いたくはないと思った。それは恐怖に似ていた。想いは枯渇してゆくものなのだろうか。彼に恋をした自分の想いは、恐怖に負けるのだろうか。
仕事が一段落したその夜に、あの店へと重い足を運んだ。
店の中に入った途端、麻生は懸念を完全に拭い去った。あの日のことが幻でもあったかのように、店主の代わりに立ち働く三崎の姿はいままで以上の優雅さで、涼しい笑顔は数少ない客のすべてに注がれていた。完璧な恋人はその姿を維持したまま、店の扉を開いた麻生にも同じ笑顔を向けた。
「いらっしゃいませ」
礼節正しく迎え入れられ、麻生はどこか奇妙な印象を抱いた。三崎はいつも、よお、と親しげに声をかけたのだ。他の客がいようがいまいが関係なく。友人か、あるいはあからさまに恋人だとでも言いたげに、嬉しそうな顔で声をかけたのだ。
こうしてみると、まるで一流ホテルのバーにでも迷い込んだ気にさせる。気さくに感じた彼の笑顔は、もっと硬質で近寄りがたい、完璧といえばまったく今まで以上に完璧な、冷たいほどの美しさへと変化していた。
恋人の変貌ぶりに戸惑いながらも、麻生はカウンターのいつもの席へ腰を落ち着けた。灰皿を差し出す指先にまで流麗さを感じさせられる。キープしていたボトルを頼むと、それを用意する姿のひとつひとつに目を奪われる。
しかし彼は、自分の恋した人間ではなかった。同じ人物を眺めながら、どこか遠い見知らぬ人間を見ているような気がした。
明日は代休を取ってあるから、今夜泊まらせてくれと囁いたときも、彼は不遜なほど悠然と微笑んだだけだった。それは肯定と取ってかまわないのだろうが、ただ、あまりにも静かに壊れそうな表情だったために、麻生は不安になった。
客が引けるのを待ちながら、自分の恋人はどこに行ったのだろうかと考えた。
二人きりになった後も、その晩、抱き合おうとしているさなかにも、麻生は自分の恋人の姿を見出せなかった。二人きりになれば多少はくだけた物言いになりはしたが、その口調は三崎ではなかった。どこかが明らかに違うのだ。
見せかけの余裕は感じられるものの、あの暖かみが微塵もなかった。あの包容力、やさしさが。やわらかさが。確実に損なわれていた。
まるで鏡を見るように、その逼迫した空気は自分が普段醸し出しているものととてもよく似ている気がした。偽りの余裕でしかなく、まんべんなく注がれる微笑は冷たくも見え、完璧であり続けるために今にも砕けそうな危うささえ感じられる。
「どう、したんだよ、三崎……」
ついに耐え切れず、彼のシャツをめくりあげていた腕を止め、麻生は頭を抱えた。三崎は彼を見上げたが、その瞳にも感情が見えなかった。渇いたような双眸は、静かに麻生を見上げるだけだった。
「な…にが……?」
尋ねた声は震えていた。その声だけ、壊れそうな感情を伴っていた。麻生は彼を見返した。その中からほんのすこしでも以前の三崎が見えるかもしれないと、必死でその表情を読み取ろうとした。
「おれはおまえの強さに惹かれたのに。なのにどうしたんだ、今日のおまえは。いまにも壊れそうで。……おまえは、おれの好きだった三崎じゃないよ?」
三崎は目を伏せた。うすい瞼がかすかに震えていた。その震えを麻生が認めたと同時に、三崎は起き上がって無言で、寝室を出て行った。
脱ぎかけだった上着を手にして、そのあとを追った麻生は、シンクの前で薬を飲む三崎の背を見た。三崎の両の肩は頼りなく下がって、小刻みに震えていた。
「……ほんとはもう、一錠ぐらいじゃ効かないんだよ」
ぼそりと呟きながらもそれ以上は飲もうとしない三崎の肩を、麻生は後ろから抱き寄せた。しかし三崎の震えはやまなかった。三崎は震えた声で、自嘲気味に笑って言った。
「どうしたって? おれはおまえの好きだったおれじゃないって? ……勝手なことばかり言う」
初めて責めるような言葉を口にした三崎は、唇の端を歪めたまま、麻生の腕を振り払った。
「おまえはおれの弱さが、醜さが、汚さが……! 耐えられないくせに……! 見たくもないくせになにひとつ文句も言わずに黙って無言でただ汚いものを見る顔で目をそらすんだ……! そうやって離れておいていまさら」
麻生はその言葉にドキリとした。見抜かれていた。弱い三崎を見ようとしていない自分の行動を。あたりまえだ。感じ入りやすい三崎が今のいままで無頓着でいるなんて、どうしてそう思えたろう。どうして気付かずにいたのだろう。
「おれは弱いんだよ……。あたりまえじゃないか、誰だって、おまえだって弱いのに。どうしておれだけ強いと思うんだ。おれだけが完璧なわけないじゃないか、醜くないわけないだろう……。もしも醜い弱いこの身が強く見えたって言うんなら、それはおれが自分の弱さを知ってたからだ……自分の中身を、知ろうとしてたからだ……それだって発展途上で、自分でも嫌になるぐらいこの脆弱さを知ってるのに」
振り払われた麻生の両腕は、力なくだらんと下がって動かなかった。動悸ばかりが速くなり、冷や汗が額に滲んだ。恐いと思った。耳を塞ぎたいと、ぼんやり思った。
もうこれ以上聞きたくはなかった。知りたくなかった。本当の三崎を知ることで、自分の正体まで暴かれてしまいそうで。
ただ漠然とした恐怖や不安に煽られた。
それでも三崎は追い討ちをかけるように、麻生の胸には刺のように突き刺さることさえ承知しているかのような面持ちで言葉を継いだ。たださっきみせた荒々しさとは裏腹に、静かな、淡々と落ち着いた声色で。
「だけどそれじゃ足りないんだろう、ほんのすこしも見せないで生きなきゃ、おまえは満足しないんだろう。……冗談じゃない。おれは人形じゃないんだ。みっともなく足掻いてる、やなこと溜めてりゃ過呼吸起こすし、不眠症にだってなる、弱ったらしい人間なんだよ。普通に生活していくためになら薬にだって頼りもするし、寂しい夜にはヌイグルミ抱いて眠る、ばかばかしいほど弱くてちっぽけな人間なのに」
何かが壊れていく気がした。三崎の言葉で多くの、手に入れたばかりの優しい何かが失われてゆく。それを惜しみ、悼むように麻生は力の抜けた手で額を押えた。まだ取り返しがつくかもしれないと、未練がましく縋るような心境だった。
「……人形だなんて思ってたんじゃない。おれにはおまえが」
言いながら、切なさに耐え切れず、言葉を切った。喉の奥に鉛のように息が詰まった。それでも必死で、麻生は掠れた声を絞り出した。
「おまえが、神のように思えたんだ……」
何かに耐えるような顔をして、ぎゅっと震える拳を握り締める麻生の姿を見つめながら、三崎は小さく吐息をついた。
「……おれにとっては同じことだよ。人間として愛されてたわけじゃないんなら」
そうは言ってみたものの、三崎はまるで何かを諦めたように、ふっきるように、麻生を見上げてふと微笑んだ。
「おまえばかりが悪いんでもないな。おれも相当見栄っぱりだからさ。これでもおまえの理想に近付こうともしてみたけど」
初めて会ったときと同じ微笑を浮かべていながら、ただすこし疲れたように、それはゆっくり苦笑に変わった。
「……やっぱりだめだな、悪化するばっかりで」
何もかもが終っていくようだった。
信じられなかった。取り戻したかった。
だが、どうすれば取り戻せるのか。離れていく心を引きとめる言葉すら思いつかずに、麻生は焦りとともに混乱し、糸口を見出そうとしながらも思考は働かず、ただ落胆するように三崎の声を聞くばかりだった。
「目なんか逸らさず別れたいってひとこと言えば良かったんだ。こんな生殺しの状態で放っておくより」
寂しそうにそんな言葉を語ってみせる三崎は、麻生が無言ですべてをやり過ごそうとしているさなか、いったいどんな思いでいたのだろう。核心には触れずに曖昧に見て見ぬふりで、優しいと言えば聞こえのいい臆病さで、都合のいい恋人の姿だけを目で追っていたそのさなか。醜い部分からは目を背け、愛していると囁きながらも羨望は彼の一部にだけ向けられていた。
かつての恋人たちが、なんとか言ってよ、と自分を責めたことを思い出した。彼女たちもまた、無言の圧迫に耐えられずに逃げていったのだろうか。
どんな言葉も思い浮かばなかった。これは終わりだ、逃げていた報いの。彼の弱さが自分の姿と重ならないよう、自分の中身に触れまいとしてきたその報いに。
この恋は、こうしてここで終るのだ。
しばしの沈黙のあと、三崎が、まるで泣き出しそうな奇妙な笑顔を浮かべた。
「おまえといると不安になったよ。おれは自分を隠してたから。汚いおれを見せたらきっと、離れていかれる。おれが薬を飲むのをおまえは内心嫌がってる。嫌われるのが恐くて薬を抑えてみたけど、耐え切れなくて飲み過ぎて、結局あの日、醜態を晒したね。……あのときに、もう終ったと確信してたよ」
だからもう気にするな、と付け足しでもするみたいに、三崎は微笑んだまま、とん、と一回、麻生の肩を指先で軽く叩いた。終止符でも打つようなそのしぐさは哀しくて、なのに三崎は笑ってみせる。
もやもやと、燻る想いのなかを意識が錯綜する。だが、言葉が見つからない以上はもう、彼の幕下ろしに従うほかはないのだろうか。
思いながら、名残惜しく躊躇いつつ、ゆっくりと玄関の扉へと体を向けた。何か、何か言うことはないのだろうか。もしこれですべてが終るとしても。もうとうに愛想を尽かされているとしても。
だが、言葉は見つからないまま、玄関のドアノブへ手をかけた。
「麻生、鞄」
笑っている声が背後にかかって、振り返ると、三崎が寝室に置き忘れていた鞄を差し出した。それを黙って受け取りながら、麻生は彼の笑顔を見ていた。
なぜ笑うのだろう、こんなにも崩れそうなその体で。鞄を差し出す指さえ震えているというのに、まるで感情などないかのように笑っている。
無情といえば無情な笑顔で、三崎はふふと声を立てて笑った。
「昔はね。おまえの完璧な外面に憧れたものだけど」
思い出し笑いのようなその顔を、わずかに崩したかと思うと、麻生の眼前でそれははっきりと、切ない、哀しい、いとおしいと語るような、雄弁な瞳に変わった。
「いまは……裏表のある自分自身にね、マイナス思考になるぐらい懐疑的になってる、真摯なおまえが好きだよ」
それだけ告げてバイバイと、送り出そうとする三崎の腕を、強引に掴み寄せた。腹が立った。この激情をどこへやったらいいのかもわからないほど立腹し、驚く三崎にかまわずきつく、その身体を抱きしめた。その髪に頬に、自分の唇を押し当てたまま、押し殺すような低い声を絞り出した。
「何が……、何が……無言でだ……!」
「麻生……?」
戸惑う三崎にかまう気はなかった。口で声でなんと言おうと、この腕を恋しがる三崎の鼓動が聞こえるのだ。
「ほんとに大した見栄っぱりだよ、おまえは……! こんな想いでそれでもおれを手放すって言うのか……!」
「麻生……? 泣いてるのか……?」
三崎の髪に埋めた頬は、確かに濡れているのかもしれなかった。そんな醜態をかつて晒したことがあったろうか、人前で。弱いくせに完璧主義なこの自分が。
だが、そんなことはどうでもいいことだった。みっともなく泣いていようが、取り縋るように声を荒げていようが、羞恥など、どうでもいいことだ。
笑われることなんて少なくないだろ、と笑って言った三崎の言葉が思い返された。
「黙ってたのはおれだけじゃない、おまえだって言えば良かったんだ……! 我慢して薬を飲まずにいただって? 誰が頼んだんだよ、そんなこと……ッ」
らしくもない麻生の激情に、三崎は戸惑い、身じろいだ。しかししっかりと抱きすくめたその腕をゆるめる気はなかった。
出会ってからのたくさんの表情を言葉を、そしてそれに促されるように芽生えた数々の感情を思った。幾度も離れたいと願いながらも離れられずにいた自分の想いを、はっきりと確信するように思い返した。
いま、こうして止まらない愛しさと同じものが、いつも彼へと向けられていたのだ。
「おまえが神経症だって言ったあの晩、ほんとはすぐにでも逃げ出したいと思ったんだ、面倒は御免だ、本音でなんか付き合えっこないって。……何度も逃げ出そうとしたけど、おまえがいくらその機会をわざわざ用意してみせたって」
掠れた声は涙に震えていた。腕の中の恋人はもう動こうともしなかった。腕をゆるめたその途端に突き放されるかもしれないが、それでもいまは、彼の体温を痛いほど感じていたいのだ。
「……離れられるわけないだろう。おまえがどんな人間だろうと。……おれの知らないおまえがまだ他にもいるんなら、教えてくれればいいんだ、等身大のおまえを」
「……麻生、麻生、泣くなよ、おまえらしくもない」
「かまうもんか」
しゃくりあげはしないまでも、子供のように強がる麻生の言葉に思わず笑ってから、三崎はそっと、強張っていたその体をずらした。俯いて静かに、重なっていた胸に若干の距離を作って呟いた。
「厄介だろう……? おれは」
麻生はその髪にくちづけた。
「厄介だよ、好きだから」
軽く答えながら、躊躇う細腰をふたたび引き寄せ、麻生は笑った。
「こんな年まで生きてきて、知らなかったんだよ、おれ。本気だと、厄介なもんなんだな」
「…本気だから厄介なのか?」
「離れられない分、どんな面倒な相手よりも厄介だよ」
それには小さく笑い出し、三崎はその胸に顔を埋めた。
「そうかもな。おれも毎日考えてた。こんな優柔不断なやつのどこがいいのかって。どんなに思い切ろうとしてもできなくて」
三崎の穏やかな、嬉しそうな声は、あたたかく幸福だった。麻生はもっと彼を知りたいと願った。目に見える部分もそうでない部分も。優しさも強さも、醜さも弱さも。
醜い中身を認めようとする、こんなにも強くて、逆にとてつもなく頼りなくも見えるこの人を。そのすべてが愛しく思える。
だからいまよりもより多くのことを。知りたいと願った。
「でも、麻生のそういうとこもぜんぶ、愛しく思えるんだって気付いてたよ」
ちょうど三崎の口からそんな言葉が漏れたので、麻生は思わず笑って彼にキスをした。驚きながらもそれを受け、なぜだか一緒に笑う三崎は、本当に幸福そうに見えた。それはいままで麻生が見出すことのなかった表情だった。身も心も委ねるような、すこし頼りなく安心しきったその顔を、大切にしたいと思った。
きっといままでいつも彼に守られてばかりいたから。こんな表情すら知ることができずにいたんだろう。
「……嘘も見栄もない恋人になろう」
そっと抱きしめ、麻生はそう呟いた。いつも傍らに寄り添っていた孤独、恐怖、不安の影が、なぜだか今は感じられなかった。いつかまた襲うかもしれない孤独と不安を思いもしたが、いまはまだ発展途上のこの恋が、自分を助け、あるいは幾度も壊しながら再生し、ただ正直に進められればいいと思った。
きっとこの孤独を埋めるのは、神ではなく、強くて脆い、ちっぽけで大きな、腕の中のこの人間なのだ。
そして彼の孤独を埋めようとするのもまた。
いつも自分でありたいと、ひそかに願った。
了




