表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

下品だと言われて追い出された田舎のパティシエですが、冷徹オーナーに拾われて世界一のケーキを焼きます

作者: 世紀末覇者
掲載日:2026/02/17




 クビになった。




 三年間、朝の四時から生地をこねて、クリームを泡立てて、焼き上がりの温度を指先で覚えて。

 町でいちばん古いケーキ屋「フルール」の厨房に立ち続けた日々が、今日、唐突に終わった。


「有村日和さん。あなたのお菓子は……下品なの」


 新しいオーナーが、つけまつげをバチバチさせながら言った。

 先代の息子の奥さんで、自分では生クリームを泡立てたことすらない人だ。半年前にこの店に嫁いできて、先代が引退したとたんに「オーナーパティシエ」を名乗りだした。

 爪にはラインストーンがびっしりと張り付いている。あれじゃあ、生地に触った瞬間に雑菌がコンニチハだ。


「だいたいね、結婚式のケーキに唐辛子を入れるなんて正気?」


 入れた。スイートチリのジュレをホワイトチョコの層に忍ばせたのだ。

 甘さの輪郭がきゅっと引き締まって、舌の上でピリッとした熱が踊る。常識はずれだと厨房のみんなは止めたけれど、わたしは強行した。

 結果、花嫁さんは「今まで食べたケーキで一番おいしい、燃えるような愛を感じた」って泣いてくれた。おいしいって言われて、泣いて喜ばれて、何が悪い。


「バースデーケーキに花火を刺して消防車呼ばれたのも忘れてないから」


 あれは線香花火で、火なんか出てない。煙感知器が敏感すぎただけだ。

 でも誕生日の男の子は「人生で最高の日! ドラゴンみたい!」って叫んでくれた。最高って言われて何が悪い。


「あとローズケーキの件。お客様は上品なバラをお願いしたの。なぜ庭が爆発したみたいなケーキになるの」


 バラだけじゃさみしいから、野花を足しただけだ。

 お客さんは最初びっくりして目が点になっていたけど、写真を撮って「野獣派ケーキ」ってSNSに載せてくれた。三万いいねがついた。三万だぞ。この町の人口より多い。


 でも、そんな言い訳は聞いてもらえなかった。


「明日から来なくていいわ。あ、レシピノートは置いていってね。あれはお店の財産だから」


 ――ああ。


 やっとわかった。


 わたしの腕がいらないんじゃない。わたしのレシピが欲しいんだ。


 お父さんが教えてくれたショートケーキのレシピから始まって、三年間の試行錯誤で書き溜めた二百ページのノート。

 お父さんの「いちごには黒胡椒をほんのすこし」――あのたった一行が、この人には金を生む宝の山に見えるんだろう。


 悔しかった。

 喉の奥が、焼けつくように熱くなった。

 怒鳴りつけてやりたかった。そのつけまつげをもぎ取ってやりたかった。


 でも、わたしはパティシエだ。

 パティシエの手は、人を殴るためにあるんじゃない。甘い魔法をかけるためにあるんだ。


 だから、ノートをカウンターに置いた。

 叩きつけるように、でも、表紙は汚れないように。


 お父さんのレシピは頭の中にぜんぶある。

 ノートなんてただの紙だ。わたしの指が覚えてる。舌が覚えてる。お父さんの手が、わたしの手の中に残ってる。それだけあれば、どこだって――



 行くあてなんか、なかったけど。



 *



 東京。

 夜明けの風が、かすかに甘かった。排気ガスと、コーヒーと、アスファルトの匂い。


 夜行バスで着いて、あてもなく歩いて、裏路地で一軒の店を見つけた。

 南青山の、高級ブランド店が並ぶ通りの一本裏。真っ白い壁に小さなガラス扉。控えめな金文字で「Pâtisserie Glace」。


 きれいだった。

 でも、お客がいない。ランチの時間帯なのに、誰も。ガラスの向こうは、深海みたいに静まり返っている。


 ドアを開けた。カウベルが鳴る音さえ、どこか冷ややかだ。


 ショーケースを覗いた。並んでいるケーキは完璧だった。


 フォルムもグラサージュの艶も、教科書に載せていいレベル。ムースの断面は数学みたいに均一で、飾りのチョコ細工は一ミリの狂いもない。いちごのショートケーキなんて、定規で測ったみたいに直角だ。



 すごい。


 すごい、けど――



「なんか、さみしいな」


 つい声に出た。


 ぜんぶ同じ温度なのだ。

 正確で、きれいで――でも、誰のために焼いたのかが見えない。

 ガラスの向こうで、ケーキたちが「触らないで」と言っている気がした。こんなにきれいなのに、もったいない。



「……何か用ですか」



 振り向くと、長身の男が立っていた。

 黒い目。端正な顔。白いコック服に染みひとつない。腕を組んで、こちらを見下ろしている。体温を感じさせない立ち姿は、まるで精巧なアンドロイドみたいだ。それも、絶対に絶対に笑顔なんて見せないタイプ。



「あ、えっと――」


「さみしい、と言いましたか。うちのケーキが」


 冷たい声。まずい。客でもないのに店先で悪口を言ってしまった。

 でも、嘘はつけない。お父さんは言っていた。「ケーキに嘘をつくな。心に嘘をついたら、味に出るぞ」って。


「いや! おいしそうですよ! ていうかめちゃくちゃきれいです! でも、なんかこう――もうちょっと――ばーんって――」


 両手を広げて「ばーん」を表現しようとした。


 男の眉がピクリと動く。ただの不審者だと思われている。田舎から出てきたばかりの、ボストンバッグを下げた小娘が、青山の一等地の店にケチをつけているのだから。


 男はしばらくわたしを見つめた。

 視線が、わたしの顔ではなく、手に落ちる。


「パティシエですね」


「え? なんで――」


「右手の親指にタコ。絞り袋の癖です。人差し指の火傷痕は飴細工。爪の中のバニラは三日以内に仕込みをした証拠ですね」


 全部見られてた。

 わたしは反射的に手を後ろに隠した。


「パティシエはパティシエですが、クビになりたてのパティシエです。わたしの作るケーキは下品だ、って」


 男は氷室蓮と名乗った。

 この店のオーナーシェフ。名門の出で、フランスの製菓学校を首席で卒業して、三年前にこの店を開いた。


 ――客が来ないまま、三年。


 なぜ客が来ないか、わたしにはわかる。さっきショーケースを見た瞬間にわかった。

 技術の展覧会なのだ。食べる人の顔が見えない。


「ひとつ、作ってみますか。うちの厨房で」



 え。


 なんでそんなことを言うんだろう、この人は。

 試すような、でも、どこか縋るような目だった。完璧すぎる城の中で、ひとりぼっちで立ち尽くしている王様の目。


 でも、断る理由なんか、ない。

 だって――ケーキが作れるんだから。



 *




 厨房に入って、手を洗った。


 なにを見ても、一流品ばかりだ。ヴァローナのチョコレート。北海道の発酵バター。マダガスカルのバニラビーンズ。田舎の店じゃ触ったこともない、宝石みたいな素材たち。

 ステンレスの作業台は、鏡みたいに磨き上げられている。わたしが映っている。ちょっと疲れた顔をして、でも目はぎらぎらしているわたしが。


 何を作るかは、考えなかった。

 手が勝手に動いた。お父さんが教えてくれた、たった一つのショートケーキ。


 スポンジを焼く。オーブンの癖はわからないけど、匂いでわかる。生地が「今だ!」って叫ぶ瞬間がある。

 生クリームを泡立てる。ボウルに当たるホイッパーの音が、カシャカシャからボフボフに変わる瞬間。

 いちごを切る。果汁がまな板に散る。


 仕上げに、はちみつと粗挽き黒胡椒をほんの少し。

 お父さんの魔法。「これだけでいちごが目を覚ますんだ」って、小さいころに教わった。


 ふたりで並んでいちごを切った台所が、世界でいちばん楽しい場所だった。粉だらけになって、クリームを舐めて、笑い転げた記憶。



 できた。



 見た目は不格好だ。氷室さんのケーキみたいな端正さはない。クリームの塗り方も荒い。

 でも、匂いが立つ。甘くて、スパイシーで、生きている匂い。



 氷室さんがフォークを入れて、一口食べた。


 沈黙。

 換気扇の音だけが響く。


「……なんですか、これは」


「ショートケーキです」


「なぜ胡椒が入っているんですか」


「いちごの甘さが三倍になるからです」


「……めちゃくちゃだ」


 氷室さんが、もう一口食べた。

 眉間に皺を寄せたまま、困惑したように。理解できない数式を解くみたいに。

 もう一口。

 もう一口。


 一切れぜんぶ、なくなった。



「明日から来てください」


「え?」


「……下品でいい。僕はそう判断します」


 下品でいい。


 その一言のなかには、とてつもなく大きなものが入っている気がした。

 でも同時に、否定され続けたわたしの三年間が、間違いじゃなかったと言われた気もした。


 うれしかった。

 うれしくてたまらなかった。


 わたしは、顔を上げて、力いっぱい宣言した。


「世界一おいしいの、作ります!」


 ……もっとも、氷室さんの返事は「書類は後ほど。契約書の確認に弁護士を同席させるなら、その費用は僕が持ちます」みたいな感じだったけど。



 *



 パティスリー・グラースで働き始めて一ヶ月。



 わたしは、とんでもない思い違いをしていた。

 わたしは、自分の才能を信じていた。なんなら、心の中では自分のことを天才だと思っていた。田舎の店では、わたしの作るケーキはいつだって絶賛されたから。


 でも、ここでは違った。



「廃棄です」



 氷室さんの冷たい声が、厨房に響く。

 目の前には、わたしが焼いた十個のスポンジケーキが並んでいる。



「なんでですか! これ、めちゃくちゃよく焼けてますよ! ふわふわだし!」


「こっちは焼き色が濃すぎる。こっちは膨らみが足りない。こっちは気泡が粗い」



 氷室さんは、ひとつひとつ指さして断罪していく。

 そして、十個のうちのひとつだけを指さして言った。



「商品になるのは、これだけだ」



 たった一個。

 残りの九個は、ゴミ箱行きだと言う。



「うちはギャンブル場じゃない」


 氷室さんは、わたしの目を真っ直ぐに見て言った。


「お客様は、奇跡を買いに来るんじゃない。約束された品質を買いに来るんです。十回作って一回しか成功しないものを、プロの仕事とは呼ばない」



 反論できなかった。

 悔しくて、唇を噛んだ。


 田舎のお客さんは優しかった。

 「今日の日和(ひー)ちゃんのケーキは、ちょっと形が違うね」って笑って許してくれた。


 わたしはそれに甘えていたのだ。


 わたしのケーキは「ばーん」と爆発するような輝きがあるけれど、それは一瞬の花火みたいなもので、再現性がない。

 氷室さんのケーキはさみしいけれど、いつ食べても、何度食べても、絶対的に正しい。



 わたしのケーキをプロの仕事とは認めない氷室さんだったけど、彼はわたしをクビにはしなかった。

 ため息をつきながらも、わたしの「十個に一個の奇跡」をショーケースに並べ続けた。



 そして……客が増えた。



 「なにこれ!」と写真がSNSに上がるようになった。


 わたしの「爆発ショートケーキ」――いちごとベリーとエディブルフラワーが、ケーキの上で花火みたいに咲いてるやつだ。

 フルールでは怒られた飾りつけ。ここでは、氷室さんの完璧なケーキたちの真ん中で、異様な存在感を放っている。



「ばーん、ですね」


 ある雨上がりの夕方。


 店の外に出ると、春の匂いがした。アスファルトの湿った匂いと、店から漏れる焦がしバターの香りが混ざり合っている。

 氷室さんが、並んで空を見上げながら、ぽつりと言った。


「え?」


「最初に会ったとき、あなたが言っていた。もうちょっと、ばーんって」


 ――覚えてたんだ。


 氷室さんは、わたしのケーキを一度も「下品だ」とは言わなかった。

 ただ、「再現性がない」と文句を言うだけだ。それはつまり、味そのものは認めているということだ。


 わたしも、見ていた。


 氷室さんの仕事を。


 美しいのだ。

 悔しいけれど、美しい。


 計量スプーンですくう粉の山。温度計を見る鋭い目。オーブンに入れるタイミングの、あの一瞬の呼吸。


 そこには「迷い」がない。


 わたしのケーキは、その日の気分で味が変わる。元気なときは弾む味。落ち込んでいるときは萎んだ味。十個作れば九個は失敗作と言われても、反論できない。


 氷室さんのケーキは揺るがない。いつだって、その素材の最高到達点を叩き出す。



 氷室さんには、下品でいい、と言われた。

 わたしが作ったケーキで、お客も増えた。


 でも、わたしは思った。


 フルールでは、半分親戚みたいな優しいお客さんたちに甘えていたように。


 いまのわたしは、「ばーん」に甘えてるんじゃないだろうか。



 *



 それから、また一月たった。


 SNSで、見覚えのあるケーキを見つけた。


 黒胡椒のショートケーキ。はちみつと粗挽き黒胡椒を使った、いちごの甘さを引き立てる一品。

 出していたのは「フルール」。あの新オーナーの名前で。「天才オーナーパティシエが生み出した革命的ショートケーキ」という見出しつき。


 お父さんのレシピだ。

 わたしがお父さんから受け継いで、三年間かけて磨いたレシピだ。

 あの人は、一度もケーキを焼いたことがないのに。ノートの通りに作らせただけのくせに。


 スマホを持つ手が震えた。

 悔しかった。

 わたしの記憶が、思い出が、土足で踏み荒らされた気がした。


「日和さん」

 いつの間にか、氷室さんが横に立っていた。

 わたしのスマホの画面を一瞥して、表情を変えずに言った。


「来月のパティシエ・コンクール東京に、その『フルール』も出場するそうです」


 慰めの言葉なんてない。

 その代わり、一枚の紙を差し出された。エントリーシート。


「……出ます。ありがとうございます」


 考えるより先に口が動いた。

 逃げない。ここで逃げたら、お父さんのレシピがあの人のものになってしまう。


「何を作るかは」


「まだ決めてません。でも、すごいのを作ります」


 氷室さんは「そうですか」とだけ言って、厨房に戻っていった。



 わたしも厨房に入った。

 いつものように粉を掴もうとして、手が止まった。


 氷室さんの背中が見えた。

 0.1グラムを削り出す背中。


 わたしは深呼吸すると、計量スプーンを手に取った。


 重い。


 小さなスプーンが、こんなに重いなんて知らなかった。




 盗んでやる。

 あなたのその、冷徹なまでの正確さ。

 リスペクトをこめて、全部盗んで、わたしの武器にしてやる。



 それからの日々は、地獄だった。


 わたしは自分の「感覚」を殺した。

 指先の感覚だけでやっていたことを、すべて数字に置き換える作業。

 何度やっても、氷室さんのような完璧なスポンジには届かない。


「温度が二度低い」


「混ぜる回数が三回多い」


「メレンゲのキメが揃っていない」


 氷室さんは容赦なかった。

 わたしの隣に立ち、ストップウォッチ片手に監視する。その目は、出来の悪い生徒を見る教師の目じゃない。もっと切実な、戦友を見る目だった。


 わたしも必死だった。

 くたくたになって、小麦粉まみれになって、それでも焼いて、焼いて、焼いた。


 十個のうち一個しか成功しなかったスポンジが、三個になり、五個になり、八個になった。


 そしてコンクール前日。


 十個目のスポンジが焼き上がったとき、氷室さんが言った。



「……合格です」



 その言葉を聞いた瞬間、わたしはその場にへたり込んだ。

 でも、心臓は早鐘を打っていた。


 手に入れた。

 最強の土台。


 この上に、わたしの「ばーん」を乗せるんだ。



 *



 コンクール当日。

 会場は熱気と甘い匂いで満ちていた。


 テーマは「幸福(しあわせ)」。制限時間は三時間。


 隣のブースに、あの人がいた。

 わたしのレシピノートを台の上に広げて、優雅に紅茶を飲んでいる。作るのは雇われのスタッフだろう。

 こちらを見て、にやりと笑った。


「あら。あなたも出てるの。恥をかきに来たのかしら」


 無視した。


 ノートなんかいらない。


 指が覚えてる。舌が覚えてる。

 三年間の朝四時が。百回の失敗が。花嫁さんの涙が。男の子の笑顔が。


 そして――この一ヶ月、氷室さんに叩き込まれた、0.1グラムの重みが。


 そのすべてが、わたしの武器だ。



 スタートの合図。


 わたしは動いた。


 迷わない。


 スポンジを焼く。

 いつもなら「だいたいこれくらい」で止める手を、止めない。

 温度計を見る。生地の比重を計る。

 氷室さんが憑依したみたいに、正確に、冷徹に。

 土台が揺らいだら、その上に城は建たない。高く、高く積み上げるために、基礎は岩のように硬くなくちゃいけない。


 焼き上がったスポンジは、今までで一番の出来だった。

 均一で、しなやかで、絹のような肌触り。

 これが、氷室さんの世界。


 でも、ここから先は、わたしの世界だ。


 生クリームを泡立てる。いちごを切る。

 黒胡椒を挽く。香りが弾ける。

 はちみつを垂らす。黄金色の線を描く。


 そこに――ひとつだけ、新しい手を加えた。


 ローズマリーのアイスクリーム。


 ケーキの芯に、ハーブの冷たい核を据える。



 これは賭けだ。



 アイスクリームは溶ける。時間との勝負になる。正確無比な土台がなければ、アイスの水分でケーキ全体が崩壊する。


 でも、今のわたしならできる。氷室さんの土台があるから。


 あたたかいスポンジと冷たいアイス。

 甘さとスパイシーさ。

 正確(つよ)さと奔放さ。

 相反するものが口の中で溶け合って、季節がふたつ同時に来るような、ありえない(ことば)になる。



 三時間は、一瞬で過ぎ去った。


 審査員がわたしのケーキを食べた。


 一人目が、スプーンを止めた。


 二人目が、目を閉じた。


 三人目が――笑った。



「これは――楽しい」



 隣のブースの彼女は、わたしのノートにあった黒胡椒ショートケーキをそのまま出していた。

 おいしい。お父さんのレシピだから当然おいしい。

 でも、それだけだ。

 ノートに書いてある通りに作っただけ。あの人の手には、お父さんの朝四時がない。わたしの三年間がない。そして、氷室さんから盗んだ「正確(つよ)さ」がない。


 レシピは同じでも、そこにない時間は足せない。




 グランプリ――


「パティスリー・グラース、有村日和さん」


 会場がざわめいた。無名の店。聞いたことない名前。

 審査員長がマイクを握った。


「土台の精度は出色です。完璧な計算の上に成り立っている。そのうえで――ローズマリーアイスの芯という破格の発想。正確さと奔放さが、ひとつのケーキの中で共存している。このケーキは――生きている」


 生きている。


 さみしくない。作った人の手が、見える。



 客席を見た。

 氷室さんがいた。壁にもたれて、腕を組んで。

 いつもの無表情。でも、拍手している。小さく、でもたしかに。


 舞台を降りた。

 トロフィーなんてどうでもよかった。


 氷室さんが待っていた。


「日和さん」


「はい」


「おめでとうございます」


「……ありがとうございます。氷室さんの技、勝手に使わせてもらいました」


「わかっています。メレンゲの立て方、あれは僕の癖だ」


 バレてた。

 でも、氷室さんは怒っていなかった。むしろ、どこか誇らしげに見えた。


「来年のグランプリ。僕も出ます」


「……え?」


「あなたのケーキは――たしかに、さみしくなかった」


 それだけ言って、背を向けた。


 ちょっと待って。

 今、なんて言った? 来年のグランプリ? 出る? あなたが?


「あの……それって」


「勝負です」


 振り向かずに、短く。


 ――ああ。

 この人は、わたしを、ライバルとして認めたんだ。


 計量スプーン0.1グラム単位の、あの氷室蓮が。

 正確で、きれいで――でもどこかさみしかったケーキを作る人が。

 もう一度、自分のケーキと向き合おうとしてる。わたしの「ばーん」に触発されて。


 わたしが変わったように、この人も変わろうとしている。


 泣きそうになった。

 でも泣かない。泣いてる場合じゃない。

 勝負と言われたら、受けて立つのが礼儀だ。


 来年のグランプリまでに、もっともっとおいしいケーキを焼かなくちゃいけない。

 氷室さんの正確さを、もっと自分のものにする。

 わたしの「ばーん」を、もっと磨く。

 ぜんぶ混ぜたら――もっと楽しい、誰にも真似できないケーキが焼けるはずだ。


 わたしは、宣言した。


「――世界一たのしいの、作ります」


 氷室さんの背中が、ほんのすこし揺れた。


 彼が笑った気がした。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ