下品だと言われて追い出された田舎のパティシエですが、冷徹オーナーに拾われて世界一のケーキを焼きます
クビになった。
三年間、朝の四時から生地をこねて、クリームを泡立てて、焼き上がりの温度を指先で覚えて。
町でいちばん古いケーキ屋「フルール」の厨房に立ち続けた日々が、今日、唐突に終わった。
「有村日和さん。あなたのお菓子は……下品なの」
新しいオーナーが、つけまつげをバチバチさせながら言った。
先代の息子の奥さんで、自分では生クリームを泡立てたことすらない人だ。半年前にこの店に嫁いできて、先代が引退したとたんに「オーナーパティシエ」を名乗りだした。
爪にはラインストーンがびっしりと張り付いている。あれじゃあ、生地に触った瞬間に雑菌がコンニチハだ。
「だいたいね、結婚式のケーキに唐辛子を入れるなんて正気?」
入れた。スイートチリのジュレをホワイトチョコの層に忍ばせたのだ。
甘さの輪郭がきゅっと引き締まって、舌の上でピリッとした熱が踊る。常識はずれだと厨房のみんなは止めたけれど、わたしは強行した。
結果、花嫁さんは「今まで食べたケーキで一番おいしい、燃えるような愛を感じた」って泣いてくれた。おいしいって言われて、泣いて喜ばれて、何が悪い。
「バースデーケーキに花火を刺して消防車呼ばれたのも忘れてないから」
あれは線香花火で、火なんか出てない。煙感知器が敏感すぎただけだ。
でも誕生日の男の子は「人生で最高の日! ドラゴンみたい!」って叫んでくれた。最高って言われて何が悪い。
「あとローズケーキの件。お客様は上品なバラをお願いしたの。なぜ庭が爆発したみたいなケーキになるの」
バラだけじゃさみしいから、野花を足しただけだ。
お客さんは最初びっくりして目が点になっていたけど、写真を撮って「野獣派ケーキ」ってSNSに載せてくれた。三万いいねがついた。三万だぞ。この町の人口より多い。
でも、そんな言い訳は聞いてもらえなかった。
「明日から来なくていいわ。あ、レシピノートは置いていってね。あれはお店の財産だから」
――ああ。
やっとわかった。
わたしの腕がいらないんじゃない。わたしのレシピが欲しいんだ。
お父さんが教えてくれたショートケーキのレシピから始まって、三年間の試行錯誤で書き溜めた二百ページのノート。
お父さんの「いちごには黒胡椒をほんのすこし」――あのたった一行が、この人には金を生む宝の山に見えるんだろう。
悔しかった。
喉の奥が、焼けつくように熱くなった。
怒鳴りつけてやりたかった。そのつけまつげをもぎ取ってやりたかった。
でも、わたしはパティシエだ。
パティシエの手は、人を殴るためにあるんじゃない。甘い魔法をかけるためにあるんだ。
だから、ノートをカウンターに置いた。
叩きつけるように、でも、表紙は汚れないように。
お父さんのレシピは頭の中にぜんぶある。
ノートなんてただの紙だ。わたしの指が覚えてる。舌が覚えてる。お父さんの手が、わたしの手の中に残ってる。それだけあれば、どこだって――
行くあてなんか、なかったけど。
*
東京。
夜明けの風が、かすかに甘かった。排気ガスと、コーヒーと、アスファルトの匂い。
夜行バスで着いて、あてもなく歩いて、裏路地で一軒の店を見つけた。
南青山の、高級ブランド店が並ぶ通りの一本裏。真っ白い壁に小さなガラス扉。控えめな金文字で「Pâtisserie Glace」。
きれいだった。
でも、お客がいない。ランチの時間帯なのに、誰も。ガラスの向こうは、深海みたいに静まり返っている。
ドアを開けた。カウベルが鳴る音さえ、どこか冷ややかだ。
ショーケースを覗いた。並んでいるケーキは完璧だった。
フォルムもグラサージュの艶も、教科書に載せていいレベル。ムースの断面は数学みたいに均一で、飾りのチョコ細工は一ミリの狂いもない。いちごのショートケーキなんて、定規で測ったみたいに直角だ。
すごい。
すごい、けど――
「なんか、さみしいな」
つい声に出た。
ぜんぶ同じ温度なのだ。
正確で、きれいで――でも、誰のために焼いたのかが見えない。
ガラスの向こうで、ケーキたちが「触らないで」と言っている気がした。こんなにきれいなのに、もったいない。
「……何か用ですか」
振り向くと、長身の男が立っていた。
黒い目。端正な顔。白いコック服に染みひとつない。腕を組んで、こちらを見下ろしている。体温を感じさせない立ち姿は、まるで精巧なアンドロイドみたいだ。それも、絶対に絶対に笑顔なんて見せないタイプ。
「あ、えっと――」
「さみしい、と言いましたか。うちのケーキが」
冷たい声。まずい。客でもないのに店先で悪口を言ってしまった。
でも、嘘はつけない。お父さんは言っていた。「ケーキに嘘をつくな。心に嘘をついたら、味に出るぞ」って。
「いや! おいしそうですよ! ていうかめちゃくちゃきれいです! でも、なんかこう――もうちょっと――ばーんって――」
両手を広げて「ばーん」を表現しようとした。
男の眉がピクリと動く。ただの不審者だと思われている。田舎から出てきたばかりの、ボストンバッグを下げた小娘が、青山の一等地の店にケチをつけているのだから。
男はしばらくわたしを見つめた。
視線が、わたしの顔ではなく、手に落ちる。
「パティシエですね」
「え? なんで――」
「右手の親指にタコ。絞り袋の癖です。人差し指の火傷痕は飴細工。爪の中のバニラは三日以内に仕込みをした証拠ですね」
全部見られてた。
わたしは反射的に手を後ろに隠した。
「パティシエはパティシエですが、クビになりたてのパティシエです。わたしの作るケーキは下品だ、って」
男は氷室蓮と名乗った。
この店のオーナーシェフ。名門の出で、フランスの製菓学校を首席で卒業して、三年前にこの店を開いた。
――客が来ないまま、三年。
なぜ客が来ないか、わたしにはわかる。さっきショーケースを見た瞬間にわかった。
技術の展覧会なのだ。食べる人の顔が見えない。
「ひとつ、作ってみますか。うちの厨房で」
え。
なんでそんなことを言うんだろう、この人は。
試すような、でも、どこか縋るような目だった。完璧すぎる城の中で、ひとりぼっちで立ち尽くしている王様の目。
でも、断る理由なんか、ない。
だって――ケーキが作れるんだから。
*
厨房に入って、手を洗った。
なにを見ても、一流品ばかりだ。ヴァローナのチョコレート。北海道の発酵バター。マダガスカルのバニラビーンズ。田舎の店じゃ触ったこともない、宝石みたいな素材たち。
ステンレスの作業台は、鏡みたいに磨き上げられている。わたしが映っている。ちょっと疲れた顔をして、でも目はぎらぎらしているわたしが。
何を作るかは、考えなかった。
手が勝手に動いた。お父さんが教えてくれた、たった一つのショートケーキ。
スポンジを焼く。オーブンの癖はわからないけど、匂いでわかる。生地が「今だ!」って叫ぶ瞬間がある。
生クリームを泡立てる。ボウルに当たるホイッパーの音が、カシャカシャからボフボフに変わる瞬間。
いちごを切る。果汁がまな板に散る。
仕上げに、はちみつと粗挽き黒胡椒をほんの少し。
お父さんの魔法。「これだけでいちごが目を覚ますんだ」って、小さいころに教わった。
ふたりで並んでいちごを切った台所が、世界でいちばん楽しい場所だった。粉だらけになって、クリームを舐めて、笑い転げた記憶。
できた。
見た目は不格好だ。氷室さんのケーキみたいな端正さはない。クリームの塗り方も荒い。
でも、匂いが立つ。甘くて、スパイシーで、生きている匂い。
氷室さんがフォークを入れて、一口食べた。
沈黙。
換気扇の音だけが響く。
「……なんですか、これは」
「ショートケーキです」
「なぜ胡椒が入っているんですか」
「いちごの甘さが三倍になるからです」
「……めちゃくちゃだ」
氷室さんが、もう一口食べた。
眉間に皺を寄せたまま、困惑したように。理解できない数式を解くみたいに。
もう一口。
もう一口。
一切れぜんぶ、なくなった。
「明日から来てください」
「え?」
「……下品でいい。僕はそう判断します」
下品でいい。
その一言のなかには、とてつもなく大きなものが入っている気がした。
でも同時に、否定され続けたわたしの三年間が、間違いじゃなかったと言われた気もした。
うれしかった。
うれしくてたまらなかった。
わたしは、顔を上げて、力いっぱい宣言した。
「世界一おいしいの、作ります!」
……もっとも、氷室さんの返事は「書類は後ほど。契約書の確認に弁護士を同席させるなら、その費用は僕が持ちます」みたいな感じだったけど。
*
パティスリー・グラースで働き始めて一ヶ月。
わたしは、とんでもない思い違いをしていた。
わたしは、自分の才能を信じていた。なんなら、心の中では自分のことを天才だと思っていた。田舎の店では、わたしの作るケーキはいつだって絶賛されたから。
でも、ここでは違った。
「廃棄です」
氷室さんの冷たい声が、厨房に響く。
目の前には、わたしが焼いた十個のスポンジケーキが並んでいる。
「なんでですか! これ、めちゃくちゃよく焼けてますよ! ふわふわだし!」
「こっちは焼き色が濃すぎる。こっちは膨らみが足りない。こっちは気泡が粗い」
氷室さんは、ひとつひとつ指さして断罪していく。
そして、十個のうちのひとつだけを指さして言った。
「商品になるのは、これだけだ」
たった一個。
残りの九個は、ゴミ箱行きだと言う。
「うちはギャンブル場じゃない」
氷室さんは、わたしの目を真っ直ぐに見て言った。
「お客様は、奇跡を買いに来るんじゃない。約束された品質を買いに来るんです。十回作って一回しか成功しないものを、プロの仕事とは呼ばない」
反論できなかった。
悔しくて、唇を噛んだ。
田舎のお客さんは優しかった。
「今日の日和ちゃんのケーキは、ちょっと形が違うね」って笑って許してくれた。
わたしはそれに甘えていたのだ。
わたしのケーキは「ばーん」と爆発するような輝きがあるけれど、それは一瞬の花火みたいなもので、再現性がない。
氷室さんのケーキはさみしいけれど、いつ食べても、何度食べても、絶対的に正しい。
わたしのケーキをプロの仕事とは認めない氷室さんだったけど、彼はわたしをクビにはしなかった。
ため息をつきながらも、わたしの「十個に一個の奇跡」をショーケースに並べ続けた。
そして……客が増えた。
「なにこれ!」と写真がSNSに上がるようになった。
わたしの「爆発ショートケーキ」――いちごとベリーとエディブルフラワーが、ケーキの上で花火みたいに咲いてるやつだ。
フルールでは怒られた飾りつけ。ここでは、氷室さんの完璧なケーキたちの真ん中で、異様な存在感を放っている。
「ばーん、ですね」
ある雨上がりの夕方。
店の外に出ると、春の匂いがした。アスファルトの湿った匂いと、店から漏れる焦がしバターの香りが混ざり合っている。
氷室さんが、並んで空を見上げながら、ぽつりと言った。
「え?」
「最初に会ったとき、あなたが言っていた。もうちょっと、ばーんって」
――覚えてたんだ。
氷室さんは、わたしのケーキを一度も「下品だ」とは言わなかった。
ただ、「再現性がない」と文句を言うだけだ。それはつまり、味そのものは認めているということだ。
わたしも、見ていた。
氷室さんの仕事を。
美しいのだ。
悔しいけれど、美しい。
計量スプーンですくう粉の山。温度計を見る鋭い目。オーブンに入れるタイミングの、あの一瞬の呼吸。
そこには「迷い」がない。
わたしのケーキは、その日の気分で味が変わる。元気なときは弾む味。落ち込んでいるときは萎んだ味。十個作れば九個は失敗作と言われても、反論できない。
氷室さんのケーキは揺るがない。いつだって、その素材の最高到達点を叩き出す。
氷室さんには、下品でいい、と言われた。
わたしが作ったケーキで、お客も増えた。
でも、わたしは思った。
フルールでは、半分親戚みたいな優しいお客さんたちに甘えていたように。
いまのわたしは、「ばーん」に甘えてるんじゃないだろうか。
*
それから、また一月たった。
SNSで、見覚えのあるケーキを見つけた。
黒胡椒のショートケーキ。はちみつと粗挽き黒胡椒を使った、いちごの甘さを引き立てる一品。
出していたのは「フルール」。あの新オーナーの名前で。「天才オーナーパティシエが生み出した革命的ショートケーキ」という見出しつき。
お父さんのレシピだ。
わたしがお父さんから受け継いで、三年間かけて磨いたレシピだ。
あの人は、一度もケーキを焼いたことがないのに。ノートの通りに作らせただけのくせに。
スマホを持つ手が震えた。
悔しかった。
わたしの記憶が、思い出が、土足で踏み荒らされた気がした。
「日和さん」
いつの間にか、氷室さんが横に立っていた。
わたしのスマホの画面を一瞥して、表情を変えずに言った。
「来月のパティシエ・コンクール東京に、その『フルール』も出場するそうです」
慰めの言葉なんてない。
その代わり、一枚の紙を差し出された。エントリーシート。
「……出ます。ありがとうございます」
考えるより先に口が動いた。
逃げない。ここで逃げたら、お父さんのレシピがあの人のものになってしまう。
「何を作るかは」
「まだ決めてません。でも、すごいのを作ります」
氷室さんは「そうですか」とだけ言って、厨房に戻っていった。
わたしも厨房に入った。
いつものように粉を掴もうとして、手が止まった。
氷室さんの背中が見えた。
0.1グラムを削り出す背中。
わたしは深呼吸すると、計量スプーンを手に取った。
重い。
小さなスプーンが、こんなに重いなんて知らなかった。
盗んでやる。
あなたのその、冷徹なまでの正確さ。
リスペクトをこめて、全部盗んで、わたしの武器にしてやる。
それからの日々は、地獄だった。
わたしは自分の「感覚」を殺した。
指先の感覚だけでやっていたことを、すべて数字に置き換える作業。
何度やっても、氷室さんのような完璧なスポンジには届かない。
「温度が二度低い」
「混ぜる回数が三回多い」
「メレンゲのキメが揃っていない」
氷室さんは容赦なかった。
わたしの隣に立ち、ストップウォッチ片手に監視する。その目は、出来の悪い生徒を見る教師の目じゃない。もっと切実な、戦友を見る目だった。
わたしも必死だった。
くたくたになって、小麦粉まみれになって、それでも焼いて、焼いて、焼いた。
十個のうち一個しか成功しなかったスポンジが、三個になり、五個になり、八個になった。
そしてコンクール前日。
十個目のスポンジが焼き上がったとき、氷室さんが言った。
「……合格です」
その言葉を聞いた瞬間、わたしはその場にへたり込んだ。
でも、心臓は早鐘を打っていた。
手に入れた。
最強の土台。
この上に、わたしの「ばーん」を乗せるんだ。
*
コンクール当日。
会場は熱気と甘い匂いで満ちていた。
テーマは「幸福」。制限時間は三時間。
隣のブースに、あの人がいた。
わたしのレシピノートを台の上に広げて、優雅に紅茶を飲んでいる。作るのは雇われのスタッフだろう。
こちらを見て、にやりと笑った。
「あら。あなたも出てるの。恥をかきに来たのかしら」
無視した。
ノートなんかいらない。
指が覚えてる。舌が覚えてる。
三年間の朝四時が。百回の失敗が。花嫁さんの涙が。男の子の笑顔が。
そして――この一ヶ月、氷室さんに叩き込まれた、0.1グラムの重みが。
そのすべてが、わたしの武器だ。
スタートの合図。
わたしは動いた。
迷わない。
スポンジを焼く。
いつもなら「だいたいこれくらい」で止める手を、止めない。
温度計を見る。生地の比重を計る。
氷室さんが憑依したみたいに、正確に、冷徹に。
土台が揺らいだら、その上に城は建たない。高く、高く積み上げるために、基礎は岩のように硬くなくちゃいけない。
焼き上がったスポンジは、今までで一番の出来だった。
均一で、しなやかで、絹のような肌触り。
これが、氷室さんの世界。
でも、ここから先は、わたしの世界だ。
生クリームを泡立てる。いちごを切る。
黒胡椒を挽く。香りが弾ける。
はちみつを垂らす。黄金色の線を描く。
そこに――ひとつだけ、新しい手を加えた。
ローズマリーのアイスクリーム。
ケーキの芯に、ハーブの冷たい核を据える。
これは賭けだ。
アイスクリームは溶ける。時間との勝負になる。正確無比な土台がなければ、アイスの水分でケーキ全体が崩壊する。
でも、今のわたしならできる。氷室さんの土台があるから。
あたたかいスポンジと冷たいアイス。
甘さとスパイシーさ。
正確さと奔放さ。
相反するものが口の中で溶け合って、季節がふたつ同時に来るような、ありえない味になる。
三時間は、一瞬で過ぎ去った。
審査員がわたしのケーキを食べた。
一人目が、スプーンを止めた。
二人目が、目を閉じた。
三人目が――笑った。
「これは――楽しい」
隣のブースの彼女は、わたしのノートにあった黒胡椒ショートケーキをそのまま出していた。
おいしい。お父さんのレシピだから当然おいしい。
でも、それだけだ。
ノートに書いてある通りに作っただけ。あの人の手には、お父さんの朝四時がない。わたしの三年間がない。そして、氷室さんから盗んだ「正確さ」がない。
レシピは同じでも、そこにない時間は足せない。
グランプリ――
「パティスリー・グラース、有村日和さん」
会場がざわめいた。無名の店。聞いたことない名前。
審査員長がマイクを握った。
「土台の精度は出色です。完璧な計算の上に成り立っている。そのうえで――ローズマリーアイスの芯という破格の発想。正確さと奔放さが、ひとつのケーキの中で共存している。このケーキは――生きている」
生きている。
さみしくない。作った人の手が、見える。
客席を見た。
氷室さんがいた。壁にもたれて、腕を組んで。
いつもの無表情。でも、拍手している。小さく、でもたしかに。
舞台を降りた。
トロフィーなんてどうでもよかった。
氷室さんが待っていた。
「日和さん」
「はい」
「おめでとうございます」
「……ありがとうございます。氷室さんの技、勝手に使わせてもらいました」
「わかっています。メレンゲの立て方、あれは僕の癖だ」
バレてた。
でも、氷室さんは怒っていなかった。むしろ、どこか誇らしげに見えた。
「来年のグランプリ。僕も出ます」
「……え?」
「あなたのケーキは――たしかに、さみしくなかった」
それだけ言って、背を向けた。
ちょっと待って。
今、なんて言った? 来年のグランプリ? 出る? あなたが?
「あの……それって」
「勝負です」
振り向かずに、短く。
――ああ。
この人は、わたしを、ライバルとして認めたんだ。
計量スプーン0.1グラム単位の、あの氷室蓮が。
正確で、きれいで――でもどこかさみしかったケーキを作る人が。
もう一度、自分のケーキと向き合おうとしてる。わたしの「ばーん」に触発されて。
わたしが変わったように、この人も変わろうとしている。
泣きそうになった。
でも泣かない。泣いてる場合じゃない。
勝負と言われたら、受けて立つのが礼儀だ。
来年のグランプリまでに、もっともっとおいしいケーキを焼かなくちゃいけない。
氷室さんの正確さを、もっと自分のものにする。
わたしの「ばーん」を、もっと磨く。
ぜんぶ混ぜたら――もっと楽しい、誰にも真似できないケーキが焼けるはずだ。
わたしは、宣言した。
「――世界一たのしいの、作ります」
氷室さんの背中が、ほんのすこし揺れた。
彼が笑った気がした。




