第97話:末裔の告白
窓から差し込む朝の光が、埃の舞う部屋を白く照らしていた。
アドルが意識を取り戻した時、最初に感じたのは、腕の中に伝わる柔らかな体温と、それとは対照的な右手の鋭い疼きだった。
「……ん、んん……」
腕の中の温もりが小さく身じろぎする。
アドルが視線を落とすと、そこには安らかな寝顔のミーシャがいた。
昨夜、地下書庫から命からがら脱出した後、アドルは怒りと焦燥で頭が割れそうになりながらも、ただ彼女を失う恐怖に突き動かされてこのベッドまで運び込んだのだ。心配のあまり、そのまま抱きかかえるようにして眠ってしまったらしい。
「あ……えっと、これは……」
「ふふ……おはようございます、アドルさん」
ミーシャがゆっくりと瞼を持ち上げ、至近距離でアドルを見つめた。
アドルは一気に顔が熱くなるのを感じて、慌てて腕を解こうとする。
「す、すまないミーシャ! これは、その、昨日のあれが心配で……つい」
「別に、怒ってませんよ」
ミーシャは優しく微笑むと、逆にアドルの背中に腕を回し、小さく抱きしめ返した。
彼女の体からは、微かに魔法を使った後の焦げたような匂いと、甘い薬草の香りが混じって漂ってくる。アドルはその温もりに、昨夜の凍りつくような恐怖が少しずつ溶けていくのを感じた。
「……足、まだ痛むか?」
「痛みは、あの薬のおかげでほとんど。……でも、やっぱり折れてるんだなって感じの違和感はありますね」
アドルの表情が、瞬時に険しいものへと変わった。
歯を食いしばり、拳を握りしめる。昨夜、彼女をあんな目に合わせた連中への怒りが、腹の底から黒くせり上がってきた。
「今日はあのクソ女とクソババアに、きっちり話を付けなきゃならない。ミーシャをこんな目に合わせやがって……。タダで済むと思うなよ」
「アドルさん、落ち着いてください。私は大丈夫ですから。……ね? 冷静に対応しましょう」
ミーシャがアドルの頬にそっと手を添える。
その冷たい指先の感触に、アドルは荒い呼吸を整え、ようやく小さく頷いた。
◇
宿の一階に下りると、そこには昨夜の老婆と、そして司書のセレネが待ち構えていた。
セレネは昨日までの穏やかな司書の顔ではなく、どこか現実味のない、透き通るような冷徹さを纏っている。
「ここでできるようなお話でもありません。場所を変えさせてもらってもよろしいですか?」
セレネの声が、人気のない食堂に冷たく響く。
「ちっ……。ミーシャをあんなにしといて、よくそんな軽口が叩けるな」
「アドルさん」
ミーシャに袖を引かれ、アドルは舌打ちを一つして歩き出した。
「……案内しろ。ミーシャ、おんぶしてやる。捕まってろよ」
「はい」
ミーシャを背負い、アドルの背中に伝わる彼女の重みを怒りの盾にしながら、一行は再び王立地下図書館へと向かった。
辿り着いたのは、昨日訪れた場所よりもさらに深く、一般の利用者どころか職員すら立ち入りを禁じられた、分厚い石扉の前だった。
セレネが例の禍々しい鍵を差し込み、複雑な術式を回す。
ガコン、と重厚な金属音が地下回廊に反響し、扉がゆっくりと口を開けた。
「ここなら大丈夫ですね。……まずは、突然あのような真似をしたことをお詫びします」
部屋の中に入り、扉が閉まると同時にセレネが頭を下げた。
「すみませんじゃ済まねぇんだよ。……全部説明しろ。お前ら、何者だ」
アドルの刺すような視線を受け、セレネは静かに眼鏡を押し上げた。
「……私たちは王都に住んでいますが、それは仮初の姿です。実は『禁忌の森の末裔』と呼ばれる一族なのです」
「……禁忌の森。俺たちが目指している場所か」
「行って、一体何をなさるおつもりで?」
「分からない。ただ、錬金術師の祖と呼ばれる存在に会ってみたい。それだけだ」
セレネは僅かに瞳を揺らし、アドルの右手の甲……包帯に隠された紋章を見つめた。
「……そうですか。あなたには、その資格があるかもしれませんね。錬金術師の祖と呼ばれているのは、私たち末裔の主、大婆様です」
「あんたらのボス、ってことか。なら話は早い、会わせてくれ」
「実は、そう簡単にはいきません」
「何だと!」
詰め寄ろうとするアドルを、背中のミーシャが「落ち着いて」と宥める。
「……実は、大婆様には私たちも会ったことがありません。今回実施した適合試験も、代々伝わる伝承と指示に従っただけなのです。末裔はみな、大婆様の姿を見たことがない。恐らく同族だとは思いますが……。私たちは王都で、数百年に一度現れるかもしれない『紋章持ち』を待ち、現れたら試験をするよう言い伝えられてきた。前回は、三百年前だったようです」
「三百年……? そんなの、生きてるわけないだろ」
「だからこそ『祖』なのです。……試験を突破したあなたには、禁書庫の閲覧権が与えられます。王国の公式な記録には残されていない、真実の歴史がそこにあります」
アドルは吐き捨てるように言った。
「その『祖』に会う方法は?」
「……私たちにも全く分かりません。合格すれば禁書庫に入れる、不合格なら入れない。ただそれだけ。お力になれず申し訳ありませんが、これが全てです」
アドルは沈黙した。
目の前の女たちを責めたところで、これ以上の答えは出ないことを、その冷徹な瞳が物語っていた。
「……分かった。なら、禁書庫で徹底的に情報を漁らせてもらう」
「それがよろしいかと。……ちなみに、私たちが禁忌の森の末裔だということは他言無用でお願いします。もし喋ったら……あなたたちを殺さなくてはならなくなりますので。ご承知おきを」
セレネの口調は穏やかだったが、その言葉には一切の冗談が含まれていなかった。
アドルは背筋に走る戦慄を隠し、ミーシャを背負い直す。
「……初見じゃ分からなかったが、恐ろしい連中だな。滞在期間は少し伸びそうだが、宿はそのまま使わせてもらうぞ」
「もちろんです。ただ、目立った行動はお控えください。別の問題が起きますので」
「別の問題……?」
アドルが問い返したが、セレネはそれ以上答えず、ただ静かに微笑むだけだった。
「……それと、腕のいい神官を紹介してくれ。ミーシャの足を治すのが先決だ。至急頼む」
「分かりました。街の北側にある教会へ行き、シスター・マリアを訪ねてください」
アドルはセレネの手から紹介状をひったくるように受け取ると、一度も振り返ることなくその場を後にした。
ミーシャを背負ったアドルの足取りは重かったが、その瞳には王都の闇を貫くような鋭い光が宿っていた。




