第95話:深夜の疼き
真夜中の静寂は、時として刃物よりも鋭く神経を逆撫でする。
アドルは使い古された毛布の中で、じっと天井を見つめていた。
包帯を巻いた右手が、熱を持った鉄塊のように重い。ドクン、ドクンと、心臓の鼓動を追い越すような速さで疼く痛みは、あの白銀の怪異が残した刻印がいまだに生きて呼吸している証拠だった。
ズルリ……ズルリ……。
床下から響くその音は、やはり気のせいではなかった。
何かが這い回っている。
それも、小動物のような類ではない。
もっと巨大で、質量のある何かが、石材の床を擦りながら移動しているような、重苦しい摩擦音だ。
アドルは音もなくベッドから這い出し、足音を殺して床に耳を当てた。
ミシミシ……。
古い木材が、下からの圧力に耐えかねたように悲鳴を上げる。
その時、隣の部屋との仕切り戸が、微かな音を立てて開いた。
「……アドルさん、やっぱり起きてたのね」
ミーシャだった。
彼女は外套を羽織り、杖を握りしめている。
その顔は青ざめていたが、瞳の奥にはアドルと同じ、抗いがたい好奇心と緊張が宿っていた。
「ああ。この下だ。ただのネズミじゃない。……俺のこの手が、あいつに呼応してる気がするんだ」
二人は視線を交わし、音の源を探るべく部屋を出た。
宿の廊下は、魔石ランプの火も落とされ、深い闇に沈んでいる。
一歩踏み出すごとに、ギィ、ギィと床が軋む。
その音が、まるで地下の何かに自分たちの居場所を知らせているようで、アドルは心臓が口から飛び出しそうなほどの緊張を覚えた。
一階の食堂へと続く階段を下りると、音はさらに鮮明になった。
ズルリ……ゴツンッ。
何かが壁にぶつかったような、鈍い振動が足裏に伝わる。
アドルは厨房の隅、使い古された敷物が敷かれた場所で足を止めた。
右手の疼きが、ここでは叫びに近い激痛へと変わっていた。
「……ここだ」
アドルは敷物を剥ぎ取った。
そこには、周囲の床板とは明らかに噛み合わせの異なる、円形の木蓋が隠されていた。
だが、その蓋の上には、見たこともない複雑な術式の光が網目状に張り巡らされていた。
「これ、封印の魔法……? 私の魔法じゃ、触れるだけで弾き飛ばされそう……」
ミーシャが杖を構えるが、アドルはそれを制した。
不思議な感覚だった。
包帯の下の紋章が、その封印の光に反応して、まるで共鳴するように熱を帯びていく。
アドルは訓練で学んだ重心の感覚を、そのまま右手の感覚へと移した。
力の流れを感じろ。
アドルは震える手を封印の光にかざした。
すると、包帯を透過して漏れ出た赤い光が、封印の網目を解きほぐすように中へと吸い込まれていく。
パキパキ、パキィィィィィン!
凍りついた空気が割れるような音が響き、封印が霧散した。
アドルは指先を蓋の隙間にかけ、全身の力を込めて引き上げる。
ゴゴゴ、ガガッ……!
重い石の扉が動くような、不吉な摩擦音が響く。
開かれた穴の先には、垂直に切り立った梯子と、その奥に広がる底知れない闇があった。
湿ったカビの匂いと、微かなインクの香りが、下から生暖かい風と共に吹き上がってくる。
「行くの……?」
ミーシャの問いに、アドルは答えなかった。
ただ、包帯の手を強く握りしめ、闇の中へと足をかけた。
この先に何があるのか。
それが自分を破滅させる罠であっても、この紋章の疼きを止めるためには、進むしかないと確信していた。
◇
梯子を下りきった先には、王都の華やかさとは対極にある、巨大な石造りの回廊が広がっていた。
壁一面に並んでいるのは、無数の、しかし全てが白紙のまま積み上げられた本だ。
その回廊の中央を、ゆっくりと移動する影があった。
それは、数百本もの節くれだった腕を持つ、異形のマギ・ゴーレムだった。
それぞれの腕が万年筆を握り、驚異的な速度で壁の本に何かを書き込み続けている。
ズルリ、ズルリという音は、その巨体が移動する際の足音だったのだ。
「……これが、地下図書館の裏側……?」
圧倒される二人の背後で、パタン、と、入り口の蓋が閉まる音がした。
振り返ったアドルの視界に映ったのは、闇の中からこちらを見つめる、あの宿の老婆の姿だった。
老婆の手には、先ほどまでの普通をかなぐり捨てたような、禍々しい光を放つ魔石の鍵が握られていた。
「……見つけちまったかね。資格者さんよ」
老婆の口元が、三日月のように吊り上がる。
その瞬間、書き物を続けていた巨大なゴーレムの数百本の腕が一斉に動きを止め、不気味な軋み音を立ててアドルたちの方へと向き直った。
「悪いがね、そこはまだ君たちが足を踏み入れていい場所じゃない。……だが、開けちまったからには、それ相応の責任を負ってもらおうか」
ゴーレムの体内で、ゴォォォォォ……という地鳴りのような起動音が響き始めた。




