第93話:白の洗礼
焚き火の爆ぜるパチッという乾いた音が、静寂に包まれた森に不気味に響く。
アドルは、背筋を駆け上がる得体の知れない悪寒に身を震わせた。
それは単なる夜の冷気ではない。
肌の表面をザラリと撫でるような、粘り気のある異質な魔力。
隣に座るミーシャが、杖を握りしめたまま小さく喘いだ。
「アドルさん……これ、魔物じゃない。冷たい意志が、私たちを覗き込んでる……」
ヒュォォォ……。
空間そのものが固着したかのような錯覚。
茂みの奥から、ヌチャリ、と重い液体が地面を這うような音が聞こえてくる。
その時、ガラハドが音もなく立ち上がった。
彼の右手はすでに剣の柄に深くかかり、指の関節が白くなるほど力がこもっている。
「アドル、ミーシャ。私の背後へ。……これは、ただの刺客ではないぞ」
闇を切り裂いて現れたのは、月光を浴びて白銀に輝く、人の形をした何かだった。
顔には目も鼻もなく、鏡のように磨き上げられた滑らかな面が、焚き火の明かりを歪に反射している。
キィィィィィィン──。
鼓膜を直接針で刺すような高周波が周囲を満たした。
白銀の怪異が、物理法則を無視した挙動で一瞬にして距離を詰めてくる。
ガキィィィィン!!
反射的に放たれたガラハドの一閃。
だが、金属同士が衝突したはずの音は、水の中に響くような鈍い衝撃へと変わった。
怪異の腕は衝突の瞬間に流体へと姿を変え、ガラハドの剣を絡め取ろうと蠢く。
「くっ……何だこいつは!? 手応えがない……吸い込まれるのか!?」
怪異の鏡面が波紋のように揺らめいた。
そして、直接脳の奥を掻き回すような、冷徹な女性の声が響く。
『……異分子。特異点としての純度……未到達。……不合格』
シュルッ。
怪異の指先が鋭い針へと変貌し、アドルの胸元へと突き出された。
アドルは泥を啜るような訓練の日々を思い出し、無意識に重心を沈めた。
筋肉が断絶するような激痛を、アドレナリンが無理やり押し流す。
紙一重。
頬を熱い風がかすめ、背後の大樹がドォォォォォンと轟音を立てて貫通した。
アドルは転がりながら木剣を振り抜いたが、白銀の体は手応えなく霧散し、再び数メートル先で形を成す。
『……だが、興味深い。その力、古の記憶と重なる。……証を刻もう。這い上がって見せよ』
怪異が指先を向けた瞬間、アドルの右手の甲に、焼けるような激痛が走った。
「あ、があぁぁぁぁっ!?」
肉を焼くジューという音。
アドルは地面をのたうち回り、右手の甲を左手で必死に押さえた。
白銀の怪異は、そのまま夜の闇に溶け込むように姿を消した。
◇
「……消えた、のか?」
ミーシャが青ざめた顔で駆け寄ってくる。
アドルの右手の甲には、歪な幾何学模様が、血が滲んだような赤色で浮かび上がっていた。
ガラハドは剣を収め、苦悶に満ちた表情を浮かべるアドルを見据えた。
「アドル、その傷を見せろ。……不合格だと? 冗談ではない。あんな化け物、騎士団の文献にも載っていなかったぞ」
ガラハドは手際よく薬を取り出し、アドルの右手を厚い包帯でぐるぐる巻きにした。
「とりあえず今はこれを隠せ。その手を人前に晒すな。嫌な予感しかしない」
「……分かりました」
翌朝。
マグネ・スライダーは、地平線を黄金色に染める太陽に向かって走り始めた。
シュルルルル……ガツンッ!
アンカーを打ち込む衝撃を受けながら、アドルは遠くに見える巨大な城壁を見つめた。
あの白銀の怪異は何者だったのか。
自分に刻まれた証は何を意味するのか。
複製錬金という、この世界で自分にしか使えない異質な力。
その本質を突きつけられた恐怖は、いつしか、この世界の深淵を覗き見てみたいという狂おしいほどの好奇心へと変質していた。
心臓の鼓動が、包帯の下の紋章と共鳴するように速くなる。
逃れられない運命が、王都の巨大な門の向こうで口を開けて待っている。
辺境から始まったアドルの旅は、いま、世界の中心へとその舞台を移す。
第二幕:旅立ち編 ――[完]




