第92話:重心の在処
翌朝。
アドルの肉体は絶望的な悲鳴を上げていた。
寝返りを打とうとしただけで、全身の筋肉が千切れるような激痛が走り、思わず「あがっ……」と情けない声が漏れる。
カミラが持たせてくれた筋肉痛の塗り薬を全身に塗りたくったものの、皮膚の表面がひりつくばかりで、芯に残る重だるさは消えない。
「……おはよう、アドル。今日から素振りだけではなく、模擬戦……組み手も始めるぞ。よりいっそうきつくなるから、そのつもりでいろ」
テントの幕を跳ね上げて現れたガラハドは、そう言って冷酷に宣言した。
アドルが「組み手……?」と引きつった顔で聞き返すと、ガラハドは木剣の先をアドルの鼻先に向けた。
「昨日の素振りで、重心の感覚は僅かに掴んだはずだ。だが、動かない空気を相手にしているうちは、実戦では何の役にも立たん。相手の動き、殺気、それらを感じながら自分の体を思い通りに動かす。……今の君なら、一分持たずに泥を啜ることになるだろうがな。覚悟しろ」
その言葉通り、朝の訓練は修羅場と化した。
乾いた木剣の衝突音が静かな草原に響き渡る。
ガラハドは全く手加減こそしないが、致命傷は避けて的確にアドルの隙を突いてくる。
何度も地面に叩きつけられ、土を噛むアドルの視界は、苦痛と疲労で白く霞んだ。
「……はぁ、はぁ……っ、もう……」
「立て! 呼吸を整えろ! 意識が遠のく瞬間こそ、重心を失うな!」
ガラハドの喝が飛ぶ。
アドルは震える足で立ち上がり、再び木剣を構える。
昨日までの作業のような素振りと違い、一瞬の油断が死に直結する緊張感が、アドルの身体感覚を無理やり引き上げていく。
◇
数時間後、ボロボロになったアドルは、震える手でマグネ・スライダーの操縦席に座っていた。
全身の筋肉が痙攣し、レバーを握るだけで激痛が走る。操縦は困難を極めた。
シュルルルル……ガツンッ!
磁気のアンカーを打ち込む際の衝撃が、今の彼には岩を叩きつけられるような重荷だ。
アンカーの解除がわずかでも遅れれば、船体は猛烈に左右へ揺れ、金属のボディが悲鳴を上げる。
「ぐ、うぅ……集中しろ、俺……」
汗が目に入り、視界が滲む。
歯を食いしばり、必死に重心のバランスを保とうとするが、揺れるたびに筋肉が断裂するような激痛に襲われた。
そんな限界の状態にあるアドルの頭上から、鋭い鳴き声が降ってきた。
「クワァ!」
「……ピヨちゃん!」
空から舞い降りてきたのは、ルルが放った通信鷹だった。
ピヨちゃんは器用にスライダーの天面に降り立つと、首を傾げてアドルを覗き込む。
その脚につけられた筒には、新しい手紙と小さな袋が結ばれていた。
「……助かる」
手紙にはルルの丸っこい字で『カミラさんと一緒におやつを食べたなの! アドルさんのために、ピヨちゃんに干し肉を持たせたから、みんなで仲良く食べるのなの! 喧嘩はダメなのよ!』と書かれていた。同封されていたのは、カミラお手製の極上干し肉だ。
アドルはそれを一口噛み締め、口の中に広がる肉の旨味に、張り詰めていた心がわずかに解けるのを感じた。
◇
その夜、街道沿いの森の影で三人は野営を張った。
食事を終え、魔石ランプの淡い光の下で、ミーシャが昼間の探索中に拾い上げたという古びた紙片をテーブルに置いた。
「これ、見てくれる? 街道から少し外れた廃屋に落ちていたんだけど……昔、王都の北西にある禁忌の森を目指した冒険者の日記の断片みたい」
アドルとガラハドが顔を寄せる。
紙はボロボロで、半分以上が煤けて読めなくなっていた。
「……『真っ直ぐ歩いた……なのに……気づ……同じ……』。……あぁ、ここは掠れて読めないな。……『方向が……ずれ……。……た……着け、ない……』」
「方向をずらされる、か。……断片的な内容だが、妙な話だな」
アドルが呟くと、ガラハドが腕を組んで深く考え込んだ。
「禁忌の森……。そこにはお伽話のような噂がある。錬金術の祖と呼ばれる存在が隠れ住んでいるというな。当初は直接森へ向かおうと思っていたが、予定を変更しよう。この手記にある不可解な現象が真実なら、闇雲に突っ込んでも入り口で永遠に迷わされるだけだ」
「じゃあ、一度王都へ?」
「ああ。王都には歴史的な資料や、禁忌の森に関する古い文献が眠っている。まずは情報を集め、あの不可解な現象を突破する鍵を手に入れるのが先決だ。幸い、この鉄のソリのおかげで時間は十分にあるからな」
伝説の錬金術師に辿り着くためには、力だけではなく、知識も必要になる。
アドルは日記の断片を握りしめた。
その時だった。
ガサッ、と草むらが揺れる音がした。
ピヨちゃんが急に羽を逆立て、闇夜の向こうを睨みつける。
アドルがとっさに木剣に手をかけた瞬間、森の奥から、冷たく、不気味な魔力の波動が揺らめくように漂ってきた。
単なる魔物のものではない、何か意志を持ったような、重苦しい気配。
「……何だ、今の?」
アドルが囁くが、ガラハドは返事をしなかった。
ただ、無言で剣の柄に指をかけ、鋭い眼光で闇の深淵を見据えていた。




