第91話:断絶の洗礼
翌朝、夜明け前の凍てつくような冷気がテントの中に忍び込んできた。アドルが微かな寒さに身を震わせた瞬間、テントの入り口が容赦なく跳ね上げられた。
「起きろ、アドル。太陽が顔を出す前に、まずは己の心臓を叩き起こせ」
ガラハドの声は、昨日までの疲労困憊した様子とは打って変わり、鉄のような響きを湛えていた。
アドルは寝ぼけ眼をこすりながら、這い出るようにして外へ出た。
そこにはすでに上半身裸になり、大気を斬り裂くような鋭い素振りを行っているガラハドの姿があった。
「……本気、なんですね」
「当たり前だ。まずは街道沿いを三往復。その後、この木剣で私の影を踏んでみろ。一歩でも踏み込めたら朝食にしてやる」
アドルは絶望的な溜息をつきながら、重い足取りで走り出した。
錬金術師としての生活で、ある程度の体力はついた自負があったが、王国騎士団の指南役を務めた男の「基礎」は次元が違った。
◇
アドルが泥にまみれ、膝をついて荒い息を吐いている頃、ミーシャは一人、街道から少し離れた深い森の入り口に立っていた。
ルルやカミラがいない旅路の孤独を、彼女は今さらながらに実感していた。
「……よし。しんみりしてても始まらないわね。アドルさんのために、とっておきの素材を貯金しなきゃ」
ミーシャは杖を掲げ、索敵の魔法を展開した。
かつて師匠に叩き込まれた魔力探知。
森の奥深く、大気の流れが澱んでいる場所に、希少な魔力草や鉱石が眠っていることを彼女の感覚が捉える。
彼女は軽やかな足取りで森へ分け入った。
道中、何度か低ランクの魔物と遭遇したが、今のミーシャにとってそれは敵ですらなかった。
「サイクロン!」
鋭い突風が魔物を一瞬で弾き飛ばす。
彼女は一人の時間を、自らの魔法を研磨するための修行場として利用していた。
数時間後、彼女の異空間保存には、見たこともないほど澄んだ輝きを放つ魔力結晶と、良質な薬草が山のように積み上げられていた。
◇
夕刻。
アドルは文字通り指一本動かせない状態で地面に転がっていた。
「……どうだ、アドル。昨日まで自分が行っていた素振りが、いかに上っ面だけのものだったか理解できたか」
ガラハドが涼しい顔で木剣を収める。
アドルは返事をする代わりに、喉の奥からヒューヒューと掠れた音を漏らすのが精一杯だった。
「君の剣には『重み』がない。それは筋力の問題ではない。一振りに込める覚悟が、まだ道具を扱っている時のそれだ。……だが、最後の一撃。あれは悪くなかった」
ガラハドの言葉に、アドルの指先がぴくりと動いた。
何百、何千回と振るった末、意識が朦朧とする中で放った一振りに、わずかだが「手応え」があった。それは錬金術で素材を結合させる時のような、あるいは想像が現実になる瞬間のような、不思議な感覚だった。
「……今日は、飯の味が一段と濃そうだな」
アドルは朦朧とする意識の中で、森から戻ってきたミーシャの笑顔と、彼女が抱えている珍しい素材の山を見た。
王都まではあと数日。しかし、アドルにとっては、この一瞬一瞬が昨日までの自分との決別を強いる、長く険しい戦いとなっていた。




