第84話:生きたいという原動力
アドルは寝室のベッドに座り、枕元に置かれた古い木剣をじっと見つめていた。部屋にはガラハドが置いていった香木の、清涼感のある香りが満ちている。
その香りに導かれるように、アドルの意識は遠い記憶の底へと沈んでいった。
「ミーシャ、最初……この世界に降り立った時、ゴブリンいたよな」
ぽつりと漏らしたアドルの言葉に、隣に座っていたミーシャが顔を上げた。
「ええ、居ましたね。あの薄暗い森の中で」
「あの時は必死だったけど、なんとか頑張ってたよな」
「そうですね。あのアドルさんは本当にかっこよかったですよ。異世界に来て不安な私が、怖がったりしなくて済むように、常に先陣に立って私を導いてくれましたから」
ミーシャが懐かしむように目を細める。アドルはその言葉を反芻し、木剣を握る手にわずかに力を込めた。
「そんな大層なこと、してないよ。俺はただ……目の前の敵を倒して、生きていきたかっただけなんだ」
その瞬間、アドルの脳裏に閃光が走った。
黒犬への恐怖、敗北の屈辱、そんなものがすべて削ぎ落とされた先に残っていた、剥き出しの真実。
「そうか……俺は、ただ生きたかったんだ」
暗闇の中で見失っていた「核」を、アドルは今、自分の手の中に見出した。
香木の香りが強張っていた全身の力を抜き、木剣の温かみが彼を現実へと繋ぎ止める。
「……ちょっと、散歩にいってきてもいいか」
「え……もう夜遅いですし、やめておいた方が……?」
ミーシャが不安げに眉を寄せる。
あんなにパニックを起こしたばかりなのだ。
だが、アドルの瞳には、死んだ魚のような濁りではなく、確かな意志が宿り始めていた。
「今行きたいんだ。……一人じゃなくていいから」
「んー……」
ミーシャが迷っていると、背後の扉が開いた。そこには、心配で聞き耳を立てていたカミラが立っていた。
「私がついて行きますよ。ご主人様、いきたいんですよね?」
「あぁ、いきたい」
「なら、二人でいきましょ。ミーシャさん、私に任せておいてください」
カミラの力強い言葉に、ミーシャもようやく頷いた。
「わかりました、よろしくお願いします」
「さ、ご主人様。いきましょ」
◇
門の外に出ると、辺りは夜の帳に包まれていた。
街灯の少ない路地は少し気味が悪いくらいに静まり返っている。
カミラはアドルの隣を歩きながら、その様子を伺った。
「ご主人様、散歩したかったんですか?」
「あぁ、ちょっとな。外の空気を吸えば、何かが変わる気がして」
「ふふ、ご主人様がしたいことは、全部付き合いますからね。私がついていますから」
そんな何気ない会話をしながら歩いていると、前方の暗がりから、見るからに質の悪そうな二人組の男がふらふらと現れた。酒の匂いを漂わせたチンピラだ。
「おうおうおう、えらい気の抜けたにーちゃんが、超絶べっぴんさんを連れてるじゃねーかよ」
「っく、なんだこいつら……」
アドルの身体が反射的に強張る。脳裏を黒い影がかすめたが、カミラがアドルの前にそっと出た。
「無視していきましょ。関わるだけ時間の無駄ですわ」
しかし、チンピラの一人が嘲笑いながらカミラの腕を強引に掴み、自分の方へ引き寄せた。
「まぁまてよ、ねーちゃん。そんな冷たいこと言うなよ。俺たちと遊ぼうぜ」
「きゃああっ! 離して!」
「おおう、いい声で鳴くなぁ。おにいさん、興奮しちゃうな」
「……やめろ」
アドルの低い声が響いたが、男たちは鼻で笑った。
「何がやめろだ、弱そうななりして。けっ、このねーちゃんがどうなってもいいのか? ああ!?」
男は懐からナイフを抜き、カミラの白い首筋に突きつけた。
「アドルさん、私は大丈夫ですからね! 逃げてください!」
「何が大丈夫ですだ、シャーッ!」
苛立った男がナイフを振り、カミラの服の袖を切り刻んだ。鋭い刃先が彼女の柔らかな肌をかすめる。
「っ、やめてっ、変態っ、触らないで!」
「うへへ、いいじゃねーか。ちょっとくらい……」
その時、アドルの脳内に激しい電撃が走った。大切な人を傷つけられ、尊厳を汚される光景。
「やめろって言ってるのが聞こえないのか?」
アドルの声から感情が消えた。
黒犬への恐怖は、目の前の「大切なものを守らなければならない」という本能に塗りつぶされた。アドルは瞬時に間合いを詰め、手に持っていた木剣を振り抜いた。
「スマッシュ!!」
鈍い音と共に、男の腕に衝撃が走る。
「っ! なんなんだ、ただの木の剣だろ……!?」
「ダブルアタック!」
休まず放たれた二連撃。木剣とは思えない鋭いスイングが、男たちの鳩尾と膝を正確に捉えた。錬金術で身体強化を施しているわけでもないのに、アドルの身体は極限の集中状態でスキルを完璧に発動させていた。
「ぐぁっ……つええ……なんなんだこいつ、ずらかるぞ!」
予想外の反撃に恐れをなしたチンピラたちは、這々の体で夜の闇へと消えていった。
静寂が戻った路地で、カミラが涙を溜めた瞳でアドルにしがみついてきた。
「ご主人様……っ!」
アドルは木剣を下ろし、震えるカミラを優しく抱きしめた。その手には確かな実感が宿っていた。
「……怖い思いをさせて、すまなかったな」
「いえ、助けてくださって……ありがとうございます」
カミラが顔を上げ、至近距離でアドルを見つめる。街灯の僅かな光の下で、アドルの瞳を覗き込んだ彼女は、息を呑んだ。
(ご主人様の目が……輝いているように見える)
かつての、困難に立ち向かう勇気あるアドルの瞳がそこにはあった。カミラは吸い寄せられるように、そっと目を瞑った。
アドルは少し照れたように笑うと、カミラの頭を軽く引き寄せ、その頭を撫でた。
「ほら、屋敷に帰るぞ。夜は冷えるからな」
カミラは顔を真っ赤にして、幸せそうに頬を緩めた。
「……本当に、いじわるなご主人様です」
二人は寄り添いながら、ゆっくりと屋敷への道を歩き始めた。アドルの背中は、来た時よりもずっと大きく、頼もしく見えていた。




