第83話:希望の残り香
アドルが再び眠りについてから数時間が経過した。
カミラ、ミーシャ、ルルの三人は、リビングで力なく座り込んでいた。
「……アドルさんのあんな声、初めて聞いたわ」
ミーシャが、膝の上で組んだ手を震わせながら呟く。いつも冷静で、どんな窮地でも「何か手はないか」と前を向いていたアドルの、あの変わり果てた姿。
「トラウマ……というには、あまりに深い傷です。あの黒犬は、ただ戦いに勝っただけでなく、ご主人様の心そのものを踏み荒らしていきました」
カミラは悔しそうに唇を噛んだ。守るべき主人を、最も残酷な形で傷つけられた。その無力感が彼女を責め立てる。
◇
その時、屋敷の重い扉が静かにノックされた。
三人が顔を見合わせる。今の状況で訪ねてくる者など心当たりがなかったが、カミラが警戒しながらドアを開けると、そこには意外な人物が立っていた。
「……元気のない顔をしているな」
そこにいたのは、伝説の指南役、ガラハドだった。
「ガラハド様……!? どうしてこちらに」
ミーシャが驚いて立ち上がる。ガラハドは無言で室内に入ると、リビングの惨状と、奥の寝室から漏れ聞こえるアドルの不安定な呼吸音に目を向けた。
「少年の様子を見に来た。……やはり、相当ひどいようだな」
「ええ……。黒いものを見ただけでパニックを起こしてしまって。もう、外に出すことすらできません」
ミーシャが涙ぐみながら説明すると、ガラハドは一つ、小さな包みをテーブルに置いた。心を落ち着かせる効果がある特製の香木だ。それと、手入れの行き届いた一振りの木剣を置いた。
「もし、彼が以前のように心が戦える状態になったら、連絡してくれないか。力になれるかもしれない」
ガラハドのその言葉に、カミラとミーシャは一瞬顔を見合わせた。伝説の剣聖からの申し出は、本来なら願ってもないことだ。しかし、今の彼女たちの胸にあるのは、復讐でも勝利でもなかった。
「ガラハド様……助けていただいた上にここまでして頂いて、本当にありがとうございます。ですが……」
ミーシャが代表するように、静かに、けれど強い意志を込めて言葉を継いだ。
「もう、私たちはアドルさんを失いたくはありません。今のままでも、ただ生きていてくれるだけで、私たちには十分なんです」
復讐の旅も、錬金術師としての野心も、もういい。
ただ、かつてのように穏やかに笑ってくれる日々が戻るなら、剣など二度と握らなくていい。それが彼女たちの偽らざる本音だった。
ガラハドは目を細め、彼女たちの覚悟を確かめるように見つめた後、短く鼻を鳴らした。
「……まあ、それで本人がいいならいいがな。ではな」
ガラハドはそれ以上何も言わず、翻したマントの音だけを残して、夜の闇へと消えていった。
◇
ガラハドが去った後、三人はその香木を焚き、アドルの寝室に木剣を置いた。
数時間後、アドルが再び目を覚ます。やはり目は濁ったままで、ぼんやりと天井を見つめていた。
ふと、鼻先をくすぐる懐かしい森のような香りと、枕元に置かれた木剣に視線が止まる。
「……これは……」
アドルが震える手で木剣に触れた。黒犬のオーラのような禍々しさはない。ただの、乾燥した木の感触。
「アドルさん……それ、ガラハド様が持ってきてくれたのよ」
ミーシャがそっと声をかける。アドルは木剣を抱きしめるようにして、また瞳を閉じた。その頬を、一筋の涙が伝い落ちる。
「……怖いんだ。ミーシャ。……真っ暗で、何も見えないんだ」
「大丈夫、大丈夫よアドルさん。私たちが、ずっとそばにいるから」
ミーシャはアドルの背中をさすり続けた。
絶望の淵で、アドルは初めてその弱さをさらけ出した。完全な回復にはまだ遠いかもしれない。それでも、立ち止まったままの彼の時間に、わずかな「香りと感触」が変化をもたらそうとしていた。




