第82話:黒い影の残響
アドルがようやく目を開けたのは、三日目の昼下がりのことだった。
ずっと手を握り、その体温を確かめていたミーシャが、弾かれたように顔を上げた。
「……アドルさん!? 分かる? 私よ、ミーシャよ!」
アドルは焦点の定まらない目で天井を見つめていたが、やがてゆっくりと視線を動かし、隣にいるミーシャを捉えた。その横から、物音を聞きつけたカミラが急いで台所から駆け寄り、温め直したスープを差し出した。アドルは促されるまま、弱々しくそのスープを数口啜った。
「……味は、分かる。体も、動くみたいだ。記憶も……ああ、大丈夫だ。全部覚えているよ」
かすれた声でそう告げると、アドルはふと動きを止めた。そして、涙を流すミーシャと、安堵の表情を浮かべるカミラに、虚ろな視線を向けた。
「……黒犬は、倒したんだっけか」
「…………」
二人は何も答えず、ただ悲しげに視線を落とした。その沈黙が、アドルに冷酷な現実を突きつけた。
「……そうか。負けたのか、俺は」
その瞬間、アドルの目から光が完全に消えた。
瞳は濁り、まるで死んだ魚のような、生気の感じられない目へと変わってしまった。
突然、アドルはふらりとベッドから起き上がった。
おぼつかない足取りで、出口へと歩き始める。
「アドルさん、どこへ行くんですか? まだ休んでいないと危ないわ!」
ミーシャが慌てて問いかけるが、アドルは虚空を見つめたまま「ちょっとウロウロ……」とだけ答えた。
カミラは「起きたばかりなんですから、私たちがついていきますね」と言い、走ってアドルの隣に並んでその腕を支えた。しかし、アドルは腕を組まれても何の反応も示さず、ただ人形のように足を動かし続けた。
◇
外はいつもと変わらない、穏やかで静かな街並みが広がっていた。午後特有の柔らかい日差しが路地を照らしている。
前方から、一組の老夫婦が散歩をしてくるのが見えた。その傍らには、一匹の犬がいた。黒い毛並みの、小さな犬だ。
それを見た瞬間、アドルの表情が劇的に変貌した。
「う、ううわぁぁぁぁ! うわぁぁぁぁっ!!」
アドルは狂ったように叫び声を上げ、その場に蹲った。激しく全身を震わせ、耳を塞いで頭を抱えるその姿は、先ほどまでの無気力な様子とは正反対の、異常なまでの取り乱し方だった。
「ご主人様! 大丈夫、大丈夫です! 私がいますからね!」
カミラは必死にアドルを抱きしめ、老夫婦に会釈をしてから、無理やり彼の腕を引っ張るようにして屋敷へと連れ帰った。アドルは屋敷に戻るなり、糸が切れた人形のように、再びベッドで深い眠りに落ちてしまった。
◇
居間では、ミーシャとカミラ、そしてルルが肩を落として座り込んでいた。誰もが、今見たアドルの姿に大きな衝撃を受けていた。
「どうしよう……。体は治っていても、心に相当深い傷を負っているわ」
ミーシャが震える声で呟くと、カミラも沈痛な面持ちで頷いた。
「黒い犬を見ただけで、あんなに怯えるなんて。あの戦いが、ご主人様の中でどれほどの恐怖として刻まれてしまったのか……」
「当分は、屋敷から出さない方がいいかもしれないわね。無理に動かそうとすれば、また壊れてしまうわ」
三人は、二度とあのアドルの悲鳴を聞きたくないという思いで一致していた。
「しばらくは、ゆっくり休みましょう。ここで私たちが焦っても、アドルさんを追い詰めるだけだわ」
ルルも珍しく元気がなく、ただ小さく頷いた。
屋敷の中は静寂に包まれ、眠り続けるアドルの呼吸音だけが、虚しく響いていた。




