第81話:力の差
ついに、準決勝の舞台にアドルの名が呼ばれた。対峙する黒犬の刺客は、舞台に上がるなり、その身から立ち昇る禍々しい紫の魔圧をさらに膨らませた。
観客席の最前列では、カミラとミーシャが指が白くなるほどに拳を握りしめ、祈るようにアドルを見守っている。
「始めッ!!」
審判の鋭い合図が響き渡った。
「く、くく……くくくく……」
黒犬の喉から、震えるような不気味な笑い声が漏れる。
「フィア様に鍛えられ、セドル様にいただいたこの力。ふふふ、負ける気がしない。貴様のような出来損ないを嬲り殺すには、これ以上の舞台はないな」
アドルはその嘲笑を一切無視し、迷いなく先制攻撃を仕掛けた。昨夜、工房で出した答え。奇策も、複雑な罠も、あの圧倒的なオーラの前には無力かもしれない。ならば、やるべきことは一つだった。
「物量こそが、錬金術師の原点だ……!」
アドルはミーシャの異空間保存が届く限界の位置へ素早く移動すると、そこから間断なく武器を錬成し、投擲し始めた。投げ槍、長剣、バトルアックス、果ては鉄の礫。ミーシャのポケットから供給される素材を使い、エンドレスで飛び道具を投げ続ける。
「素人が。そんなものが届くと思っているのか」
黒犬は一歩も動かず、ただその身に纏う紫のオーラを揺らめかせた。飛来する無数の武器は、黒犬の体に触れることさえ許されず、すべて見えない壁に弾かれたように虚空で砕け散っていく。
「これほどとは……。見ていて想像はしていたが、全く勝てるビジョンが湧かないな」
一瞬の思考。しかし、その刹那にはもう、目の前に黒犬の顔があった。
「いっ、いつの間に……!?」
「どこを見ている」
黒犬は武器を抜くことさえせず、無造作に、しかし重戦車のような重みのこもったボディブローを一発、アドルの腹部にめり込ませた。
「ぐはぁっ……!!」
明らかに手加減されている。殺さぬよう、しかし最大限の苦痛を与えるための打撃。
アドルは血を吐きながらも、惜しみなく最高級の回復薬を使用した。ここから動くわけにはいかない。
一歩でもミーシャとの距離が離れれば、回復薬の調達すらままならなくなるからだ。
黒犬はニヤリと口角を吊り上げると、ふらつくアドルに再び同じ場所へ拳を浴びせた。
「ごふっ……かい、ふく……薬……!!」
アドルは間髪入れず薬を浴び、無理やり肉体を繋ぎ止める。しかし、黒犬の拳は徐々にその速度を上げ、禍々しいオーラはさらに密度を増していく。
「がはっ……かい……ふ」
「うっ……かい」
「ぁ……ぁ……か」
「もうやめて!もうやめてよ!……アドルさん! もういい、もういいよ!!」
ミーシャの必死の絶叫が闘技場に響き渡る。だが、その声はもう、半ば意識を失いかけているアドルには届いていない。アドルは殴られるたびに、本能だけで回復薬の瓶を砕き、その霧を吸い込み続けていた。
「全く、つまらんヤツだ。いつまでその安物の薬で粘るつもりだ?」
黒犬はさらに拳を早め、ついには片手で短剣を抜き放つと、止まったままのアドルを無慈悲に切り刻み始めた。観衆からは悲鳴が上がり、怒号が飛び交う。
「もうやめさせろ!!」
「審判、止めなさいよ!!」
しかし、審判は何故か視線を逸らし、時計を見るばかりで試合を止めようとしない。その様子に、カミラが顔を蒼白にしながら呟いた。
「まさか、審判も領主の関係者……!?」
「だめ、このままだとアドルさんが死んでしまう!!」
ミーシャが身を乗り出したとき、黒犬の刃がアドルの喉元へ向けられた。
「オラオラオラオラ!! 死ねぇ!!」
「死ね死ね死ね死ね死ねぇ!!」
「そこまでだ」
唐突に、戦闘領域内に巨大な影が割り込んだ。放たれた黒犬の短剣を、その影――ガラハドが素手で掴み、静止させていた。
「ちっ……邪魔が入ったか」
黒犬は忌々しげに舌打ちし、後ろへと大きく飛び退いた。それを見た審判は、慌てて黒犬の勝利を宣言した。
◇
「アドルさん!!!」
カミラとミーシャがなりふり構わず舞台へ駆け寄る。観客席ではルルが真っ青な顔で、声も出せずに震えていた。
「アドルさん! アドルさん! アドルさん!!うぅ
……アドル……さん!」
ミーシャは泣き叫びながら、異空間から取り出した回復薬を次から次へとアドルの体に投げつけ続ける。
「いやあああ! お願い、起きて、起きてよ……アドルさん!!」
「うぅ、、、アドルさん……アドルさん」
構わず回復薬を投げ続ける
「いやだよ……ねぇ……おきてよ……ねぇ」
「お願い……お願いだから……アドルさん……」
「お嬢さん……もう、よしなさい」
ガラハドがミーシャの手を優しく、しかし力強く止めた。
「うぅ……うううああああ!!」
「もうやめなさい。回復薬の無駄だ」
「アドルさん……」
カミラが泣きながら、血まみれのアドルを抱きしめる。
「早く外に連れ出しなさい。外傷はもうとっくに治っている。まったく、こんなに無駄に回復薬を使うやつがあるか。これだけの量、普通の人間なら薬毒で死んでいるぞ」
「えっ……?」
ミーシャは涙を拭い、落ち着いてアドルの胸に耳を当てた。そこからは、微かだが、確かに力強い鼓動が聞こえていた。
「あぁ……ああああ……よかった……」
「すみ……ません……すぐに退場します」
カミラとミーシャが肩を貸し、アドルはボロ雑巾のように引きずられながら、屋敷へと連れ帰られた。
◇
アドルが屋敷のベッドに寝かされてから、三日が経とうとしていた。部屋には、彼を心配そうに見守り続ける三人の姿があった。
「……あたしのせいなの。あたしが、やりたいならやれとか言ったからなの……」
ルルが俯き、震える声で自分を責め続けていた。
「カミラさんもミーシャちゃんも止めていたのに……なんてことなの。ごめんなさいなの。ごめんなさい……ごめんなさい……」
「ルル……あなたは悪くないわ。あなたは、アドルさんの意思を尊重しただけよ。止めきれなかった私たちが悪いの。だから、もう自分を責めないで」
カミラがルルを抱き寄せ、静かに言い聞かせる。しかし、その声も今は眠り続けるアドルには届かない。
「今はそっと寝かせてあげましょう。私たちは私たちのやるべきことをしましょう」
カミラは無理に表情を作り、二人を促して部屋を出た。リビングにどんよりとした空気が流れる中、三人は言葉を失っていた。
「こんな顔をしていてもアドルさんは喜ばないわ。元気になったときに備えて、私たちはいつも通り生活しましょう。魔力草を集めて、またいつでも回復薬を作れるように。フライドポテトだって、錬金術がなくても作れるんだから。モルガンさんのところへ持って行って、お金を稼いでおきましょう」
そう自分たちに言い聞かせるように、彼女たちは無理やり普段通りに振る舞い始めた。しかし、その三人の必死の願いも届かず、アドルの意識は戻らなかった。
さらに数日が過ぎた頃。ミーシャは独り、アドルのベッドの傍らに座っていた。
「ねぇ、外傷は治っているのよね……? なんで起きないの、アドルさん。このままだと、本当に餓死してしまうわよ……」
ミーシャが、祈るようにアドルの冷たい手を握りしめた。
そのときだった。アドルの指先が、微かに、ぴくりと動いたのを彼女の掌が捉えた。




