第80話:紫煙の怪物
闘技場の熱狂は、その男が舞台に上がった瞬間に霧散した。
第二ブロック準決勝。
黒犬の刺客と対峙した対戦相手は、王都でも名の知れた手練れの戦士だったはずだ。しかし、その戦士は一歩も動くことができず、ただガタガタと歯を鳴らして立ち尽くしていた。
観客席の片隅で、アドルは己の指先が冷たくなっているのに気づいた。舞台上の黒犬から放たれているのは、もはや魔力という言葉で片付けられるものではなかった。禍々しい、粘り気のある紫のオーラが、蜃気楼のように揺らめいて視認できるほどに濃密なのだ。
黒犬が指を一突きした。ただそれだけの動作で、大気を切り裂く衝撃波が走り、対戦相手は防具ごと胸を貫かれて吹き飛んだ。審判が慌てて制止に入るが、黒犬はその瞳に何の感情も宿さず、ただ死神のような静寂を纏って舞台を降りた。
アドルは、その光景を脳裏に焼き付けたまま、重い足取りで屋敷へと戻った。
◇
その夜、リビングの空気はお通夜のように沈み返っていた。グランツという強敵を倒し、第一ブロックを突破したはずの祝勝ムードは微塵もない。テーブルの上に並んだカミラの料理も、誰一人として手をつけられずにいた。
「……あいつは、今まで見てきた黒犬とは似て非なるものだった」
アドルが絞り出すように呟いた。声がわずかに震えているのを隠せなかった。
「あの紫のオーラ……あれは人の域を超えている。正直に言って、勝ち目があるのかさえ分からない。磁力も、氷も、あんな化け物に通用するとは思えないんだ」
カミラが心配そうにアドルの顔を覗き込み、意を決したように口を開いた。
「アドルさん、棄権も視野に入れましょう。あの黒犬は、別に勝ちにこだわっているようには見えません。殺生禁止のルールなど、彼には無意味でしょう。ドランさんの時のように、手段を選ばず貴方を殺しに来る可能性があります」
「私も、カミラさんに同意します」
ミーシャも顔を伏せたまま、震える声で続けた。
「今の私たちが持っている策は、今日の試合ですべて出し尽くした感があります。あの圧倒的な戦闘力を前に、どんな小細工を弄しても、一瞬で握りつぶされてしまう未来しか見えません。アドルさんを失いたくないんです」
二人の言葉は、冷徹なまでの正論だった。復讐のために命を捨てるのは、本末転倒だ。だが、アドルの胸の奥では、燻り続ける火が消えていなかった。
「……確かに、万策尽きている感はある。だが、せっかくここまで来たんだ。どこまでできるか、やってみたいんだ。ここで逃げたら、一生あいつの影に怯えて暮らすことになる気がする」
カミラもミーシャも、不安を隠せない顔で黙り込んだ。重苦しい沈黙が部屋を支配する。そんな中、一人だけポテトを口に運び続けていたルルが、あっけらかんとした声を上げた。
「アドルさん、やりたいのならやってみればいいとおもうなの!負けてもルルが助けてあげるし、アドルさんはアドルさんらしく戦えばいいのよ!」
そのあまりにも脳天気な、しかし真っ直ぐな言葉に、アドルの肩の力がふっと抜けた。
「……そうだな。ルルの言う通りだ。悩んでいても始まらない。ちょっと工房で考えてくるよ」
アドルは椅子から立ち上がり、一人工房へと向かった。
背後から聞こえるカミラたちの溜息を背に受けながら、アドルは工房の扉を閉めた。暗い室内で魔導ランプを灯し、机の上に広げられた素材の数々を見つめる。
一度見せた技は、もう通用しないと思ったほうがいい。磁力も、氷も、次は対策を練られているか、あるいは力技でねじ伏せられるだろう。あの紫の魔力を防ぎ、かつこちらの攻撃を通すにはどうすればいい。
しかし、考えても、考えても、新しい画期的なアイデアは浮かんでこなかった。想像錬金のイメージが、あの紫のオーラの恐怖に塗りつぶされていく。
「……奇策がダメなら、原点回帰で行くか」
アドルは、複製錬金のために用意していた予備の魔石や、大量の金属素材を手繰り寄せた。
質を凌駕する量。予測を許さないほどの圧倒的な物量。錬金術師にしかできない、泥臭い戦い方。
「一つが通じないなら、百、千と叩き込む。それが俺のやり方だ」
アドルは再びペンを握り、狂ったように設計図を書き換え始めた。深夜の工房に、金属を削る音と、アドルの荒い呼吸だけが響き続ける。
翌朝、東の空が白み始めた頃、アドルは目の下に隈を作りながらも、研ぎ澄まされた瞳で完成した魔道具の山を見つめていた。
いよいよ準決勝。死神との邂逅まで、あと数時間だった。




