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第8話:鋼の咆哮と、重なり合う閃光

森を包む霧はどこまでも深く、湿った沈黙が支配していた。数日間過ごしたあの洞窟という安息地を離れ、一歩ずつ踏みしめる土の感触は、ここがもはや引き返せない現実であることを改めて突きつけてくる。アドルは、複製を繰り返して完成させた槍を背負い、手に馴染んだ武器の重みを確かめた。全身に漲る力強さは、険しい藪を掻き分ける動作一つにさえ、澱みのない確信を与えている。

隣を歩くミーシャもまた、一歩ごとに周囲への警戒を怠らない。彼女の指先はいつでも魔法を放てるよう、微かな魔力の熱を帯びている。かつての繋がりから解き放たれ、この場所で新しい名を持って生きることを誓い合ったあの日から、彼女の佇まいには確かな覚悟が宿っていた。

「……街があるなら、この先よね」

「ああ。少なくとも、森の出口を指し示す空気の流れは感じている。……慎重にいこう。俺たちの力は、まだ完成されたものじゃないからな」

二人は、獣道とも呼べないような藪を強引に掻き分け、さらに深い森の奥へと足を踏み入れた。湿った土と腐葉土の匂いが混じり合い、時折、遠くで得体の知れない獣の咆哮が木霊する。アドルは絶えず【鑑定】を周囲に飛ばし、神経を極限まで尖らせていた。

静寂を切り裂いたのは、鋭い金属の擦れる音と、微かな、しかし切実な幼い叫び声だった。

アドルは即座に足を止め、茂みの隙間から前方を見据えた。そこには、目を疑うような光景が広がっていた。泥に汚れ、ボロボロの衣服を纏った少年が、刃の欠けた折れた剣を必死に構え、その背中にさらに幼い少女を庇って地面に這いつくばっている。

そして、彼らの眼前に立ち塞がっているのは、これまでの獣とは比較にならないほどの圧倒的な威圧感を放つ巨大な影。濁った褐色の肌、盛り上がった異形の筋肉、そして豚のような醜悪な面構えをした怪物――オークだった。

「ミーシャ、待て。まずは様子を見よう。あいつの動きを――」

アドルは冷静に状況を分析し、最適な介入のタイミングを計ろうとした。慎重に敵の隙を突き、確実に二人を救い出すための戦略。それを口にしようとしたアドルの言葉は、しかし、隣にいた彼女の激情によって遮られた。

「待って、あの子が危ないわ!」

ミーシャの瞳には、恐怖に目を見開いた少女の頭上に、オークの巨大な石の棍棒が振り上げられる瞬間が映っていた。アドルが彼女の制止を口にする暇もなく、ミーシャは茂みを飛び出し、広場へと躍り出ていた。

「やめなさいッ!!」

「ミーシャ! しまった……!」

アドルの制止を振り切り、ミーシャはオークの注意を惹きつけるべく、指先から火球を放った。パァン、と乾いた音を立てて火花がオークの胸元で弾ける。それは致命傷には程遠かったが、怪物の注意を兄妹から自分へと逸らすには、あまりに十分すぎる一撃だった。

「グォォォォォォッ!!」

鋼を打ち鳴らすような咆哮が森を震わせた。オークの濁った瞳がミーシャを捉え、怒りと共にその巨体が動き出す。

「逃げて、早く!!」

ミーシャが叫ぶが、腰を抜かした少年たちは動くことができない。オークが巨大な足を一歩踏み出し、岩のような石の棍棒を振り上げる。その圧倒的な破壊力の前に、無防備なミーシャと兄妹が晒された。アドルは全ての計算を捨て、地面を蹴った。最短距離を一直線に駆け抜け、ミーシャと兄妹の間に割って入る。

「下がれッ!! 君たちは俺の背中に隠れてろ!」

オークが振り下ろした石の棍棒。アドルは咄嗟に武器を構えたが、その巨躯から放たれる質量は想定を遥かに超えていた。

「が、はっ……!」

まともに受け止めることは不可能だった。アドルは自らの肉体を盾にし、背後の三人を庇うようにしてその一撃を全身で受け止めた。鈍い音が響き、視界が真っ赤に染まる。骨が軋み、肺の空気がすべて押し出されるような強烈な衝撃。アドルの身体が地面に叩きつけられ、口の端から鮮血が漏れる。

「アドル!!」

ミーシャの悲鳴のような叫び。アドルは意識が遠のきかけるのを、奥歯が砕けんばかりの噛み締めによって繋ぎ止めた。オークは、一撃で仕留めきれなかった獲物を嘲笑うかのように、再び棍棒を高く持ち上げた。

(……クソ、このままじゃ……。今の武器の振り方じゃ、ただ弾かれるだけだ……!)

死の淵に立たされた極限状態。アドルの脳裏で、これまでの素振りと、オークの攻撃の軌道が重なり合った。ただ力を込めるのではない。身体の芯から生み出された衝撃を、一瞬に凝縮して叩きつける「理」を閃いた。

(……これだ。衝撃を、逃がさずに叩き込む……!)

その瞬間、アドルの視界に無機質な文字が浮かび上がる。

『スキル:スマッシュを獲得しました』

アドルは激痛を無視して、地を這うような姿勢から一気に踏み込んだ。振り下ろされるオークの棍棒に対し、新しく得た技術を乗せた一撃を真正面からぶつける。

ドォォォォォンッ!!

空気が震え、激しい衝撃波が周囲を薙いだ。ただの武器の衝突ではない。アドルの放った【スマッシュ】が、オークの怪力と互角に渡り合ったのだ。弾き飛ばされたのはアドルではなく、オークの巨大な腕だった。

「……っ、これなら戦える……!」

スマッシュの獲得により、戦況は一変した。圧倒的な格上だった怪物の暴力に対し、アドルは今、対等な「五分五分」の領域にまで辿り着いたのだ。アドルは次々と放たれるオークの猛攻をスマッシュを伴う一撃で受け流し、あるいは押し返し、その巨躯を翻弄し始める。

しかし、アドルは冷静だった。五分五分に持ち込んだとはいえ、負傷している自分の体力が先に尽きれば、待っているのは全滅だ。今の自分たちには、この膠着状態を一気に終わらせる決定的な火力が欠けていた。

(ジリ貧だ……。このままじゃスタミナが持たない。火力を上げるにはどうすればいい……?)

アドルの脳内が加速する。単なる槍の投擲では、奴の分厚い筋肉を貫ききれない。ミーシャの火球も、表面を焦がすのが精一杯だ。だが、もし――。

(……もし、ミーシャが放つ炎を纏った槍に、俺の【スマッシュ】の衝撃を同時に着弾させられたら? 槍の貫通力と、衝撃波による内部破壊、そして炎の熱量を一点に爆発させる……。その全てが噛み合えば、あいつの防御を突き破れるはずだ!)

妄想に近いその仮説。しかし、アドルには確信があった。今の阿吽の呼吸なら、それができると。

「ミーシャ、俺に合わせろ!! 槍を出して魔法を纏わせるんだ!」

「えっ……でも!」

「いいから、やれ!! 俺を信じろ!」

アドルの咆哮に応え、ミーシャは必死に手を伸ばした。彼女の【異空間保存】から一本の投槍が飛び出し、それと同時に彼女の最大出力の火球が槍の穂先に激しく纏わりつく。アドルはその槍の柄を、空中でひったくるように掴んだ。

槍が手から離れるその刹那。

アドルは自らの右腕にスマッシュの衝撃を最大まで集束させ、投擲の動作に叩き込んだ。

「……行けええええええッ!!」

【プチファイアスローランススマッシュ】

轟音と共に、炎を纏った槍が超高速の旋回を伴って放たれた。それは単なる投擲ではない。アドルの放った爆発的な一撃の威力が、ミーシャの炎の槍に完全に上乗せされた、二人の魂の連携技だった。

一発目がオークの胸の中央を正確に穿ち、その巨体を大きくのけぞらせる。

「ミーシャ、もう一度だ!」

「はい……!」

阿吽の呼吸で放たれた二度目の連携技が、オークの脳天を正確に捉えた。

今度こそ、その巨躯は沈黙し、地響きを立ててその場に伏した。

沈黙。

荒い呼吸だけが響く中、オークの死体が光の粒子となって消え、地面に一つの物品が残された。

「……これ、ドロップ品か。ゴブリンの時とは、格が違うな」

アドルが拾い上げたのは、重厚で頑丈そうな**『木の盾』**だった。あの時のボロボロなこんぼう以来となる、確かな戦利品。これを「所有」すれば、自分たちの防御力は劇的に向上するはずだ。アドルはそれを【異空間保存】へ送り、レシピを脳内に刻んだ。

「アドルさん、大丈夫ですか!?」

駆け寄るミーシャ。その後ろには、呆然と二人を見つめる少年と少女がいた。

「助かった……のか?」

少年が震える声で尋ねる。アドルは激痛を堪えながら、少しだけおどけて笑い、彼らに声をかけた。

「ああ。もう大丈夫だ。……怪我はないか、少年、少女」

アドルがそう声をかけると、二人は堪えきれずに泣き出した。極限の恐怖から解放された安堵の涙が、汚れきった頬を伝い落ちる。

「ありがとう……! 僕はレオン、こっちは妹のリナ。助けてくれて、本当にありがとう……!」

自己紹介を聞きながら、アドルは言葉が通じる喜びと、死線を越えた大勝利の余韻に浸った。

「村まで案内してくれるか? 俺たちは旅の者でね、行くあてを探していたんだ」

「うん! 僕たちの村はすぐそこだよ。父さんに、英雄が助けてくれたって報告しなきゃ!」

泥にまみれ、傷だらけの大勝利。

アドルとミーシャはレオンとリナの小さな手に導かれ、ついに異世界の「社会」へと、その一歩を踏み出した。

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