第79話:磁極の万力
ガギンッ、と鼓膜を突き破るような硬質な衝突音が闘技場に鳴り響いた。
グランツの漆黒の鎧が、突如として出現した巨大な金属壁、マグネットウォール・Sに吸い寄せられ、背中から叩きつけられたのだ。十字架に張り付けられたかのような無様な格好で固定された総帥の姿に、観衆は一瞬、何が起きたのか理解できず静まり返った。
「……くっ、磁力か。小癪な真似を」
壁に背後を預けたまま、グランツが忌々しげに吐き捨てる。しかし、彼の瞳に焦燥の色はなかった。むしろ、動けない自分を前にして満身創痍で立っているアドルを、冷笑するかのように見下ろした。
「だが、これでお前の勝ちは無い。貴様の貧弱な火力では、この重装甲を抜くことはできん。動けぬ俺を殴り続け、先に根を上げるのは貴様の方だ。時間の無駄だと思わんか?」
グランツの言うことは正論だった。
アドルの手にある刃こぼれした二刀では、どれだけ時間をかけても、この黒鉄の城塞を崩すことはできない。
アドルは肩で息をしながら、血に汚れた口角をわずかに上げた。その瞳は、諦めるどころか、獲物を罠の深淵へと誘い込んだ狩人のそれだった。
「……Sって、なんだか知っているか?」
「何をくだらないことを。負け惜しみか」
「いいだろう、見せてやる。これは二枚揃って、初めて機能する壁なんだ」
アドルは震える手を伸ばし、すぐ背後の観客席に座るミーシャへと掌を向けた。十メートル。この極限の距離で、二人の意識が再びリンクする。ミーシャの異空間保存から、昨晩のうちに仕込んでおいた大量の砂鉄と魔力触媒が、アドルの錬成陣へと吸い込まれていく。
「まさか……アドルさん、そんな手を!」
ミーシャが息を呑む。彼女だけは、アドルが描こうとしている残酷なまでの方程式を理解した。
「いけ! マグネットウォール、『N』!!」
アドルの咆哮と共に、グランツの体のわずか数センチ前方、視界を遮るようにしてもう一枚の巨大な金属壁が具現化した。
「何がエヌだ。こんなものを前に置いて、一体どうするつもりだ」
グランツが嘲笑を浮かべた瞬間、異変が起きた。壁の隙間に挟まれた空気が、凄まじい圧力で押し出され、ヒュオッという不気味な風切り音を立てた。
「何だ……何が起きている? なぜ、俺の身体が前に進んでいく……!?」
マグネットウォール・SとN。極性の異なる二枚の巨大な磁石の壁。それらは互いに抗いようのない力で引き寄せ合い、その「中心」にあるグランツを、文字通りサンドイッチのように押し潰そうとしていた。
凄まじい磁力に引き寄せられ、前方にあるエヌの壁が、グランツの胸板に鈍い音を立てて激突した。
「う、うおぉぉぉぉぉぉぉぉっ!!」
逃げ場はない。背後の壁と前方の壁が、人知を超えた圧力でグランツを締め上げる。メキメキ、と強固なフルプレートメイルが歪み、ひしゃげていく音が会場全体に響き渡った。
「一体……一体これは……ぐはっ……なんなんだ!」
さらに圧力は強まり、壁同士が互いを求め合うように距離を縮めていく。グランツの身体は万力にかけられたかのように圧縮され、装甲の隙間から鮮血が噴き出した。
「ぐがぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!」
「グランツ、降参しろ! お前に勝ち目はもうない。このまま壁が密着すれば、中身ごと潰れるぞ!」
アドルの叫びが響くが、グランツは血反吐を吐きながらも、その誇りが降参を拒んでいた。しかし、物理法則という名の絶望は、精神論ではどうにもならない。体中の骨が軋み、内臓が圧迫され、グランツの意識は急速に闇へと引きずり込まれていく。
「ぬ、ぬぐぐぐ……ぐ、ががががが……がっ……」
「グランツ、死ぬぞ! 早く降参を!」
アドルが必死に呼びかけるが、グランツの頭が力なく垂れた。白目を剥き、その巨体から完全に意識が消失したことをアドルは確信した。
「……っ。錬成解除!」
アドルが指を鳴らすと、二枚の壁は光の粒子となって霧散した。
支えを失ったグランツの巨体が、ぐにゃりと折れ曲がるようにして地面に崩れ落ちた。黒鉄の鎧はひどく歪み、もはや立ち上がることすら不可能なのは明白だった。
「……審判、早く判定を。死なせたくない」
アドルの掠れた声に、呆然と立ち尽くしていた審判がようやく我に返った。審判は恐る恐るグランツの脈を確認し、それからアドルの腕を高く掲げた。
「勝者、アドル!!」
静まり返っていた闘技場が、一瞬遅れて爆発的な驚愕と歓声に包まれた。アドルは勝利の喜びを感じる余裕もなく、震える手で懐から青い液体の入った小瓶を取り出した。
「……これを使え。回復薬Bだ」
アドルは気絶したグランツの鎧の隙間に向けて、小瓶を投げつけた。パリンと砕けた瓶から霧状の薬液が溢れ、グランツの傷を癒していく。
「……ぅ、ぅぅ……」
数分後、微かに意識を取り戻したグランツが、血混じりの溜息と共に掠れた声を漏らした。
「……なんとか、一命は取り留めているようだ。……なんて、人外な技を使いやがる。……こんな、姑息な手を……ゲホッ、ゲホッ」
「まだ完全じゃない。すぐに医務室へ運んでやれ。……俺の剣じゃお前の鎧を抜けないから、こうするしかなかったんだ」
アドルはそう言って、自らも膝を突きそうになるのを必死で耐えた。グランツはメイスを杖代わりにして、ひどく歪んだ鎧を鳴らしながら、自力で立ち上がろうとした。その瞳からは先ほどの傲慢さは消え、得体の知れない錬金術師に対する畏怖の色が混じっていた。
こうして、誰もが領主軍の圧勝を信じて疑わなかった第一ブロック決勝は、血と鉄の匂いの中で、アドルの劇的な勝利で幕を閉じた。




