第77話:予期せぬ休息
ニナが屈辱にまみれ、観客の嘲笑を背に受けながら闘技場の地下通路へと逃げ込んだ時、その怒りは沸点を超えていた。肩を激しく上下させ、焼け焦げたローブを握りしめる彼女の前に、巨大な影が立ち塞がる。
そこにいたのは、第三回戦でアドルと対戦する鉄腕のヒューゴだ。彼は巨体を揺らし、通路の壁を乱暴に叩きながら下卑た笑い声を上げた。
「無様な負け方をしたな、ニナ。はっはっはっ!あの錬金術師に手も足も出ないとは、領主様の刺客も焼きが回ったものだ」
ヒューゴの容赦ない嘲笑が、狭く湿った通路に反響する。ニナは足を止め、俯いたまま震える声で答えた。
「……ちっ、なんなの。喧嘩売ってるの?」
「喧嘩? 冗談を言うな。お前ごときでは相手にもならん。俺ならあの程度の氷、自慢の鉄腕で粉砕してあのガキをひねり潰してやるところだ。まあ、お前はその程度の器だったということだ。はっはっはっ!」
ヒューゴが再び大笑いしながら、肩をぶつけるようにして通り過ぎようとした、その瞬間だった。
ニナの瞳から光が消え、どろりとしたどす黒い殺気が溢れ出した。
「迅速剣……!」
ヒューゴが反応する暇もなかった。ニナは腰の曲刀を抜くのではなく、鞘に収めたままの得物、そして己の拳と足を、目にも留まらぬ速度で叩き込み始めた。
「お、おい、やめ……がはっ!」
鈍い打撃音が連続して響く。ニナは狂ったような形相で、自分より二回りも大きなヒューゴを一方的に痛めつけた。急所を的確に、かつ最も痛みを感じる場所を選んで、彼女は鬱憤のすべてをヒューゴに叩きつけた。
数分後、そこには見るも無惨な姿で転がっているヒューゴの姿があった。骨は数箇所が折れ、顔面は原型を留めないほどに腫れ上がっている。一命こそ取り留めていたが、とても明日の試合に出られる状態ではない。
ニナは乱れた髪を乱暴にかき上げると、虫の息のヒューゴを見下ろして冷たく吐き捨てた。
「あんたが悪いのよ。今は虫の居所が悪いの」
彼女はそのまま、倒れたヒューゴを一度も振り返ることなく、闇の中へと消えていった。
その直後、闘技場内に困惑したようなアナウンスが流れた。
「緊急事態によりお知らせいたします。第一ブロック、第三回戦。鉄腕のヒューゴ選手は不慮の負傷により棄権となりました。従いまして、アドル選手の不戦勝が決定いたしました!」
観客席からどよめきが上がる中、控え室にいたアドルは呆然とその放送を聞いていた。戦わずしてブロック決勝への進出が決まったのだ。次戦は翌日、相手は予定通り領主軍総帥、グランツとなる。
その日の夕刻。アドルたちは屋敷に戻り、居間の大きなテーブルを囲んでいた。カミラが用意した豪華な夕食を前に、ようやく一同に安堵の表情が戻る。
「まさか不戦勝なんて。アドルさん、運が良すぎますよ」
ミーシャが温かいスープを口に運びながら、少し呆れたように笑った。
「運がいいのか、それともニナがあの男をボコボコにしたのが真相なのか……。通路に倒れていたヒューゴを見た衛兵の話では、犯人は特定できていないらしいけど、状況的に見て彼女だろうな」
アドルが苦笑いしながら答えると、ルルが横から山盛りのポテトを頬張りながら、元気よく声を上げた。
「でも、アドルさんの氷の作戦はすごかったのよ!あんなにツルツル滑って、ニナって子、最後は怒りで顔が真っ赤だったのよ!」
「ええ、私も驚きました。異空間保存を利用した質量錬成。アドル様ならではの、錬金術師らしい戦い方でしたわ。でも、おかげで私の職場での肩身が少し狭くなりましたけれど。領主様、本当に不機嫌そうでしたから」
カミラが困ったように笑いながらも、どこか誇らしげに目を細めた。
「それは申し訳ないな。でも、あいつにはあれくらいやらないと気が済まなかったんだ。ニナの速さを封じるには、地面ごと変えてしまうのが一番確実だと思ったからな」
アドルはそう言って、ミーシャに向き直った。
「ミーシャ、本当にありがとう。君の協力がなかったら、あんなにスムーズに氷を敷き詰めることはできなかった」
「もちろんです。アドルさんのスキルなんですから、どんどん使ってください。でも、不戦勝で体力が温存できたのは大きいですね。明日の相手は領主軍総帥グランツ……これまでの相手とは格が違うはずですから」
ミーシャの言葉に、食卓の空気がわずかに引き締まる。グランツは、かつて師匠であるドランを追い詰めた組織とも関わりがあると言われている男だ。
「ああ。グランツには氷の罠も、投げつけた剣の拡散も、もう通用しないかもしれない。あいつはもっと根本的な……圧倒的な力でねじ伏せてくるタイプだ」
「アドルさん、また何か企んでる顔してますね?」
「まあな。ミーシャの異空間には、まだいくつか仕込みをしておきたい。……明日は、俺たちの力を全部ぶつけるぞ」
談笑の輪が広がる中、アドルの胸中には静かな闘志が宿っていた。ポテトの香りと仲間の笑い声。かつて失いかけたこの穏やかな時間を守るために、自分は明日、領主の懐刀を叩き折る。
「さあ、明日は決戦だ。たっぷり食べて、しっかり寝よう」
アドルの言葉に、全員が力強く頷いた。屋敷の灯りは夜更けまで温かく灯り続け、明日の嵐の前の一時を静かに見守っていた。




