第75話:氷の秘策と、絆のインベントリ
闘技場の熱狂が嘘のように静まり返った深夜。アドルの工房には、魔導ランプの淡い光だけが灯っていた。机の上には分解された罠の部品や、数振りの剣が乱雑に並んでいる。
アドルは一度深く息を吐き、扉の方を向いた。控えめなノックの音が響き、その主が中へと入ってくる。
「アドルさん、こんな夜更けにどうしたんですか?」
入ってきたのはミーシャだった。彼女もまた、昼間の戦いの疲れがあるはずだが、アドルのただならぬ気配を察してか、その瞳には心配の色が浮かんでいる。
「……ミーシャ、わざわざ済まない。ちょっと、聞いてくれないか」
アドルは椅子に深く腰掛け、組んだ指を見つめた。その指先には、昼間の戦闘でついた細かな傷が刻まれている。
「やはり、どれだけ考えても……まともに戦えば、勝てる気がしないんだ。次の相手、あのニナという少女もそうだが、その先にいる連中も含めてな」
アドルの言葉には、実力差を冷静に分析したゆえの重みがあった。一回戦でミーシャと死力を尽くしたからこそ、今の自分に足りないものが、より鮮明に見えてしまっていた。
そんなアドルの弱気な言葉を聞いて、ミーシャは一歩歩み寄り、優しく微笑んだ。
「アドルさん……。無理をしなくてもいいんですよ? 武道大会なんて、あくまでお祭りみたいなものなんですから。気楽にやっていいと思います。万が一、大怪我をしたりしたら、元も子もないですよ?」
「……ああ、わかっている。そうなんだが……」
「命を懸けてまで勝たなければいけない場所ではありません。私は、アドルさんが無事でいてくれるのが一番嬉しいんです」
ミーシャの言葉は本心だった。彼女にとってアドルは、復讐の協力者である以上に、かけがえのない大切な存在だ。
しかし、アドルはゆっくりと頭を振った。
「……やれるだけ、やってみたいんだ。ただ負けるのは、ドラン師匠にも、俺を信じてくれているお前たちにも顔向けができない。だから、一つ提案があるんだ」
アドルは顔を上げ、ミーシャの瞳を真っ直ぐに見据えた。
「二回戦以降、ミーシャが観客席にいる状態で、俺がそっちの『異空間保存』を使ってもいいか」
ミーシャは一瞬、きょとんとした顔をしたが、すぐに事の意味を理解した。アドルには、一定の距離内であればミーシャのインベントリから中身を自在に引き出せる能力がある。
「いいんじゃないですか? それがアドルさんのスキルでもあるんですから! もちろん、私は構いませんよ」
「いいのか? ……だが、範囲は十メートルだ。戦場の端っこに来た時くらいしか届かないと思う。観客席の位置によっては、かなり限定的な場所でしか使えない」
「そうですね。でも、使える場所があるだけで戦略は大きく変わります。……でもアドルさん、なんだか元気がないですね?」
ミーシャが覗き込むように顔を寄せると、アドルは少しバツが悪そうに視線を逸らした。
「……なんだか、卑怯なことをしている気分になるなと思ってな。正々堂々と戦うべき舞台で、外にいる仲間の持ち物を使って戦うなんて」
その言葉を聞いた瞬間、ミーシャは「ぷっ」と吹き出し、それから楽しそうに笑った。
「ふふっ、アドルさん、何を言ってるんですか。こんな大会のカードを決める時点で、もう向こうから卑怯なことをされてるじゃないですか。領主軍が有利になるように組まれた、仕組まれた盤上なんですよ?」
「それは……確かにそうだが」
「禁止事項にもなっていないのですから、ご自分のスキルだと思って最大限に私を利用してください。心の中で、私も一緒に戦うんですから! 一人で戦っているなんて思わないでくださいね」
ミーシャの力強い言葉に、アドルの胸のつかえが少しずつ溶けていく。彼女の言う通りだ。ルールが歪められているのなら、こちらも持てる力の全てを使い、その歪みを突くしかない。
「ミーシャ、ありがとう。……覚悟ができたよ。どんな手を使ってでも、全力を尽くすよ」
「その意気です! それでこそ、私が見込んだアドルさんです」
ミーシャが拳を小さく握って応援すると、アドルもようやく口元を緩めた。そして、真剣な表情に戻って言葉を続けた。
「なら、ミーシャ。一つお願いがあるんだ。準備しておきたいものがある」
「なんですか? 何でも言ってください」
「君の異空間に、氷を大量に入れておきたいんだ」
「氷……ですか? 飲み物を冷やすわけじゃありませんよね」
ミーシャが不思議そうに首を傾げる。アドルは頷き、手近な紙に図面を引き始めた。
「ああ。俺の能力なら氷は簡単に複製できる。質量の確保が目的なんだ。冷やすためじゃなく、物理的な質量としてな」
「はい、全然構いませんが……。アドルさん、なにかを企んでいる顔をしてますね?」
ミーシャはアドルの表情を見て、いたずらが成功した子供のような危うさと、絶対的な自信を感じ取った。
「楽しみにしておきますね、ふふ。氷で一体何をするのか」
「ああ、うまくいけば、あの双剣使いの機動力はゼロにできるはずだ。それと、俺が投げつけた剣をいくつか入れておいてくれ。それから特殊なワイヤーも……」
アドルは次々とミーシャのインベントリへ入れるべきアイテムを指示していった。
錬金術師の想像力と、空間魔法の利便性が組み合わさった時、それはもはや一人の戦士の枠を超えた「戦術」へと昇華される。
「よし、これで準備万端だ。……ミーシャ、明日は頼むぞ」
「はい! 特等席で、アドルさんの大逆転劇を応援していますね」
深夜の工房。二人の影がランプの光で長く伸び、重なり合う。
明日、その舞台で何が起きるのか。領主の思惑を、そして最強の刺客たちを驚愕させるための仕掛けは、今、静かに完成の時を迎えた。
アドルは机の上の図面を丸め、窓の外の暗闇を見つめた。
そこには、もう迷いはなかった。




