第74話:勝者の重圧
闘技場を包んでいた爆発的な歓声が、遠い砂嵐の音のように耳の奥で鳴り響いていた。
アドルは舞台を降り、地下へと続く薄暗い通路を歩きながら、ようやく自分の右手が激しく震えていることに気づいた。
それは勝利の余韻ではなく、極限の集中から解き放たれた反動と、ミーシャという最大の理解者を自らの手で退けたという、言いようのない重圧だった。
「……アドルさん。そんなに怖い顔をしないで。私は大丈夫ですから」
隣を歩くミーシャが、煤けたローブの裾を払いながら穏やかに微笑んだ。
彼女の魔力は底を突きかけており、歩調もどこか危うい。それでも彼女は、勝者であるアドルの心を慮ることを忘れなかった。
「……ああ、悪い。ただ、あの『ゼロ・イージス』がなかったら、負けていたのは俺の方だ。ミーシャ、お前は本当に強くなった」
「ふふ、最高の褒め言葉ですね。でも、次は負けませんから」
二人が控え室の重い木扉を開けると、そこには祈るように手を組んでいたルルと、安堵の溜息を吐くカミラが待っていた。
「アドルさん、ミーシャちゃん! おかえりなの! 凄かった、凄かったなの!」
ルルが二人の腰に抱きつくようにして飛び込んでくる。その背後で、カミラが濡れたタオルを差し出しながら、困ったような、けれど慈愛に満ちた笑みを浮かべていた。
「本当にお二人とも……。あんな無茶な戦い方をして、怪我がなくて何よりです。ご主人様、あの漆黒の盾……あれが昨夜の秘密兵器だったのですね?」
「ああ。空間そのものを中和する使い捨ての術具だ。……一度きりの奇策だがな」
アドルはタオルで顔を拭い、椅子に深く腰掛けた。
一息つく暇もなく、壁に設置された魔導モニターが、次の試合の開始を告げた。
残虐のパレード
モニターに映し出されたのは、第1ブロック・第2試合。
『重甲のボリス』対『双剣のニナ』
ボリスは元Aランク冒険者で、全身を分厚いプレートメイルで固めた巨漢だ。対するニナは、踊り子を思わせる軽装の少女。一見すればボリスの圧勝に思えるカードだった。
しかし、試合が始まった直後、控え室の空気は凍りついた。
「……っ、何よ、あの動き」
ミーシャが息を呑む。
ニナの動きは「速い」という言葉では形容しきれなかった。
彼女は二振りの曲刀を手に、まるで重力から解き放たれたかのようにボリスの巨体の周りを舞い、隙間という隙間に刃を滑り込ませていく。
ボリスが咆哮を上げ、大斧を振り回すが、その刃がニナの肌を掠めることさえない。
ニナは笑っていた。
楽しみを隠しきれないというように、頬を紅潮させ、ボリスの装甲を一枚ずつ剥ぎ取っていく。
それは勝利のための攻撃ではなく、解体を楽しむ狂気の所業に見えた。
「降参……っ、降参だぁぁ!!」
ボリスが血まみれになりながら膝を突いたが、ニナの刃は止まらない。
審判が割って入る寸前、彼女はボリスの肩の肉を薄く削ぎ落とし、ようやく満足げに剣を収めた。
『勝者、双剣のニナ!!』
観衆の歓声には、先ほどのアドルの試合の時とは違う、恐怖が混じっていた。
「……あいつが、俺の次の相手か」
アドルは冷や汗が背中を伝うのを感じた。
ニナの戦い方には、一切の迷いがない。そして何より、あの身のこなしは常人の鍛錬で得られるものではない。
「……ご主人様。彼女の背後、黒い紋章が見えましたわ。……おそらく、領主直属の暗殺部隊に繋がっているはずです」
カミラが鋭い指摘をする。
領主ヴァルゴス。彼はやはり、自らの手駒を使ってこの大会を完全にコントロールしようとしている。
「少年。一つ、忠告しておこうか」
不意に、控え室の入り口から声が響いた。
振り返ると、そこには元指南役のガラハドが立っていた。彼は自らの試合を待つ間、アドルの様子を見に来たようだった。
「ガラハド殿……。俺の戦い、見ていたんですか?」
「ああ。面白いものを見せてもらった。錬金術で空間を中和するなど、王都の魔導師でもそうは思いつかん。……だが、少年。道具に頼りすぎるな」
ガラハドの鋭い眼光が、アドルの腰にある二刀を射抜く。
「お主の二刀流、型は悪くない。だが、そこに『心』が乗っていない。先ほどの少女……ニナと言ったか。あやつは、己の獲物を己の肉体の一部として使いこなしている。対して、お主はまだ剣を『道具』として扱っている」
「道具として……?」
「そうだ。錬金術師としての準備は否定せん。だが、二回戦以降、お主が対峙するのは『道具』の通用しない怪物どもだ。……自分の剣が折れた時、何で戦うか。それを今のうちに考えておくことだな」
ガラハドはそれだけ言い残すと、背中を向けて去っていった。
彼の放つ重厚なプレッシャーは、アドルの勝利を完全に霞ませるほどに強大だった。
ガラハドが去った後、闘技場からは再び異様な静寂が訪れた。
続いて始まった第2ブロック。そこには、あの暗殺者――黒犬の男が登場していた。
彼の試合は、もはや試合ですらなかった。
対戦相手である竜血のドレイクは、黒犬の男が指を一本動かした瞬間に、全身から血を噴き出して倒れ伏した。
何が起きたのか、観客にも、そしてアドルにも理解できなかった。
「……見えなかった。魔法の形跡も、物理的な接触も」
ミーシャの声が震えている。
黒犬の男は、倒れた相手を一瞥だにせず、ただ無機質な瞳で観客席の上部――ヴァルゴスの座る貴賓席を見上げた。
ヴァルゴスは満足げにワインを傾け、小さく頷いている。
アドルは拳を握りしめた。
この大会は、初めから仕組まれた見世物小屋だ。
アドルやミーシャは、その中で踊らされる道化に過ぎない。
だが、道化なら道化なりに、舞台を台無しにする方法はある。
「カミラ、ルル、ミーシャ。……二回戦までに、さらに装備を調整する。ニナの速さを封じ、黒犬の正体を暴くための『準備』をな」
「アドルさん……また無理をするつもりなの?」
ルルが心配そうに顔を覗き込む。
「無理じゃない。これが俺の、錬金術師としての戦い方だ」
アドルは再び工房の図面を思い浮かべ、思考を加速させた。
ガラハドの忠告は胸に刻んだ。だが、今の自分にできることは、自らの長所をどこまでも研ぎ澄ませることだ。
その日の全試合が終わり、屋敷に戻った一行。
勝利の祝杯をあげる空気はどこにもなかった。
リビングのテーブルには、カミラがまとめた対戦相手のデータが並べられている。
「二回戦。アドルの相手は、先ほどの双剣のニナ。そして、その勝者は三回戦で『鉄腕のヒューゴ』と戦うことになります。……さらにその先には、領主軍総帥グランツが控えているわ」
「……グランツ。かつてドラン師匠を追い詰めた組織とも繋がっているという噂の男か」
アドルは窓の外を見つめた。
街は祭りの余韻で明るいが、その光の届かない路地裏では、黒犬たちが獲物を探して蠢いているに違いない。
(俺は、この街で復讐を果たす。ポテトを売り、仲間と笑い、穏やかな日々を手に入れるために……。そのためには、この腐った舞台を俺たちの色に染め上げるしかない)
アドルは立ち上がり、一人工房へと向かった。
深夜、再び金属の重い音が屋敷に響き始める。
それは、絶望を複製し、希望へと変換するための、孤独な戦いの序曲だった。




