第69話:河畔の仙人
一夜明けても、アドルの心に立ち込めた霧は晴れていなかった。
10層での無力感。右腕を封じられた瞬間の、あの凍りつくような恐怖。
守るべき仲間がいるというのに、自分はただ盾を構えることしかできなかったという事実が、重くのしかかっていた。
「……ミーシャ。モルガンの店へ回復薬とポテト、それとエナドリの補充を頼んでいいか」
「わかりました。……アドルさん、あまり無理はしないでくださいね?」
心配そうに覗き込んでくるミーシャの視線を避け、アドルは次に控えていた二人に言葉を向ける。
「カミラ、ルル。魔力草の採取を怠らないように頼む。……しばらくは物資が必要になるはずだ」
「アドルさん、どこへ行くんです?」
ルルが小首を傾げて尋ねる。
「……ちょっと、散歩に行ってくる」
それだけ言い残すと、アドルは逃げるように屋敷を後にした。
◇
(……あまりこうして、目的もなくこの街をぶらつくことなんてなかったな)
通りを歩けば、相変わらずルールによって管理された、静かすぎるほどの光景が広がっている。
だが、その隅っこで子供たちが泥にまみれてはしゃいでいる姿を見つけ、アドルの心は少しだけ和らぐのを感じた。
街の中央を流れる穏やかな川。
そこにかかっている石造りの橋の真ん中に、一人の老人が糸を垂らしていた。
アドルは吸い寄せられるようにその隣へ立ち、ただ川のせせらぎに耳を傾けた。
「……釣れますか?」
しばらくの沈黙の後、アドルが問いかけた。
老人は前を見つめたまま、枯れ木のような声で答える。
「いんや。釣れなくていいんじゃよ」
「……何故ですか?」
「釣るために来とらんからのぉ」
「では、何をされているのですか?」
「なんとなく、糸を垂らして自然を感じとるのじゃ。必ずしも、竿を持っとるからといって、釣りをする必要もないじゃろ?」
ふと老人の手元を見ると、水面から上がった針の先には、餌さえ付いていなかった。
「……確かに。それはそうですね」
「お主、この街をどう思うかね?」
老人が不意に、濁りのない瞳でアドルを見た。
「わしはのぉ、小さい頃からずっとこの街で育った。今のこの街は、確かにちょっとおかしい所もあるのかもしれん。じゃが、その中でも小さな幸せを見つけて、みんな暮らしとる。……決して不幸というわけではないんじゃよ」
アドルは言葉を返せず、ただ老人の言葉を噛み締めた。
「おぬし、随分と何かに追い詰められとるような顔をしとるの。……お主がいてもいなくとも、世界はゆっくり回っていく。自由に、思うがまま生きりゃーええんじゃ」
「…………」
「力があるから誰かを助けないといけないというわけでもない。剣があるから振らないといけないというわけでもないのじゃよ。ほっほっほ」
その時、餌もついていないはずの竿が、ぐぐぐっと大きくしなった。
「おぉ、魚……かかってますよ、おじいさん!」
「おぉ、ほんとじゃのぉ。……よっこらしょ」
老人が軽々と竿を上げると、そこには銀色の鱗を輝かせる立派な魚が掛かっていた。
「……ありがとうございました。俺、行きますね」
アドルが深く一礼すると、老人は魚を針から外しながら、背中に声を投げた。
「ああ。肩の力抜いていけば、道は開けるでよ」
不思議な仙人と話したような感覚。
屋敷への帰り道、アドルの足取りは少しだけ軽くなっていた。
◇
屋敷に帰ると、エプロン姿のカミラが玄関で迎えてくれた。
「おかえりなさいませ、ご主人様。……あら、少しお顔が明るくなりました?」
「……そう見えるか? ミーシャとルルは?」
「二人でダンジョンに行ってくると出かけましたよ。レベルを上げるんですって、張り切っていましたわ」
「そうか……」
アドルはリビングの椅子を引き、カミラを見た。
「カミラ。……ちょっと、お茶でも飲まないか?」
「あら! ご主人様から誘っていただけるなんて光栄ですわね。とびっきり美味しいお茶を淹れますわ♡」
◇
湯気の立ち昇るカップを前に、二人はたわいもない話を続けた。
沈黙さえも心地よく感じ始めた頃、アドルが切り出した。
「……なぁカミラ。ドランは、君に幸せになってほしいと言っていた。君にとって、幸せとはなんだ?」
カミラは少しだけ目を伏せ、穏やかな笑みを浮かべた。
「そうですね……。こうしてご主人様とお茶を飲んだり、ミーシャさんやルルちゃん、皆さんが元気で笑っている空間に一緒にいること。それが、今の私の幸せですかね」
「なるほどな。……なら、俺はその空間を守らないといけないな」
「守れていますよ。現に、みんな笑っているじゃないですか」
「……ああ。その笑顔を、守り続けたいんだ」
アドルが力強く頷くと、カミラがカップを置いて身を乗り出した。
「ご主人様。たまにはギルドの依頼を受けませんか? ランクも止まったままですし、ダンジョン以外の外の世界も割といいものですよ。ドロップもたまにありますし、気晴らしにもなりますわ」
「そうだな……。カミラが受付をしてるタイミングで、行かせてもらおうかな」
「あら。私がいわゆる『窓口』なのが、よろしいんですか?」
「ああ。君がいい」
「ふふっ……。明日の午前中は、私が勤務していますわ♡」
「じゃあ、伺うよ」
◇
アドルは自室に戻り、一人で思考を巡らせた。
できないことを、無理にする必要はない。
あの老人が言った通り、肩の力を抜けばいいんだ。
(俺の長所はなんだ? ……そうだ、準備だ)
(突発的な出来事には対応できなくても、事前にあらゆる事態を想定して準備さえしておけば、俺は誰にも負けない。無理に肉体を強化しなくても、やれることを最大限に研ぎ澄ませばいいんだ)
そんなことを考えているとアドルは無意識に剣を取り、素振りを始めていた。
その剣筋は昨日までとは違い、迷いが削ぎ落とされた、鋭く確かな風を切る音を奏でていた。




