第52話:鉄錆の洗礼と、刻まれる軌跡
館を出発した俺たちは、まず街の喧騒に紛れながらモルガンの店へと向かった。
かつてドランが営んでいたあの店は、今は看板こそないものの、モルガンの手によって少しずつ片付けが進められている。
「よう、アドル。……お、ミーシャさんも。準備は整ったかい」
モルガンがカウンターの奥で、古い帳簿をめくりながら俺たちを迎えた。
俺はミーシャに目配せをし、彼女の 【 異空間保存 】 から、昨日複製したばかりの回復薬の小瓶を取り出させた。
「モルガン、約束の品だ。街の薬屋で売っているものと同じ品質Cの回復薬。……全部で百本ある」
モルガンは小瓶を一つ手に取り、無造作にラベルを確認して鼻で笑った。
「ああ、確かに見慣れた安物だ。……だが、冒険者にとってはこれが一番の必需品でな。出所を隠して安く流せば、それだけで立派な『餌』になる。……預かっておくよ。お前さんたちの足がつかないように、上手く捌いてやる」
「助かる。商売の方は任せるよ。……その代わり、俺たちが潜っている間の街の動き、特に領主の周りは頼んだぞ」
「ああ、死ぬんじゃないぞ。……行ってきな」
モルガンの現実的な声に見送られ、俺たちはついに「ダンジョン」へと足を踏み入れた。
◇
一歩足を踏み入れた瞬間に、鼻を突くような鉄の錆びた臭いと、冷え切った湿気が全身を包み込んだ。
入り口付近の光はすぐに届かなくなり、俺たちはミーシャが用意した松明を頼りに進む。
「……アドルさん、やっぱりここ、普通の洞窟とは違いますね。壁の形が、まるで作られたみたいで……」
「ああ。……ミーシャ、まずはこれを頼む」
俺は懐から白いチョークを取り出し、分岐点の壁に大きく矢印を書き込んだ。
「マッピングだ。迷えば死ぬし、帰るための目印は命より重い。……ここからは俺が地図を書き、君が索敵を担当する。いいな」
「はい、任せてください。……右側の通路、魔力反応あります!」
二階層へと下りるにつれて、カミラの言葉通り、通路は牙を剥くように狭まっていった。
大人二人が肩を並べるのが精一杯の道幅。
そこで最初の洗礼が訪れた。
キィィィィィッ!!
天井から、錆びた羽音と共に「鉄錆蝙蝠」の群れが急降下してくる。
俺は咄嗟に腰の白銀の長剣を抜こうとした。
しかし、横に振るおうとした刃が、ガギィン! という火花と共に硬い岩壁に激弾きされた。
「しまっ……!」
(狭い……! 長剣のリーチが、ここでは仇になるのか!)
振り抜けない。俺は即座に剣を脇に抱え込み、フェンシングのように鋭い刺突へと切り替えた。
迫りくる蝙蝠の胴体を正確に貫き、一匹ずつ闇に葬る。
「 【 プチファイア 】 !!」
ミーシャが腕輪をかざすと、小さな火の玉が放たれ、蝙蝠の一体を焼き払った。
しかし、今の彼女に使えるのは初歩的な火術のみ。
一撃で一匹を倒すのが限界で、次々と襲いかかる羽音に俺たちは防戦一方となった。
「ミーシャ、俺の背後だ! 背中は任せる!」
「はいっ! …… 【 ウインドカッター 】 !」
彼女が放つ真空の刃が、俺の頭上をかすめて背後の蝙蝠を切り裂く。
狭い空間での魔法の炸裂音は耳をつんざき、火薬の臭いと埃が肺を圧迫した。
◇
四階層に到達する頃には、俺たちは全身汗と煤にまみれていた。
現れたのは「鎧蟻」。
その名の通り全身を硬い甲殻で覆った魔物の列が、狭い通路を完全に塞いでいた。
「剣が……通らない……! 突きでも弾かれるぞ!」
俺の白銀の刃が、蟻の頭部を滑る。
物理的な鋭さだけでは、この「鎧」は抜けない。
「ミーシャ、関節だ! 足を狙って機動力を奪え!」
「やってみます! …… 【 ウインドカッター 】 !」
鋭い風の刃が蟻の足の継ぎ目を裂く。
体勢を崩した蟻の隙間に、俺は渾身の力を込めて剣をねじ込み、内側から破壊した。
一戦ごとに、装備の良さに頼り切っていた自分たちの甘さが露呈していく。
(ドランさんは、こういう『現実』を教えたかったのか……)
俺は壁の隅に、不気味な黒い犬の紋章が刻まれているのを見つけた。
領主の監視役、黒犬。
姿は見えないが、彼らは確実にこの迷宮の「どこか」に潜んでいる。
◇
体力の半分を使い果たし、俺たちは一度帰還することを決めた。
マッピング用の地図には四階層までの全貌が刻まれている。
だが、本当の地獄は帰り道にあった。
「……足音が、近づいてくる。……大きい!」
ミーシャの震える声と共に、第二階層の曲がり角から「大土蜘蛛」が姿を現した。
狭い通路をその巨体で埋め尽くし、粘着質な糸を吐き出しながら迫ってくる。
「嘘でしょ、行きにはいなかったのに……!」
「魔物の再配置か……。ミーシャ、下がれ! 壁に張り付くな、糸に捕まるぞ!」
俺は白銀の長剣を構え、蜘蛛の脚を狙って鋭い刺突を繰り出した。
だが、蜘蛛の動きは予想以上に速い。
逃げ場のない通路で、鋭い鉤爪が俺の腕を深く掠める。
「がっ……! ……まだだ!」
俺は痛みを無視し、異空間から取り出した品質Bの回復薬を一口煽る。
熱い波動が傷口を塞ぐ。
「アドルさん! …… 【 プチファイア 】 !!」
ミーシャが必死に火の玉を放ち、蜘蛛の顔面を焼く。
一瞬、蜘蛛が怯んだ。その隙を、俺は逃さなかった。
(ここで、決めなきゃ死ぬ……!)
俺は剣を逆手に持ち替え、蜘蛛の眉間へと渾身の力を込めて白銀の刃を突き立てた。
ズガァァァン!!
巨体が魔力の霧となって消滅し、静寂が戻る。
その瞬間、俺とミーシャの脳内に、あの無機質な「音」が鳴り響いた。
『経験値が一定に達しました。レベルが上昇します。レベル9から10へ』
「……レベル、10……。あはは、やっとですね……」
ミーシャがその場に座り込み、荒い息を吐きながら力なく笑った。
俺もまた、剣を杖代わりにして立ち尽くす。
全身が軽い。魔力の底が一段階上がった感触。
◇
しかし、迷宮は最後まで俺たちを歓迎しなかった。
出口の光が見え始めた頃、五人の男たちが立ち塞がった。
「剥ぎ取り屋」の男たちだ。
「ひっひっひ……。いいカモが戻ってきたぜ。その綺麗な剣と薬、全部置いていきな。そうすりゃ、命だけは助けてやる」
「……悪いが、これは俺たちの生存に必要なものだ。渡すつもりはない」
「なら、死ねぇ!」
男が錆びた鉈を振り下ろす。
だが、今の俺にとって、その動きは止まっているのも同然だった。
「 【 ウインドカッター 】 !」
ミーシャの風の刃が先頭の男の足を薙ぎ払い、俺は一歩踏み込んで残りの連中の武器を白銀の刃で次々と弾き飛ばした。
「……失せろ。次は、腕を切り落とす」
俺の冷徹な一言に、男たちは悲鳴を上げながら逃げ去っていった。
迷宮の外へ出ると、眩しい夕陽がボロボロになった俺たちを照らし出す。
「……帰ろう、ミーシャ。カミラのご馳走が待ってる」
「はい、アドルさん……!」
初日の成果は、四階層までの地図、そしてレベル10への到達。
俺たちは泥を噛むような思いをしながらも、確かな手応えを感じていた。




