第38話:親心の灯火と、次なる一手
店の扉を叩く音は、いつもより重く、そして焦燥に駆られたように不規則だった。
「ただいま戻りました……ドランさん」
扉を開け放った二人の姿を目にした瞬間、カウンターでグラスを磨いていたドランの手が止まった。高価なクリスタルが床に落ち、鋭い破砕音を立てる。だが、彼はそれに目もくれず、弾かれたような速さで入り口へと駆け寄った。
「おい、その傷はどうした!? ミーシャ、服がボロボロじゃねえか……アドル、貴様ッ!」
ドランの叫びは、いつもの厳格な師匠としてのそれではなく、大切な家族を理不尽に傷つけられた父親の悲鳴に近かった。彼は狼狽し、震える手で二人の肩を掴むと、力任せに奥の居住スペースへと押し込んだ。その眼帯の奥にある瞳には、二十年前、無力だった自分が守りきれなかった「彼女たち」の凄惨な最期が、鮮明な残像として過っていた。
「心配いりませんよ、ドランさん」
アドルは口端にこびりついた血を拭いながら、努めて冷静なトーンで言った。
「領主ヴァルゴスの息がかかった隠密――『黒犬』の連中です。この街で生きていく以上、避けて通れない洗礼のようなものですよ。……想定内です」
「想定内だと!? 殺されかけたんだぞ、この馬鹿野郎が!」
ドランは吠えるように返したが、その怒りの矛先はアドルではなく、闇に潜む支配者へと向けられていた。領主め……二十年経っても飽き足らず、また俺の目の前から大切な光を奪おうというのか。
ドランは無言で棚の最奥へと向かうと、幾重もの封印が施された厳重な小箱を取り出した。中には、沈む夕日を閉じ込めたような琥珀色の輝きを放つ、数本の薬瓶が収められている。
「……これを使え。ギルドの特権階級でも滅多に拝めねえ、最高品質の『特級霊薬』だ。出し惜しみはしねえ、全部飲み干せ」
「特級、ですか……。痛み入ります。ですが、使用する前に少々……」
アドルは全身を走る痛みを奥歯で堪えながら、その小瓶に全神経を集中させた。
【鑑定:特級霊薬――レシピ解析記録完了】
(やはり希少素材の塊だな。だが、このレシピさえあれば、今後の俺たちの生存圏は飛躍的に広がる)
アドルは解析を終えると、一本をミーシャに手渡し、自分も一気に煽った。
胃の腑から熱い魔力の奔流が全身の血管へと広がり、無惨に裂けた肌が、植物が芽吹くような速さで塞がっていく。
「……随分と優しくなりましたね、師匠」
アドルが少しからかうように口角を上げると、ドランはバツが悪そうに眼帯の位置を乱暴に直した。
「……当たり前だ。お前らに死なれたら、俺の酒の味が落ちるんだよ。いいか、奴らの動きはもう読めねえ。何があっても俺にすぐ連絡しろ。独断で動くな。いいな、絶対にだ!」
親が子を諭すような必死の念押しに、アドルとミーシャは静かに、しかし深く頷いた。
◇
一息ついたところで、アドルは懐から不動産商モルガンの見積書を取り出した。
「ドランさん、例の洋館の購入ですが、ミーシャの商業ギルド登録証のおかげで価格が大幅に引き下げられました。ただ、それでもまだ金貨がどうしても足りません。
……以前の『純魔銀の触媒』を、もう数回に分けて裏ルートで換金できませんか?」
「……いや、それはやめておけ。同じ高額商品がこの短期間に市場に出回れば、相場が崩れるだけでなく不自然さが際立つ。領主に尻尾を掴ませる絶好の材料をくれてやるようなもんだ」
ドランは冷静に、裏社会の商売の鉄則を説いた。
「別の商品で攻めるぞ。……そうだ、アドル。お前の錬金術で『魔力蓄積結晶』は構築できるか? 貴族の屋敷の照明や、防衛結界の動力源として常に枯渇している需要がある。これなら出所が多少バラけても、誰も怪しまねえ」
「魔力蓄積結晶……。レシピを確認します」
ドランがサンプルとして差し出した、親指ほどの大きさの魔力石を手に取る。
【鑑定:魔力蓄積結晶――レシピ解析完了】
(素材は、ただの『魔力石の欠片』と『高純度魔力』
か。ミーシャの異空間に転がっているゴミ同然の魔石屑を核に、俺の魔力を流し込めば瞬時に複製可能だ)
「いけます。これなら数日で必要額を稼ぎ出せるはずです。一刻も早くあの館を買い取って、物理的な守りを固めましょう」
◇
話が一段落した頃、ミーシャが意を決したように、煤けた服のままでドランの前に真っ直ぐ立った。
「ドランさん、見ていてください。……私、さっきの戦いで、やっと……掴めたんです」
ミーシャが深い集中に入る。彼女の右手と左手に、異なる波長の魔力の渦が発生した。それらは磁石の同極同士のように激しく反発しようとするが、彼女の強靭な意志によって螺旋を描き、一つの巨大な「火炎を纏った突風」へと変貌していく。
「……二重螺旋詠唱、か」
ドランは目を見開いた。室内ゆえに威力こそ極限まで抑えられているが、その基礎構造は、紛れもなく彼がかつて誇った伝説の極意そのものだった。
「完璧とは言えねえな。魔力の繋ぎ目がまだ粗いし、無駄な放熱が多すぎる。……だが、形にはなっている。よくやったな、ミーシャ」
ドランの大きな手が、ミーシャの埃っぽい頭を優しく、愛おしそうに撫でた。
「だが、これで慢心するなよ。実戦で出せたのは極限状態の運もあったはずだ。明日からは、さらに意識を『切断』し、かつ『同期』させるための、より高度な基礎訓練を叩き込む。……いいな、研磨を止めるなよ」
「はい、師匠!」
ミーシャの顔に、今日初めての弾けるような笑顔が戻った。
一方、ドランの胸の奥では、自らの臓器を魔力回路へと置換する「禁術」のカウントダウンが、確実に加速していた。
愛すべき子供たちの成長を眩しそうに見守りながら、彼は自分を滅ぼすための決意を、より深く、そして冷徹に固めていった。




