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第33話:三つの誓いと、牙の代償

モルガンとの物件内見を終え、夕闇の静寂に紛れるようにして俺とミーシャはドランの店へと戻った。店内に漂う「霊香木」の柔らかな、けれどどこか背筋を正させるような香りが、張り詰めていた俺たちの神経を優しく解きほぐしていく。居間のテーブルを囲み、俺たちは今日得た最大の収穫をドランに報告した。広大な、しかし呪われた洋館の全容。そしてそれを手に入れるための唯一の道である「商業ギルド」への登録についてだ。

「……そうか。あの幽霊屋敷を、本気で買うつもりか。あそこなら、どんな怪しげな錬金実験を地下で繰り広げていても、外の連中の耳に入ることはねえだろうな」

ドランは努めて平然を装い、いつものように苦い茶を啜った。だが、その節くれ立った指先が、茶碗の縁で微かに、断続的に震えているのを、俺の目は見逃さなかった。昼間、俺たちが不在にしていたこの場所で、一体何が起きたのか。そう問いかけようとした俺の視線を制するように、ミーシャがテーブルを叩かんばかりの勢いで身を乗り出した。

「ドランさん、私、明日商業ギルドに登録してきます。アドルさんが冒険者として動くなら、私は『商』の側から、私たちの生活と拠点を支えたいんです。……もちろん、魔法の特訓もこれまで通り、いえ、これまで以上に続けます」

「……二重螺旋の修行をやりながら、あの強欲の巣窟である商業ギルドの試験を受けるだと? 本気で言っているのか。下手したら命を落とすぞ」

「死ぬ気でやらないと、あの館は手に入りません。アドルさんが外で剣を振るうなら、私はこの街のシステムの中で戦います」

ミーシャの瞳には、一切の迷いも、揺らぎもなかった。ドランは少しだけ目元を緩め、ふんと鼻を鳴らした。その表情には、呆れと、それを遥かに上回る深い敬意が混ざり合っていた。

「いいだろう。……だがな、商業ギルドは、アドルが通っている冒険者ギルドとは根本から毛色が違う。あそこは金と利権がすべてを支配する、法に守られた強盗の集まりだ。登録料一つとっても、アドルが地道に稼いできた銀貨数枚じゃ、門を潜ることさえ許されねえ。……地獄を見る覚悟をしておけ」

ミーシャはその言葉の真意を、まだ完全には理解していなかった。登録料という名の法外な参入障壁、そして合格率がわずか数パーセントと言われる、人格すら否定される過酷な試験。彼女は明日、その重厚な門を叩いた瞬間に、この街の「格差」という名の現実を思い知ることになる。

「俺は、その間に冒険者ランクを一気に E ランクまで引き上げるよ。ダンジョンへの足掛かりを、一刻も早く作っておきたいんだ。身分証がランクアップすれば、買える素材の幅も広がる」

俺の言葉に、ドランは短く頷いた。その瞳には、何か重大な決意を秘めたような、昏い光が宿っていた。

「……ああ。お前たちは、お前たちの信じる道を行け。俺はここで、店の整理でもしながら、お前らの帰りを待っているさ」

翌朝。俺が冒険者ギルドの掲示板から、リスクは高いが報酬と実績の大きい討伐依頼を選び出している頃、ドランの店の裏庭では、ミーシャが己の限界を削り取るような修行に没頭していた。

「走れ! 立ち止まることは死を意味すると思え! 右脳で『火』の爆発的な熱を感じ取り、左脳で『風』の鋭利な断絶を刻め!」

ドランの鋭い叱責が、朝の静謐な空気を切り裂く。

ミーシャは難解な古語が並ぶ重たい魔導書を胸に抱え、不規則な凹凸を持つ石畳の上を全速力で駆け抜けていた。心臓が早鐘を打ち、喉の奥からは血の味が混じった焼けるような熱気。その極限の身体的ストレス下で、彼女は右脳で【プチファイア】、左脳で【ウインドカッター】の魔力回路を同時に、かつ互いに一ミリの干渉もさせずに構築し続けなければならない。

(……まだ。まだ思考の端が、不純な魔力と混ざり合う……!)

右手が動けば左手の術式が崩れ、意識が散れば足元がもつれる。転倒しそうになる体を魔力で無理やり地面に固定し、彼女は必死に意識を真ん中から二つに断絶させた。それは、自己というアイデンティティを二つに引き裂くような、生理的な恐怖を伴う感覚だった。

「……あ、ああ……っ!」

数分後、彼女の両方の指先から、不格好ながらも確かな熱量を持った火花と、空気を切り裂く風の刃が同時に弾け飛んだ。威力も精度も、ドランが語る伝説的な奥義にはまだ遠く及ばない。しかし、それは間違いなく、二つの異なる理が一つの肉体に同時に宿った、革命的な瞬間だった。

「……ふぅ。……今、少しだけ。……魔力の『継ぎ目』を、掴めた気がします」

泥と汗にまみれたミーシャが立ち上がり、決意を込めてドランを見つめる。彼女はそのまま荒い息を整えると、泥を払い、今日から始まる戦場――商業ギルドへと、迷いのない足取りで向かっていった。

ミーシャの姿が大通りの角に消え、周囲に人影がなくなったのを確認すると、ドランは音を立てずに店の奥、重厚な鉄の鍵で閉ざされた隠し書庫へと姿を消した。

彼は一人、埃を被った古い羊皮紙の魔導書を机に広げた。

それは魔法の美しい理論を説く書物ではない。自らの内臓や感覚、さらには寿命そのものを「触媒」として魔力回路を人為的に再編する禁忌の術式――『自己再構築セルフ・リビルド』の断章だった。

「……あいつらを、二十年前の二の舞にはさせない。今度こそ、俺が盾になる」

ドランの魔力回路は二十年前、領主ヴァルゴスの命を受けたバルダザールによって、物理的・呪術的に徹底して破壊されている。通常の治療や魔法では、二度と魔力を練ることさえ叶わない「廃人」だ。だが、この禁術は、心臓を魔力炉リアクターに、全身の血管を強引な魔力経路サーキットへと作り変えることで、一時的に、かつての「大賢者」の力を顕現させる。

それは発動した瞬間から、術者の余命を激しく燃やし尽くし、五感を一つずつ奪っていく残酷な「呪い」でもあった。

ドランは震える指先で、禁じられた術式の一文字一文字をなぞり、その地獄の全容を脳内に刻み込んでいく。これは一朝一夕で成せるものではない。臓器の一つ一つに魔力の「種」を植え付け、数週間をかけて、老いた身体そのものを超高出力の魔導具へと変質させていく、命を砥石にした絶望的な研磨作業だ。

まだ力の発現には至らない。だが、彼は静かに深く、暗い瞑想に入り、体内の血流を魔力の拍動へと変える「調律チューニング」を始めた。

アドルは街の外で、血生臭い剣を振るい。

ミーシャは商業の門の前で、権力という名の冷徹な壁に直面し。

ドランは闇の中で、自らを滅ぼし尽くす最後にして最大の牙を研ぐ。

三人の運命は、それぞれの孤立した場所で、静かに、しかし激しく、火花を散らし始めていた。

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