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第26話:香る湯気と、路地裏の極楽

「……よし。設計図は完全に脳内に固定した。あとはこれを、現実の物質としてどう定着させるかだ」

翌朝、俺はドランに無理を言って借りた中庭に立っていた。まだ夜の残滓ざんしを孕んだ薄暗い空気の中、ひんやりとした朝露が足元を濡らし、静寂を際立たせている。二階では、昨日の壮絶な修行で心身を削ったミーシャが、まだ深い眠りの中にいた。彼女が目を覚ます前に、せめて形だけでもこの「贈り物」を完成させておきたかった。

俺がこの世界の素材の中から選んだのは、現代日本において癒やしの象徴とされる「ひのき風呂」の再現だ。

幸いなことに、ドランのガラクタ山の中には、ひのきに似た芳香と撥水性を併せ持つ「霊香木れいこうぼく」という、本来なら王宮の建材に使われるような高品質な木材の端材が転がっていた。俺はその一欠片を「種」として**【複製錬金】のレシピに加え、そこから現代の工学知識を掛け合わせる『想像錬成』**へと意識を集中させた。

「……アドルさん? 朝から、一体何を……」

目をこすりながら、寝間着の上に薄い外套を羽織ったミーシャが中庭に現れた。彼女の視線の先には、俺が何度も錬成に失敗し、構造の歪みでひっくり返った木の箱や、強度が足りずに自重で割れた木材の残骸が積み上がっていた。

「おはよう、ミーシャ。お風呂を作っているんだ。想像錬成は既存のレシピをなぞるのとは訳が違う。所有していない完成形を目指す分、成功率は著しく下がるが……素材の持つ魔力特性との相性は悪くない。あと少しで、理想の形に届くはずだ」

俺は**【鑑定】**をフル稼働させ、霊香木の繊維密度をミクロン単位で確認する。さらに、現代の木造建築で用いられる「継手つぎて」や「仕口しぐち」の構造をイメージし、釘を使わずに組み上がる精密な設計を魔力として流し込んだ。

カポッ、カポッという、深夜の静寂に響いたあの錬成音が再び中庭を満たす。魔力が物質を編み上げ、中庭の隅に小さな木造の建屋と、脱衣所を兼ねた機能的なスペースが瞬く間に組み上がっていった。

「……できた。シャワーのような高度な配管までは間に合わなかったが、最高に香りのいい風呂釜だ」

完成したのは、美しい木目が黄金色に浮かび上がった「霊香木の風呂」。近づくだけで、雨上がりの深い森に迷い込んだかのような、清涼で重厚な香りが鼻腔をくすぐり、それだけで精神を浄化していく。

ミーシャは信じられないものを見るような目で、その赤ん坊の肌のように滑らかな木の縁を、愛おしそうになぞった。

「すごい……本当に、お風呂だわ。でも、アドルさん。肝心のお湯はどうするんですか?」

「そこで君の出番だ、ミーシャ。……カルンの村を出る時、あの山の澄んだ湧き水を保存していただろう?」

「あ、はい! たっぷりあります。……そうか、それをここで!」

ミーシャが**【異空間保存】**を起動し、俺が指示した量の湧き水を空間から直接導き出す。俺が事前に簡易的な魔導ヒーターを組んで沸かしておいた熱湯と、村の冷たい湧き水を絶妙な配分でブレンドしたものだ。湯気が勢いよく立ち上がり、風呂釜に透明な熱が満たされていく。

「……完璧だ。温度も、香りも。ミーシャ、一番風呂を譲るよ。ゆっくり温まってくれ」

「おいおい、正気か? 貴重な霊香木の端材をこんな得体の知れねえ『木の箱』にしちまうなんて、どんな成金趣味だ」

中庭から立ち上る異常な熱気と、裏通りには不釣り合いな高貴な香りに誘われるように、店の奥からドランが顔を出した。彼はまだ眠たげな目をこすりながら、俺が作り上げた建屋を見て呆れたように肩をすくめた。

だが、戸口から漏れ出す濃厚な森林の香りと、白く柔らかに立ち上る湯気をその身に浴びた瞬間、彼の鼻がぴくりと動いた。

「この匂い……それに、肌にまとわりつくようなこの温かさ。ただ魔法で汚れを弾くのとは、根本的に訳が違うようだな」

「ドランさん、これが俺の故郷の文化……『風呂』です。心身の疲れを芯から取り除き、明日への活力を養うための、いわば再生の儀式ですよ」

ミーシャが着替えを手に、少し照れくさそうに建屋の中へ入っていく。

しばらくして、扉の向こうから「ふぁぁ……」という、今までに聞いたこともないような、とろけきった、心の底からの安堵の溜息が漏れ聞こえてきた。

「……アドルさん、最高です。肩の重みが消えて、脳の奥の疲れまで湯の中に溶けていくみたい……。これなら、午後の修行もまた頑張れます」

その至福に満ちた声を聞いて、俺とドランは思わず顔を見合わせた。

ドランは最初こそ「魔力と資源の無駄遣いだ」と毒づいていたが、ミーシャと交代で俺が入り、その効果を身を以て体験した後、最後には彼も我慢しきれなくなったのか、無言で霊香木の湯船に身を沈めた。

「……ぐ、ぅ……っ。……なんだ、これは。二十年放置していた腰の古傷に……熱が染みやがる……。アドル、お前……とんでもねえ物をこの街に持ち込みやがったな……」

湯船の中で、かつての大賢者がただの「風呂好きの隠居親父」へと退化した瞬間だった。

夕暮れ時。

風呂上がりのミーシャの肌は、昨日までの泥汚れと疲労が嘘のように白く、桃色を帯びた血色で輝いていた。その瞳には、再び始まるであろう過酷な二重螺旋詠唱の修行に立ち向かうための、静かで、しかし確かな強さを持つ光が宿っている。

「ありがとうございます、アドルさん。……私、もっともっと強くなれます。このお風呂があれば、どんな地獄も乗り越えられそうです」

俺たちの拠点に、小さな、けれど決して壊れることのない安らぎの種が生まれた。

リュステリアの冷徹で非情な空気の中で、ドランの店の中庭だけは、ひのきの芳香と温かな湯気に包まれ、穏やかな時を刻んでいた。

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