第24話:二重螺旋の胎動
冒険者ギルドへ向かうアドルの足音が遠ざかり、店の重い木扉が乾いた音を立てて閉まった直後、店内の空気は一瞬にして密度を変えた。先ほどまで穏やかに茶を淹れ、隠居した老人のように振る舞っていたドランが、鋭く、射抜くような「大賢者」の眼光をミーシャへと向けた。
「さて、お嬢さん。……アドルはアドルの戦いに行った。あんたはどうする。ただここで、あいつがボロボロになって帰ってくるのを待っているだけの『荷物』でいるつもりか?」
ドランの声には、これまでの酔っ払いの濁りは一切なかった。ミーシャは臆することなく、真っ直ぐにその眼差しを跳ね返した。彼女の細い肩は微かに震えていたが、それは恐怖ではなく、溢れ出しそうな高揚感と決意によるものだ。
「いいえ。私は……アドルさんの背中を、隣で守れるようになりたい。ただ守られるだけの存在でいたくありません」
その答えを聞き、ドランは短く、満足げに鼻を鳴らした。彼は迷いのない足取りでミーシャの前に立つと、あたかも不可視の魔力の奔流を見定めているかのように目を細めた。
「いい覚悟だ。……あんたの資質を、俺なりに『鑑定』させてもらった。魔力量そのものは平均より少し上程度だが、特筆すべきはその脳の構造……**【異空間保存】**という膨大な情報の出し入れを司る、圧倒的な情報の処理速度だ。あんたのその容量なら、俺がかつて編み出し、誰にも伝承できなかった奥義を扱える可能性がある」
ドランは指先をパチンと鳴らし、空中にある幾何学的な紋様を描いた。青白い光が空中に静止し、二重の螺旋を描いて回転を始める。
「奥義、二重螺旋詠唱。……右脳と左脳を完全に切り離し、右手と左手で全く別の術式を同時に構築、発動させる技術だ」
ミーシャが息を呑む。魔法は一つずつ精神を集中させて詠唱し、発動させるのがこの世界の絶対の常識だ。二つ同時に、それも全く性質の異なる魔法を放つなど、通常の人間の演算能力では脳が焼き切れる。
「あんたは今、プチファイアとウインドカッターしか使えねえ。だが、この二つを『絶え間なく、同時に』放ち続けることができれば、それは格上の魔法をも凌駕する圧倒的な暴力になる。……だが、地獄だぞ。文字通り脳が焦げるような思いをしてもらう」
◇
そこから始まったのは、修行という名の、精神と肉体の限界を削る拷問だった。
まずドランが命じたのは、店の裏庭にある、年月を経て凹凸の激しい石畳の上での「走行読書」だった。
「走れ! 止まるな! 心拍数を上げたまま、その魔導書の内容を音読し、三ページごとに要約して俺に伝えろ! 呼吸を乱せば魔力が霧散するぞ!」
ミーシャは肩で息を切り、足をもつれさせながらも、難解な古語で綴られた魔導書を目で追い、声を張り上げた。身体を蝕む激しい疲労と、脳への過剰な情報入力。意識が白く遠のきそうになるたびに、ドランの鞭のような叱責が飛ぶ。
さらに、休む間もなく次の訓練が課せられた。「左右異儀」。ドランはミーシャの両手に羽ペンを握らせ、地面に広げられた二枚の羊皮紙に向かわせた。
「右手で『火の属性陣』を描け。同時に、左手では『風の属性陣』を描くんだ。一ミリのズレも許さねえ。その最中、俺が投げる石をすべて最小限の魔力で弾き飛ばせ。……脳を半分に割る感覚を、力ずくで掴め!」
右手が動けば左手が止まり、意識を飛来する石に向ければ魔法陣が歪む。カツ、カツ、という小石が身体に当たる鈍い音が、静かな裏庭に響く。ミーシャの額からは滝のような汗が流れ、視界は過負荷によってチカチカと明滅し始めた。
「……う、あ……っ!」
「やめるか? アドルの後ろで震えて、あいつがいつか死ぬのを待っているだけなら、こんな苦労は要らねえんだぞ!」
ドランの言葉に、ミーシャは奥歯を噛み締めた。置いていかれたくない。あの人と、対等な相棒として歩きたい。その一点の執念だけで、麻痺し始めた思考の断片を無理やり繋ぎ止める。
訓練はさらに過酷さを増していく。常に頭の中で三桁の掛け算を暗算し続けながら、指先からは一定の魔力を放出し、かつドランの指示に合わせて魔法の出力を「強・中・弱」とメトロノームのように正確に切り替え続ける。少しでも演算を間違えれば、不協和音のような魔法が暴発し、ミーシャの手元でパチリと黒煙が上がった。
泥にまみれ、脳が熱を持ち、指先は魔力の酷使で感覚を失っていく。それでも彼女は立ち上がり、膝の震えを抑えてドランの前に立った。
ドランは、ふらつきながらも眼光を失わない彼女の姿に、かつて自分が教え導こうとした英雄たちの面影を見た。彼女を動かしているのは、アドルへの深い愛着と、自立への執念だ。それは、どんな天賦の才よりも強く彼女を突き動かしていた。
「……よし、今日はここまでだ」
日が完全に沈む頃、ドランがようやく声をかけると、ミーシャはその場に糸が切れた人形のように崩れ落ちた。指一本動かす気力さえ残っていない。
「……明日もやるぞ。三日で基礎を叩き込む。アドルが市民権を持って戻ってくる頃には、あんたの魔法は、奴らを食い千切る『牙』に変わっているはずだ」
ドランのぶっきらぼうな、しかし確かな信頼が籠もった励ましに、ミーシャは土のついた顔を上げ、小さく、けれど誇らしく微笑んだ。脳の奥で、まだ二つの思考が火花を散らしている。遠くで、アドルが帰ってくる確かな足音が聞こえた気がした。




