第137話 : 毒沼の処刑人
二十層の門が閉ざされた瞬間、鼻を突く異臭が充満した。
足元に広がるのは、どろりと濁った紫色の毒沼。
天井からは巨大な鎌が不規則に揺れ、侵入者を切り刻まんと待ち構えている。
その中央、沼の中から一人の男が静かに立ち上がった。
黒い装束を纏い、顔を隠したその姿。
それはかつての武道大会で街を絶望に叩き落とした、――「黒犬」の一人だった。
だが、放たれるオーラはあの時とは比較にならない。
ドス黒く、重く、肌を焼くような殺意の塊が、武道大会の記憶を呼び起こす。
「……っ!!」
アドルの顔から血の気が引いた。
脳裏に、あの惨劇の光景がフラッシュバックする。
自分の無力さ。
膝が微かに震え、視界が歪む。
「アドルさん……!」
隣にいたミーシャが、迷わずアドルの手を強く握りしめた。
熱を帯びた彼女の手のひらが、アドルの意識を現実へと繋ぎ止める。
「大丈夫ですよ、アドルさん。私が付いていますから。なんの心配もいりません。……ね?」
ミーシャの力強い瞳が、アドルを真っ直ぐに見つめていた。
その隣で、人型のドラゴンが鼻で笑う。
「なんだ、トラウマでもあるのか? 我からすれば、キメラもこの黒装束も同じにしか見えん。ただの目の前の障害物だ。……踏み潰せば済む話だろう」
「……っ。あぁ……そうだな。みんな、ありがとう。もう大丈夫だ」
アドルは深く息を吐き、剣を構え直した。
その様子を、黒装束の男が冷たく眺めていた。
「くくく……よく喋る人間どもだ」
男が口を開いた。
その声には、かつての「黒犬」にはなかった、どす黒い圧がある。
「私の名はヴェゼル。かつてフィア様に仕えていた黒犬だったが……今はゼノア様に仕え、フィア様の魂とゼノア様より賜りし力で真黒犬として生まれ変わったのだ。お前たちをここで滅して、再度街を掌握する」
「やっぱり魔族共の差し金か。よく喋る犬だな。だがお陰でお前たちの目論見の一端が随分見えたよ」
「また、絶望を思い出させないといけないようだな?」
「貴様……」
「何故知っている、という顔をしているな……。ふっ、まぁよい。どのみちお前たちはここで死ぬのだからな」
ヴェゼルが指を鳴らした瞬間、エリア全体に不気味なシステム音が響き渡った。
「ガコンッ!」
「エリアギミック:猛毒の檻 起動」
「効果:エリア内全員に猛毒状態を付与」
「ぐっ……身体が、蝕まれる……!」
アドルが呻く。
視界の端で、じりじりと体力が削られていく感覚が襲う。
「ふはは! 私の名は毒沼の処刑人ヴェゼル! 貴様らが苦しむ毒で、私は強くなる。ふははは、いくぞ!」
「くっ、猛毒……身体が蝕まれる……! みんな、一箇所に固まるな! 散れ!」
アドルの叫びと同時に、ヴェゼルが毒沼を蹴立てて突進してきた。
「ザバァッ!」
黒い影が弾丸となってルルへ肉薄する。
「させないなの! 風の剣晶、起動!」
「シュンッ!」
ルルが超高速のステップで回避。
直後、ヴェゼルの短刀が地面を割り、毒の飛沫が舞う。
「お返しなの! マシンガンブロー!」
「ドカカカカッ!」
属性穴から溢れる風の連撃。
だが、ヴェゼルは身をよじり、最小限の動きでそれを躱す。
「浅いわ! ポイズン・ハウル!」
「オオオォォォッ!」
咆哮と共に、全方位へ毒の衝撃波が放たれた。
「くっ……! ウィンド・シールド・ダブル!」
「ガキィィンッ!」
ミーシャが左手一本で魔法陣を構築。
二重の風壁が衝撃を受け止める。
成功だ。
左手だけでも強固な防御を維持できている。
「ドラゴンさん、今なの!」
「ふん、言われずとも! 氷晶長槍・連突!」
「ヒュン、ヒュン、ヒュンッ!」
人型のドラゴンが氷の槍を繰り出す。
本来の半分の力とはいえ、一突き一突きが岩盤を砕く威力。
だが、ヴェゼルは毒沼を滑るような身のこなしで死角からアドルを狙う。
「アドルさん、危ない!」
「大丈夫だ……鑑定!」
アドルは飛来する天井の鎌と、ヴェゼルの足運び、そしてこの猛毒の成分構造を瞬時に見抜いた。
「鑑定完了……毒の成分は神経系か。瞬きの錬金……解毒の香炉、錬成完了!」
アドルは懐から取り出した魔石と素材を爆速で合成し、特殊な香炉をその場に練り上げた。
そこから噴き出した清涼な煙が、三人を包み込む。
「ふぅ……これで毒の浸食は抑えられる! ルル、上だ! 天井の鎌が来る!」
「了解なの! クイックムーブなの!」
「ヒュッ、ザシュッ!」
巨大な鎌がルルの鼻先を通り過ぎるが、彼女は止まらない。
「ふはは! 毒を抑えたところで、この沼からは逃げられん!」
ヴェゼルが再び毒沼の影に身を隠し、変幻自在の攻撃を仕掛けてくる。アドルは剣を構えながら、冷静に次の手を練る。




