第136話 : 脈動
十一層に足を踏み入れた瞬間、肌を撫でたのは生臭い血の匂いと、生理的な嫌悪感を呼び起こす「湿り気」だった。
壁面を這う血管のような触手がドクン、ドクンと不気味なリズムで脈動し、迷宮そのものが意志を持つ巨大な臓器へと作り変えられているかのようだ。
「……アドルさん、見て。あれ、普通の魔物じゃないわ」
ミーシャが左手で暗闇を指差した。
そこから這い出してきたのは、複数の魔物が無理やり継ぎ合わされたような異形の集団――『キメラ・アマルガム』。
それらが、正体不明の禍々しい魔力を放ちながら、飢えた獣のように襲いかかってきた。
「ルル、右から来るぞ!」
「わかってるなの! 炎の剣晶、起動なの!」
ルルが新調したナックルグローブを合わせると、右拳に猛烈な炎が宿った。すらたんの強化を得た彼女の動きは、もはや目で追える速さを超えている。
炎を纏った超高速の連撃がキメラを焼き砕く。
「ふん。数だけは多いようだが、所詮は出来損ないだな」
白銀の髪をなびかせ、人型のドラゴンが冷淡に言い放つ。
彼は氷の長槍を片手で回すと、迫り来る三体の魔物を一突きで串刺しにした。
だが、その表情にはわずかな翳りがある。
「チッ……やはりこの姿では、本来の半分も力が出せぬか。大気を凍てつかせる程度のことが、これほど微弱になるとは」
「ドラゴンさん、無理はしちゃダメなの! あたしたちもいるなの!」
ドラゴンは不遜に笑うが、その槍筋には以前の絶対的な威圧感とは異なる、窮屈そうな「制限」が感じられた。
それでもなお、彼の戦闘技術は圧倒的だった。
一行は十一層から十五層へと、魔物の死体を積み上げながら進撃した。
だが、十七層に差し掛かった時、ダンジョンの「罠」がアドル達に襲いかかる。
「待て、床の紋様が――」
アドルの警告よりも早く、通路全体の重力が数倍へと跳ね上がり、壁面から魔力を吸い取る霧が噴出した。
「くっ、身体が重いの……魔力も吸い取られてるなの!」
「落ち着け、ルル! ミーシャ!」
「くっ…… 『ウィンド・シールド・ダブル』!」
ミーシャは左手一本で、複雑な魔法陣を瞬時に二重に展開した。
これは彼女にとっての挑戦――左手のみでの『二重螺旋』の制御テストだった。
包帯のおかげで右腕の苦痛に意識を割かれずに済む彼女の魔法は、見事に成功し、三人を守る強固な風の障壁を作り上げた。
「さすがだな、ミーシャ。……よし、罠の解除は俺の得意分野だ。任せておけ」
アドルは不敵に笑うと、重力に抗いながら床に手を触れた。
「まずは『鑑定』……なるほど、この構造か」
アドルは瞬時に罠の正体を見抜くと、すぐさま『瞬きの錬金』を起動した。
彼の特技は、構造を書き換えることではない。
圧倒的な速度で「錬成」することだ。
アドルは罠が設置されていない周囲の「普通の床」の構造を瞬時に読み取り、罠の術式ごと塗りつぶすように正常な床を爆速で錬成した。
「ふぅ……。罠を解くっていうより、上から普通の床を被せちまった方が早いからな。これでよし!」
霧が晴れ、重力が元に戻る。アドルは肩をすくめて二人を振り返った。
そのまま壁の罠も手際よく解除していく。
「……それにしてもルルもミーシャも、さっきの動きは完璧だったぞ。惚れ直したな」
「えへへ、アドルさんに褒められるとやる気出るなの!」
「……もう、アドルさんったら。でも、おかげで助かったわ」
十九層を突破し、ついに辿り着いた二十層の最奥。
そこには赤黒い魔力で編み込まれたような異様な「門」が立ちはだかっていた。
「ここが二十層か……。十層の時と同じなら、この先はボスを倒すまで出られないはずだ。警戒を怠るなよ」
アドルが門に手をかける。
この先にいるのは、正体不明の強敵の影響を強く受けた配下に違いない。
アドルが重厚な門を押し開くと、背後で門が激しい音を立てて閉ざされ、封印の鎖が絡みついた。
視界に広がったのは、一面が煮え滾る毒の沼と、天井から吊り下げられた無数の巨大な鎌が揺れる、悪夢のような処刑場。
「さあ、二十層のエリアギミック……そして二十層のボスのお出ましだ」
アドルの剣が、青白い魔力の光を帯びて唸りを上げた。




