第12話:集落の朝と、越えられない壁
ゴブリンキングの巨躯が、無数の光の粒子となって夜の闇に溶けていった。その輝きが消えると同時に、限界まで張り詰めていた糸が、ぷつりと音を立てて切れた。
「……アドル、さん……」
震える声で俺を呼んだミーシャが、力なく膝をつく。そのまま前のめりに倒れ込みそうになる彼女の肩を、俺はボロボロになった身体を軋ませて抱き寄せた。急激なレベルアップに伴う肉体の変容、慣れない指揮、そして何より全精神を注ぎ込んだ最大出力の魔法。彼女の精神力は、とっくに限界の境界線を越えていたのだ。
「よくやった。……あとは俺に任せろ、ミーシャ」
俺の声も、自分でも驚くほど掠れていた。盾を支え続けた左腕はとうに感覚を失い、背中の傷は心臓の鼓動に合わせて激しく脈打っている。俺たちは駆け寄ってきたボルグや村人たちの、地響きのような歓声に包まれながら、お互いの体温を唯一の道標にするようにして、這うように村の中へと戻った。
◇
翌朝。
開け放たれた窓から差し込む、柔らかな陽光で目が覚めた。
鉛のように重い身体はまだ自由を拒んでいたが、昨夜の戦いで感じたあの絶望的な倦怠感だけは、凪のように引いている。隣のベッドに視線を向ければ、そこにはミーシャが静かな寝息を立てて横たわっていた。
やがて、彼女の睫毛が微かに揺れ、その瞳に意識の光が戻る。視線が交わった瞬間、彼女の唇が僅かに綻んだ。
「……生きてる、ね」
「ああ。……無事だ。俺たちも、この村も」
どちらからともなく手が伸び、指を絡ませた。チャットの文字越しでは決して伝わることのなかった、微かな指先の震え、確かな鼓動、そして肌の熱。俺たちは引き寄せ合うようにして、お互いの存在を確認するように深く抱きしめ合った。
死の淵を覗き込んだ後に訪れる、圧倒的な生の実感。そこには言葉にする必要のない、深い連帯感と、二人だけにしか理解できない絆が静かに流れていた。
落ち着いたところで、俺たちは自身の状態を改めて確認した。
「……レベル、9まで上がっているな」
「私もです。……それに、スキル欄に『ウインドカッター』が正式に載っています」
ステータスの向上は、単なる数字の変化以上の高揚感をもたらした。さらに俺は、キングが消えた跡に残されていた戦利品を手に取り、鑑定を飛ばす。それは、夜明けの光を透かして淡く輝く、**『癒しの首飾り(品質B)』**だった。
「微量だが、身につけているだけで生命力が回復する効果があるらしい。ミーシャ、これは君が持っておいてくれ」
俺はついでにそのレシピを確認し、思わず眉間に皺を寄せた。脳内に表示された材料欄には、これまでの汎用素材とは一線を画す、見たこともない項目が並んでいたからだ。
【必要素材:ゴブリンキングの核 ×1、銀の鎖 ×1、他】
「……なるほどな。複製錬金にも、明確な『壁』があるわけだ」
たとえレシピを解析できても、肝心のメイン素材――今回で言えば『キングの核』といった希少な所有物を欠いていれば、その真価を複製することはできない。
さらに、俺はある残酷な事実に気づき、小さく溜息を漏らした。
「ミーシャ、気づいたか? あの激戦の最中も、その後の備蓄用も、俺は百本以上の投槍を量産した。だが……その中に『品質B』は、たったの一本も混じっていなかったんだ」
品質DをCへ引き上げるのは、数打ちゃ当たるの理屈でなんとかなった。だが、CをBへと昇華させる確率は、それとは比較にならないほど絶望的に低い。
かつて作ったあのスープがBになったのは、本当に、奇跡に近い揺らぎの賜物だったのだと痛感する。
今の俺たちにとって、B品質の装備で身を固めるのはまだ遠い夢だ。俺たちは改めて、自分たちの現在地と、この先にある「街」へ向かう必要性を強く認識した。
出発の準備を進める俺たちに、村の長であるボルグが声をかけてくれた。
「これを受け取ってください。街へ向かうなら、必ず役に立つはずです」
差し出されたのは、ずっしりと重い金貨数枚の褒賞と、一通の丁寧な紹介状だった。
「街には、私の古い友人でドランという男がいます。今は小さな雑貨店を営んでいますが、かつては商人ギルドにも顔が利いた男だ。困ったことがあれば、彼を訪ねなさい」
ボルグはさらに、これから向かう街での注意点を、慈しむような、あるいは案じるような声で教えてくれた。
「街を囲む巨大な壁は魔物を防ぎますが、街の中の法は、時に魔物より鋭く牙を剥く。門での入街税、裏通りの治安、そして何より『身分』のない者への冷遇……。ですが、この紹介状があれば、少なくとも不審者扱いされて門前払いされることはないはずです」
俺たちは村の数少ない「まともな布地」を譲り受け、旅の装束を整えた。
何度も複製を繰り返し、素材の揺らぎの中でようやく掴み取った数着の『品質C』のマント。泥臭い自作品ではあるが、これまでのボロボロになった服に比べれば、ずっと「旅人」らしい佇まいになった。
村の入り口には、全村民が集まり、俺たちの出発を惜しむように見送ってくれた。
「お兄ちゃん、本当に行っちゃうの……?」
「……お姉ちゃん、行かないで……」
レオンとリナが、俺たちの服の裾をぎゅっと掴んで離さない。
俺は膝をつき、二人の小さな瞳と同じ高さに合わせて微笑んだ。
「ああ。でも、君たちが勇気を出して守ったこの村は、もう大丈夫だ。胸を張れ」
「僕……お兄ちゃんたちみたいになりたい。強くて、困っている人を助けられる、心の強い旅人になるんだ!」
レオンが涙を乱暴に拭い、力強く宣言する。その隣でリナも、「私も、薬草で皆を助けるの」と健気に頷いた。
「いい夢だ。いつか、立派になった君たちにまた会えるのを、俺も楽しみにしているよ」
ミーシャが二人の首に、小さな革紐のお守りをそっとかけた。俺が余った端材で複製し、ミーシャが丁寧に編み上げたものだ。
「これ、約束の印。……また、会いましょうね」
村を離れ、何度も振り返りながら手を振る。
レオンとリナの小さな影が、地平線の彼方へ完全に見えなくなるまで、俺たちはその背中に向けられた温かな視線を、ずっと感じ続けていた。
「……行きましょう、アドルさん。私たちの、新しい生活へ」
「ああ。ドランの店、だったな。まずはそこを拠点に、この世界のルールを把握しよう」
背後には、死力を尽くして守り抜いた最初の拠点。
前方には、未知の法と権力が支配する巨大な商都。
俺たちの、本当の意味での「攻略」が、ここから始まろうとしていた。




