第108話:届いた便り
真っ白な境界のない空間に、鉄を叩く重く鋭い音が絶え間なく響き渡っていた。
王都からリーネが半ば強引に連行してきた一流鍛冶師ガストンは、火床の熱気に顔を上気させながら、弟子にすら向けないような過酷な怒号をアドルに浴びせ続けている。
「おい、小僧! 手が止まっているぞ! 次は馬上槍の穂先だ。十五分以内に叩き上げろ。昨日より一秒でも遅れたら最初からやり直しだ!」
アドルは返事をする余裕もなかった。
全身の毛穴から滝のような汗が吹き出し、握った槌の感触すら血と油で滑りそうになる。
リーネが課した修行の神髄は、速度の極限化だった。
品質の微細な瑕疵を恐れるあまりに思考を停滞させることを、リーネは最も嫌った。
彼女が求めるのは、思考が指先に届くより早く、脊髄反射で形を成す瞬きの錬金術だった。
槌を振り下ろすたびに、アドルの脳裏には愛する者たちの笑顔がよぎる。
屋敷で待つカミラとルル。
彼女たちの日常を守るためには、この世界の理不尽な構造そのものを上書きできるほどの圧倒的な力がいる。その執念だけが、鉛のように重くなった腕を動かし続けていた。
◇
少し離れた場所では、ミーシャが静寂の中で己の右腕と孤独な対峙を続けていた。
片手での二重螺旋詠唱。
それは本来なら二本の腕で行う魔力の循環を一本の管に押し込むという、正気の沙汰とは思えない苦行だった。
リーネに縛られた二本の紐の感触を右手だけで再現しようとするたびに、反発し合う魔力がミーシャの腕の中で火花を散らし、神経を内側から焼き切ろうと暴れ狂う。
激痛に意識が飛びそうになるが、そのたびに隣で鉄を叩き続けるアドルの背中を見つめた。
昨夜、彼の腕の中で確かめ合った愛の重みが、彼女の心を支えていた。アドルさんの隣に立ちたい、彼を支えたいという狂おしいほどの情熱が、右腕の破壊的な魔力をねじ伏せていく。
◇
修行が始まって五日が経過した頃、不意にリーネが二人の動きを止めた。
「ちょっと、アドル。修行の邪魔なんだけど。さっきから私の結界の周りをしつこくウロウロしている鷹みたいなのがいるのよね。」
リーネは面倒そうに空を指差した。アドルは荒い息を整えながら、ハッとして顔を上げた。
「あ! リーネ師匠、そいつ、ルルの……仲間の召喚士が使っているピヨちゃんです。俺たちの通信用なんです、通せませんか」
「使い魔ね……。まあいいわ、通してあげる。」
リーネが指先を鳴らすと、結界の隙間を縫って一羽の鷹が滑り込んできた。ピヨちゃんは愛らしく鳴くとアドルの肩に止まり、脚に括り付けられた筒を差し出した。中には、カミラとルルからの手紙が入っていた。
「ピヨちゃんも無事でよかった。変な薬投与してすまなかったな」
『アドルさん、ミーシャさん。お二人が発たれてから、私たちは毎日お二人の無事を祈っています。マナバッテリーは無事に取り戻せましたが、そんなことよりも、お二人が怪我をされていないか、まともに食事を摂れているかが心配でなりません。ルルも毎日、玄関の方を向いて「アドルたちはいつ帰ってくるの?」とピヨちゃんに話しかけています。どうか無理をしすぎないでください。私たちは、お二人が元気に帰ってきてくれることだけを願っています』
カミラの几帳面だが不安と慈愛の滲む筆跡と、隅の方に描かれたルルのたどたどしい似顔絵。
それを見た瞬間、アドルの胸の奥が熱くなった。
冷え切った真っ白な空間に、屋敷の暖かな空気と、自分たちを案じる二人の声が直接届いたような気がした。
アドルは愛おしそうに手紙を胸に抱いた。
「……待っててくれ。必ず強くなって帰る」
アドルはミーシャと顔を見合わせると、簡潔に、だが決意を込めて返事を書き記した。
『カミラ、ルル。俺たちは二人とも無事だ。心配をかけてすまない。ここでの修行は厳しいが、二人の存在が何よりの支えになっている。俺はもっと強くなって、必ず二人のもとへ帰る。その時まで、屋敷を頼む。待っていてくれ』
アドルが書き終えた手紙に、ミーシャも『私も元気だよ! 二人のために絶対に強くなるからね!』と一言添えた。
ピヨちゃんはその手紙を受け取ると、二人の想いを乗せて再び空へと舞い上がっていった。それを見送る二人の瞳には、先ほどまでとは違う、静かで深い決意の炎が宿っていた。
◇
そこからの修行の密度は、これまでの比ではなかった。十日が過ぎ、二十日が過ぎ、ついに一ヶ月が経過した。
アドルの動きは、もはや人間のそれではなくなっていた。鉄を叩く音は一つの旋律のようにリズムを刻み、ガストンが戦慄するほどの精度で武具が生み出されていく。だが、鍛冶に没頭しすぎたあまり、予定していた他の修行が圧していた。
「……アドル、鍛冶に時間を使いすぎたわね。でも、その甲斐あって基礎の叩き込みは終わったわ。次は薬作り、木工、そして料理よ。あんたは休まず次へ進みなさい」
リーネの指示に従い、アドルは休む間もなく次の作業台へと向かった。薬草をすり潰し、木材を削り、食材を捌く。それら全てを「瞬き」の速度で行うための、新たな地獄が始まった。
◇
一方で、ミーシャの右腕は赤黒い魔力の紋様に覆われ、一本の腕だけで描き出された鋭い二重螺旋の渦が完成しつつあった。リーネはその様子を見て、満足げに目を細めた。
「ミーシャ。あんたはいい仕上がりね。基礎はもう十分。……ここからは実戦よ。あんたが今手に入れたその片手の術式が、本物の怪物相手にどこまで通用するか……この子たちに教えてもらいなさい」
リーネが指を鳴らした瞬間、ミーシャの前に、かつて禁書庫の廃棄記録で見た歴代の転生者たちの残影が、実体を持って姿を現し始めた。
生気を失った瞳の奥に、かつて勇者と呼ばれた者たちの未練と力が渦巻いている。
アドルが別の場所で生産スキルの限界に挑む中、ミーシャの孤独な、そして苛烈な実戦修行の幕が上がった。




