第106話:真っ白な空間
見渡す限り、境界線のない白が広がっていた。
上下も左右も判然としないその真っ白な空間で、アドルとミーシャは自分たちの存在が希薄になっていくような錯覚に陥る。
そんな二人を前に、リーネは楽しげに指先を弄びながら、冷徹な観察者の瞳で二人を射抜いた。
「さて、まずは聞き取りから始めましょうか。アドル、あんたが今までどうやって戦ってきたのか、その薄っぺらい手札を全部見せてちょうだい」
アドルは一息つき、己の戦い方を淡々と披露し始めた。複製・想像錬成のプロセス、上振れについて、そして事前に道具を準備し、不測の事態に備える戦術。
一つ語るたびに、リーネの眉間の皺が深まっていく。
「……うーん。率直な感想を言っていいかしら? あんた、ずいぶん世界に気を使って生きてるわね。もっとめちゃくちゃできるでしょう? 文明の発展段階とか、その場の理屈とかを無視すれば」
「それは……」
「まあ、あんたなりの矜持があるなら口は出さないけど。そもそも、この世界なんて所詮は劣化したコピーなのよ? そんなに気を使う必要なんてないと思うけどねぇ」
リーネは心底つまらなそうに肩をすくめた。
彼女にとって、この世界を維持することは「義務」であっても「敬意」の対象ではない。
その価値観のズレに、アドルの背筋を冷たい汗が伝う。
「それで、アドル。あんたは自分の弱点を何だと思っているの?」
「……即応能力の欠如だ。俺の錬金術は、どうしても事前の準備に依存する。戦闘中にその場の状況に合わせてタイムリーな対応をするには、どうしても手数が足りない。だからいつも事前に準備して、ミーシャの異空間に入れておかないと勝負にならないんだ」
「待って。ミーシャの……異空間って何?」
不意に、リーネの瞳から退屈の色が消えた。
ミーシャは少し戸惑いながらも、自身のスキルについて説明を始めた。
無限に近い容量、内部の時間停止、そしてアドルとの共有機能。
説明を聞き終えた瞬間、リーネの顔が劇的に変化した。
驚愕に目を見開き、口元を引きつらせ、それから狂おしいほどの歓喜に頬を染める。
「はぁぁ!? なによこれ! 複製錬金なんかより、こっちのスキルの方がよっぽどやばすぎるわよ! えっ、ちょっと……どうなっているの、その空間。構造はどうなっているの? 興味しか湧かないわ……!」
彼女はミーシャに詰め寄り、獲物を見るような目で見つめた。
先ほどまでアドルの「世界初」のスキルに期待していたはずの彼女が、一瞬でミーシャの異能に心を奪われている。
「……アドル、あんたはもういいわ」
「ちょっと……待ってくれよ!」
「冗談よ。それにしても、今回は相当ぶっ飛んだスキルを所持させてきたわね……あちらの神様も、劣化を止めるのに必死なのかしら。こんなの、二人揃えばそれこそ無双できるじゃない。あんたたち、何でそんなに遠慮して生きてきたのよ?」
「……俺たちはあんたとは感覚がズレているんだ。この世界に来たばかりの新参者だぞ。『郷に入っては郷に従え』。この世界のルールに則って、ここで上手く生活していく。まずはそれを基軸にしようと決めていたんだ」
アドルの言葉に、リーネは呆れたように首を振った。
「なるほどね、理解できなくもないわ。逆に世界がぶっ壊れるのを本能で恐れているのかしら。でも大丈夫、私、今まで相当ぶっ飛んだことしてきているけど、世界はまだ形を保っているわ。『禁忌の森の奇跡』とでも言っておけば、大抵のことは何とかなるものよ」
リーネは不敵に笑うと、思考を切り替えるようにポンと手を叩いた。
「さて、アドルの育成方針は決まったわ。次はミーシャ。……正直、個人的にはその異空間保存に興味津々で、それだけで百年前後研究させてもらいたい気分だけど、今は我慢しましょうか。アドルがいなくても、あんただけでも相当強い気がするけれど……。いいわ、ミーシャ。まずはあなたの修行方針から説明するわね」
リーネの瞳に、教育者としての嗜虐的な光が宿る。
「あなたに会得して欲しいのは……そうね、名前を付けるなら『真・二重螺旋詠唱』。あるいは『片手二重螺旋詠唱』かしら」
「片手で……!? そんなこと、できるんですか?」
「ええ。試しにドランにも教えてみたけれど、あの子は出来なかったわ。早々に諦めて『両手でいい』なんて言い出して。でも、あなたならできるはず。これさえできれば、杖を持ったまま、あるいは他の動作をしながら詠唱ができる。取り回しが劇的に変わるわよ」
ミーシャの表情が引き締まる。
片手で二重螺旋ができれば、戦術の幅は無限に広がる。アドルを守るための力が、また一つ見えた気がした。
「アドル、ちょっと待っていなさい。ミーシャに基本修行の仕込みをしてくるわ」
◇
リーネはミーシャを少し離れた場所に連れて行くと、どこからか取り出した二本の紐を弄び始めた。
「ミーシャ、やることはめちゃくちゃシンプルよ。あんた、利き手はどっち?」
「左手、です」
「なら丁度いいわ。右手だけで二重螺旋を作るイメージを、ひたすら訓練するわよ。いきなり最大出力を出そうとしないで、まずは九対一の割合から始めなさい」
リーネはミーシャの右腕を掴むと、その二本の紐を複雑に絡ませながら、螺旋状に巻き付けていった。
「右手で普通に単体詠唱をしながら、もう一本の魔力の流れを、同じ腕の中に螺旋状に……細くていいから、持ってくるイメージをつけるの。ちょっと右腕貸して」
「はい……っ」
リーネの指先がミーシャの肌を這う。紐が締め付けられる感触と共に、魔力の流れるべき「道」が物理的に示されていく。
「よし、こんな感じかしら。この紐を魔力の流れだと思い込みなさい。……ふふ、こうして縛ってみると、なんだかちょっとえっちね」
「な、何を言ってるんですか、リーネ師匠!」
ミーシャは顔を真っ赤にして叫んだが、リーネは「冗談よ」と軽くいなす。
だが、その瞳の奥には一切の妥協がなかった。
「これを毎日意識して。些細な日常の動作でも、常に片手螺旋をイメージするの。分かった? しばらくはこの地味な訓練よ」
「……わかりました。やってみます」
ミーシャの返事を聞き、リーネは満足げに頷いた。しかし、彼女の視線はすでに、後ろで待機しているアドルへと戻っていた。
「ミーシャ、ちょくちょく見に来るから頑張るのね。……さて、アドル。あんたの修行は、もっと根源的なものになるわよ」
リーネがアドルへ歩み寄る。
その足音一つ一つが、アドルの心臓を強く打ち鳴らした。二ヶ月。この「化け物」の隣で生き抜いた時、自分は一体何者になっているのか。
アドルの前に立つリーネが、不気味なほど甘い微笑みを浮かべた。




