第105話:不遜な救世主
沈黙を破ったのは、アドルの低く、だが鋼のように硬い声だった。
「勝手に話を進めるな。俺は世界を救うなんて一言も言っていない」
リーネは意外そうに目を丸くし、それから面白そうに唇を歪めた。その幼い少女の顔に、底知れない老練な笑みが浮かぶ。
「あら。これほどの真実を聞かされて、まだそんなことが言えるの? 普通なら運命の重さに膝を突くか、使命感に酔いしれるものだと思っていたのだけれど」
「言えるさ。俺はただ、守りたい人達と守りたい場所があるだけだ。それ以上でも以下でもない。世界がどうなろうと知ったことか」
その言葉に、リーネは静かに問い返す。その瞳は澄んでいるが、射抜かれた者が蛇に睨まれた蛙のように動けなくなるような、圧倒的な圧力を孕んでいた。
「でも、世界が崩壊してしまっては、あなたが守りたい場所も人も、どのみち消滅するのではないかしら? 庭が燃えれば、そこに咲く花も等しく灰になるのよ」
逃れようのない正論だった。
だが、アドルの瞳から光が消えることはなかった。
彼は、この少女の姿をした管理者が、自分を部品としてしか見ていないことを本能で察していた。
だからこそ、自分の領分を譲るつもりはなかった。
「……では、あなたはここに何をしに来たの?」
「俺は……禁書庫に入る前は、強くなるヒントがここに無いかと思っていた。だが、禁書庫に入った後は、真実を知りたくなった」
「それで、真実を知った今、何を考えているのかしら」
アドルは自嘲気味に笑い、首を振った。
「やはり俺は世界を救うなんて、そんな大それたことは考えられない。俺は英雄じゃない。ただの、欲の深い錬金術師だ」
リーネはふう、と小さく溜息をつき、切り株から立ち上がった。少女の姿に似合わない優雅な仕草で、ワンピースの裾を払う。
「いいわ。じゃあ、こういうのはどうかしら。あなたは元々、強くなるためにここへ来たのよね? ならば、ここで私と二ヶ月、修行なさい。あなたに最善の力を、私なら提供できるわ。かつて幾度となく転生者を育成してきたのだから。……ただ、今回ばかりはなんだか気合が入るわね。複製錬金なんて初めてだもの」
アドルは、値踏みするように自分を見つめるリーネの瞳をじっと見返した。その奥にある、底の見えない深淵に触れるような感覚に肌が粟立つ。
「待て。……おまえに、なんのメリットがある? 世界の管理者だかなんだか知らないが、わざわざ俺を鍛えてやる理由は何だ」
その問いに、リーネは少女らしい無邪気さと、超越者としての冷徹さが同居した笑みを浮かべた。
「私は知識欲の塊なの。世の中のありとあらゆる事柄を知りたい、とにかく知りたい。……あなたのような異端なスキル所持者が、自分の力を使って何を成していくのか。それにとても興味があるのよ。その行く末を、この特等席で見守らせてほしい。それが私の望みであり、報酬よ」
リーネの言葉には、嘘も慈悲もなかった。ただ純粋で、それゆえに恐ろしいまでの好奇心だけがそこにあった。アドルは一度目を閉じ、自らの内にある「守りたいもの」の姿を思い浮かべた。
「……わかった。いいだろう。元々、強くなるためにここへ来たんだ。頼む……俺を鍛えてくれ」
アドルが深く頭を下げると、リーネは満足げに、そして残酷なほど美しく微笑んだ。
「いい覚悟ね。なら、これからはリーネ師匠と呼びなさい。それから私について一つ言っておくわ。私の肉体は仮初、この森からは一歩も出られない、ただの精神生命体のようなもの。錬金術を極めて、ほぼ永続的な命、いや情報を繋ぐ術を手に入れた化け物。そう認識しておきなさい」
化け物、と自称するリーネの顔は、あまりにも美しく、そして空虚だった。
アドルは、目の前の存在が自分たちとは全く異なる次元の倫理観で動いていることを改めて理解し、ごくりと唾を飲み込んだ。
「ミーシャ、あなたはどうするの?」
リーネの視線が、アドルの後ろで固まっていたミーシャへと向けられた。ミーシャは一瞬肩を震わせたが、すぐに強い意志を宿した瞳でリーネを見返した。
「私も……私も、修行をつけて欲しいです! アドルさんの隣にいても、恥ずかしくないように」
「いいわ、ついでにしてあげる。ただし、私はドランと違って魔道士ではない。二重螺旋も構造だけ教えてあとは、あの子の才能だった。まぁ『自分が編み出した!』は拡大解釈がすぎるけれどね」
リーネはクスクスと笑い、意地悪な表情を見せる。
「私はあくまでアドルの修行に専念する。あなたの修行は片手間で、半分は自主練みたいなものよ。それでも構わないかしら?」
「……十分です。お願いします、リーネ師匠!」
ミーシャの覚悟を聞き届けたリーネは、満足げに頷いた。しかし、その直後、彼女の放つ空気が一変した。森全体の木々がざわめき、霧が一段と濃くなる。
「それでは、二人のスキル特性や戦い方を全部私に教えてくれるかしら? 全てよ。隠し事は無し。……それによって、これからあなたたちが味わう地獄の内容が決まるのだから」
リーネの脳裏には、冷徹な計算が巡っていた。
この世界にいる限り、魔族との衝突は避けられない。
ならばアドルは、守るために戦い、必然的に世界を救うことになる。今まで、管理者の駒として戦った勇者たちは魔族と拮抗することしかできなかった。
だが、この複製というイレギュラーを持つ少年なら、撲滅できなかった魔族たちを根絶やしにする未来を見せてくれるのではないか。
今まで一度も見たことのない、エラーの無い清浄な世界の姿を。
「じゃあ……始めましょうか」
リーネが指先を鳴らした瞬間、二人の意識は深い闇へと沈んでいった。
◇
二ヶ月という短くも永い、終わりなき地獄の幕が上がる。
アドルが次に目を覚ました時、そこは色彩を失った、見たこともない無機質な空間だった。立ち尽くすアドルの前に、鞭を手にしたリーネが、これまでで最も美しい「死神」のような微笑みを浮かべて立っていた。
「さあ、始めましょうか、アドル。……あなたが、そのスキルで世界を書き換える日を、私は楽しみにしているわ」




