第102話:一か八かの再召喚
王都の夕闇に消えていく小さな影を、アドルは拳を握りしめたままいつまでも見送っていた。
その背負わせた重荷が、ただの金貨ではなく、大切な仲間たちの命そのものであることを誰よりも理解していたからだ。
「……無事に向こうへたどり着いてくれ。そして、すぐにマナバッテリーを買い戻し、全部上手くいってくれ……」
アドルは祈った。
科学や錬金術という理屈の世界に身を置く彼が、これほどまでに形のないものに縋るのは初めてのことだった。
「アドルさん」
ミーシャがそっと寄り添い、共に手を合わせる。
二人の祈りが、冷たい風に乗って空へと吸い込まれていった。
「マリア、かなり無茶を言ったが、本当に助かった。……ありがとう」
振り返り、アドルは祭壇の前に立つシスターに深く頭を下げた。
マリアは冷ややかな、けれどどこか寂しげな瞳を向け、小さく鼻で笑った。
「勘違いしないで。これは取引のようなものよ。いつか必ずこの借りは返してもらうわ。……あなたの命を賭けるその時にね」
「ああ、わかっている。俺は約束は守る男だ」
「ここで祈っていても仕方ないですよ、アドルさん」
ミーシャがアドルの袖を引き、図書館の方へと視線を促す。
「なるべく早く帰るために、禁書庫へ急ぎましょう。……それが、私たちが今できる最善のはずです」
「……ああ、そうだな。行こう」
二人は再び、王都の闇の中へと足を進めた。
◇
一方、王都の空。
薬の影響で異常なまでの筋力と動悸に支配されたピヨちゃんは、金貨二百枚という殺人的な重量を必死に羽ばたきに変えていた。
【期限まで残り:24時間】
移動距離は絶望的なまでに長い。
本来、王都から屋敷までは片道で一日半はかかる。アドルたちが準備に半日を費やしたことを考えれば、単純計算でも三日の猶予には間に合わない。
空を裂く風は冷たく、ピヨちゃんの翼に容赦なく叩きつけられる。
◇
その頃、リュステリアの屋敷では、音を立てて冷気が忍び寄っていた。
「寒い……カミラさん……大丈夫……?」
暗い部屋。
蝋燭の灯りすら消えかかったリビングで、ルルはカミラの腕の中で震えていた。
マナバッテリーのない屋敷は、ただの冷えた石造りの棺桶と化している。
「うん……私は大丈夫よ。まだ二日目じゃない。……でも、もう明日には……ギルバートが来る」
カミラはルルの冷たくなった手を必死にさすった。
「どんなに早くても、王都まではピヨちゃん、一日くらいはかかると思うなの……。アドルさんがめちゃくちゃ上手くやってくれてても、帰りに一日とかかると考えると……間に合わないかもなの……」
ルルの言葉は残酷な真実を突いていた。
往路だけで三十六時間、王都での滞在に十二時間。合計ですでに二日が経過している。
復路にまた三十六時間かかれば、期限の三日間……七十二時間を、半日以上もオーバーしてしまうのだ。
「ご主人様……信じています。……だめなメイドで、ごめんなさい……」
カミラは自責の念に押し潰されそうになりながら、ルルを抱きしめたまま凍えるような夜を明かした。
【期限まで残り:8時間】
夜が明け、太陽が地平線から顔を出した頃。
ピヨちゃんは、屋敷までの帰路の半分を過ぎたあたりを飛行していた。
最初は薬の効果で元気に飛んでいたが、時間が経つにつれ、羽ばたきは重く、高度は徐々に落ち始めていた。
アドルには、薬の正確な持続時間を検証する時間などなかった。
クワァ……クワッ……。
突如、ピヨちゃんの筋肉から力が抜け、視界がぐらりと揺れた。薬の反動が全身を襲い、心臓が悲鳴を上げる。
猛スピードで飛行していたピヨちゃんは、制御を失い、道沿いの茂みへと激しく墜落した。
ガサガサッ!!
墜落の衝撃で、アドルが持たせていた予備の回復薬Bの瓶が砕け、その中身がピヨちゃんの傷ついた体に降りかかった。
薬効のおかげでなんとか一命は取り留めたものの、もう再び羽ばたく力は残っていない。
ピヨちゃんは荒い息を吐きながら、金貨の袋を抱えるようにしてその場に横たわってしまった。
【期限まで残り:1時間】
ギルバートが取り立てに来るまで、残り一時間を切っていた。
屋敷の前にはすでに彼の取り巻きの笑い声が聞こえ始めている。
「カミラさん……もう、間に合わないかもなの……」
「ルルちゃん、諦めちゃだめよ……」
カミラはそう口にしながらも、その身体は冷え切り、精神も憔悴しきっていた。今にも崩れ落ちそうなのを、強がりだけで支えている。
「ねぇ……カミラさん」
「ん?」
「ルルね、アドルさんを信じてみていいかな?」
「それは、私もずっと信じているわよ」
「本当に、何かを送り返してくれているのなら……ピヨちゃん、今頃どこかを飛んでるはずなの。時間はかかっているけど、近くまでは来てるかもしれないなの」
ルルの瞳に、微かな、けれど鋭い光が宿った。
「えっと……これは賭けなんだけど……不運な私がしたらダメかもなんだけど……。今、ピヨちゃんを『消喚』してから再び『召喚』すれば、ピヨちゃんは今の状態で、ここ(ルルの目の前)に現れるはずなの」
カミラの目が驚愕に見開かれた。
「召喚獣の性質を利用するっていうの……?」
「でも、仮にまだ何も持ってないとか、ただ向こうで待機してただけなら、ピヨちゃんが無傷で現れるだけなの。何も解決しないかもしれない……でも!」
「……わかったわ。どのみち、あと一時間で全てを奪われるのなら、座して待つよりはずっといい。……やりましょう、ルルちゃん」
カミラはルルの肩を強く叩いた。
「お願い。ご主人様……私たちを助けて」
ルルは深く息を吸い込み、右手を突き出した。
「いくなのよ……消喚! ……からの……ピヨちゃん、召喚!!」
パァン! という空間が弾ける音と共に、目の前にボロボロになり、ぐったりと横たわったピヨちゃんが現れた。
その脚には、あまりにも重厚な二つの革袋と、一枚の紙片がしっかりと結びつけられていた。
「カミラさん!! やったなの!!」
「金貨……! 本当に届いたんだわ……!」
ルルは駆け寄り、泥だらけのピヨちゃんを抱き上げた。
「ピヨちゃん……うぅ……こんなにボロボロで……よくやったなの、ありがとうなの……。……カミラさん、あたしピヨちゃんの治療をするなの。あとの支払いは任せるなの! アドルさんは、やっぱりアドルさんだったの! 凄いなの!!」
カミラは震える手で、革袋に混じっていた手紙を広げた。
『カミラ、ルル。すまない、俺の不在のせいでこんな思いをさせてしまった。情けない主人を許してくれ。必ずすぐに帰る。その時は、ギルバートをただでは済まさないと誓う。まずは早急にマナバッテリーを買い戻せ。今ならまだ質にあるはずだ。それから暖を取って、飯を食え。……本当に、すまなかった。』
手紙には何度も謝罪の言葉が並んでいた。
カミラはそれを読みながら、堪えていた涙を止めどなく流した。
アドル自身が、間に合わないかもしれない恐怖と戦いながら、どれほどの無茶をしてこれを送ったのか。
その文字の乱れが、すべてを物語っていた。
「……バカね、アドルさん。謝るのは、こっちの方なのに……」
カミラは涙を拭うと、届いた金貨の袋をしっかりと掴んだ。
ギルバートが門を叩く音が聞こえる。
だが、今のカミラに恐れはなかった。




