第101話:遠き地の悲鳴
王立地下図書館の重厚な石扉の前。アドルは、マリアから授かった漆黒の手袋を嵌め直し、冷たい石の感触を指先に感じていた。
認識阻害の術式が右手の紋章を覆い、忌まわしい疼きを外界から遮断している。
「よし、禁書庫に入るか……。あそこに、俺たちが知るべき真実があるはずだ」
アドルが覚悟を決め、一歩踏み出そうとしたその時だった。王都の高く澄んだ青空を切り裂くように、一筋の影が猛スピードで急降下してきた。
「キュィィィ!」
「……っ、ルルの鷹か!?」
アドルの差し出した腕に、一羽の鷹が激しい長距離飛行で羽をボロボロに乱しながら降り立った。
その脚には、小さな革袋が幾重にも括り付けられている。
アドルは嫌な予感を抑えきれず、震える手でそれらを解いた。
袋の中から転がり出たのは、アドルがかつて研究用に収集していた高純度の宝石数点と、希少な金属片。そして、走り書きされた一枚の羊皮紙だった。
乱れた筆跡、そして所々に涙の跡のように滲んだ手紙。そこに綴られた言葉を一読した瞬間、アドルの全身から血の気が引いた。
『アドルさん、ごめんなさい。私たちの力不足です。ギルバートが領主様の名前を騙り、金貨二百枚という法外な特別税を要求してきました。猶予はわずか三日。もう屋敷のマナバッテリーは売却しましたが、それでも全く足りません。今夜から、屋敷は凍えるような寒さになります。これを換金して、どうか、助けてください。』
「なんてことだ……。あいつ、そこまでやりやがったのか……!」
アドルは手紙を握りつぶし、その拳を石壁に叩きつけた。
鈍い衝撃音が回廊に響き渡る。
横で内容を覗き込んでいたミーシャも、顔を青ざめさせて悲鳴に近い声を上げた。
「マナバッテリーを売った……!? 正気ですか!? あれがなければ結界も照明も温度管理もすべて消える……。すぐになんとかしないと、屋敷があっても、これじゃ二人が凍え死んでしまいますよ!」
アドルの脳裏に、真っ暗で静まり返った屋敷の中、たった一本の蝋燭を囲んで震えるカミラとルルの姿が鮮明に浮かび上がった。
守るべき場所が、自分の不在の間に蹂躙されている。その事実が、アドルの腹の底で煮え滾るような怒りへと変わった。
「禁書庫の調査は後回しだ。……ミーシャ、あれを異空間から出してくれ」
「えっ……あれって?」
「ダンジョン十層の主を倒した時に手に入れた、あの謎の素材だ。鑑定すら通らず、何に使えるかも分からなかった……深淵の燐核だよ」
ミーシャが慌てて魔法空間を展開し、鈍い紫色の光を放つ、脈打つような不気味な鉱石を取り出した。それは、触れる者の神経を逆撫でするような異質な魔力を放ち続けている。
「これと、カミラさんたちが送ってくれた素材……全部合わせれば足りるはずだ。事情が話せそうなマリアのところへ急ごう!」
◇
二人は石畳を全力で駆け抜け、再びシスター・マリアのいる教会へと飛び込んだ。
「マリア! 急ぎで金貨が、それも大量に必要なんだ!」
アドルは肩で息をしながら、テーブルの上に、禍々しい輝きを放つ深淵の燐核と、送られてきた宝石類を叩きつけた。
「そんなに慌てて一体この短時間に何があったのよ、とりあえず落ち着いて」
「これを売りたい。即金で金貨二百枚……多少買い叩かれても構わない、今日中に、今すぐ現金を屋敷へ送り返す必要があるんだ!」
マリアはその燐核を見た瞬間、驚愕に目を見開いた。
「……これ、深淵の燐核? 伝説の錬金術師ですら探すのを諦めたと言われている、高純度魔力の凝縮体……。なぜこんなものを、あなたが持っているの?」
彼女は震える指先で結晶に触れ、その奔流するような魔力の波動に顔を顰めた。
「……アドルさん。正直に言うわね。これをまっとうな宝石商や魔道具屋に持ち込めば、金貨五百枚以上の価値がつくでしょう。でも、そんな大金を即座に支払える商人はこの王都にはいないわ。鑑定だけで三日はかかる」
「三日じゃ間に合わないんだ! 何とかしてくれ!」
マリアはアドルの必死な瞳を見つめ、意を決したように唇を噛んだ。
「……一つだけ、提案があるわ。私が個人的に繋がっている闇の収集家に、私の名義でこれを流すの。私の信用を担保にすれば、今すぐ金貨二百枚をキャッシュで用意させられるわ。……いいえ、無理矢理にでも用意させる」
「二百枚……! それだけあれば、全部解決できる!」
「ただし、条件があるわよ。この燐核の所有権は、永久にその収集家のものになる。そして、今回の件であなたは私に大きな貸しを一つ作ることになるわ。…………それでも、いいのね?」
「……ああ。カミラとルルを、俺たちの帰る場所を守れるなら、なんだってしてやる。今すぐ手続きを!」
マリアが裏のルートへ合図を送ると、程なくして重厚な革袋が二つ用意された。中にはぎっしりと、二百枚の金貨が詰まっている。
「さて、これをどう届けるつもり? 鷹一羽に金貨二百枚……重量にして三キロ近いわ。そんなものを括り付けて飛べば、数キロも行かずに墜落するのが関の山よ」
マリアの冷静な指摘に、アドルは唇を噛んだ。魔法で重さを消すような芸当は、今の自分にはできない。物理的な重さは、物理的な力でねじ伏せるしかない。
「マリア、王都で一番強力な『獣用の筋力増強薬』が欲しい。一時的に猛禽類の限界を超えさせるようなやつだ」
「……本気なの? そんなものを投与すれば、その薬効果が切れた瞬間墜落するわよ?」
「わかっている。だが、今はこれしか道がないんだ」
アドルはマリアに案内された近隣の薬師へ走り、高額な金貨と引き換えに、琥珀色の怪しげな薬液が入った小瓶を手に入れた。それは本来、闘技場の猛獣に打つための、禁忌の薬だった。
教会に戻ったアドルは、ルルの鷹を優しく撫でた。長旅で疲れ果てているはずの鳥は、それでも主の危機を察しているのか、鋭い眼光を失っていない。
「……すまない。無茶をさせる」
アドルは鷹の脚に、金貨を可能な限り重心が偏らないように配置した特製のハーネスを装着した。そして、震える手で小瓶の薬液を肉に刷り込み、無理やり飲ませる。
薬が回るにつれ、鷹の筋肉が不自然に隆起し、瞳が充血したような赤みを帯びていった。激しく脈打つ鼓動が、アドルの掌を通しても伝わってくる。
「せめてもの……これでよし」
アドルは回復薬Bを、クチバシで突つける位置へ二つくくりつけた。
「ピヨちゃん、頼んだぞ。……あいつらを、俺たちの家を助けてやってくれ」
アドルの切実な願いを乗せて、限界まで膨れ上がった力を振り絞るように、鷹が王都の空へと飛び出した。金貨二百枚という、鳥の体躯にはあまりにも残酷な重みを背負いながら、その影は夕闇の彼方へと消えていく。
アドルは、自分たちの未来を運ぶその小さな翼が、どうか屋敷までもってくれることを、祈るように見送るしかなかった。




