throwback
幼気な楓が紅葉へと酸化した。
頻りに往来する列車の重々しい金属音が、僕の脚をぐわぐわと揺らしている。改札へ吸い込まれる人々を横目に、僕は足踏みをしていた。雑巾を捻るように決心するも少しの勇気も漲らず、依然としてあの境界線を越える気にならないのである。あの無機質な機械を跨いでしまうと、僕がここでないどこか遠くへ往くことを強制されるような気になるのだ。
電車と云うのは、僕の中では所詮、ただの移動手段に過ぎなかった。
幾らかの金銭を支払い、鉄の箱に食べられ、目的地にて吐き出される。嫌味な言い方をするならば、おおよそこんな具合の認識であった。しかし、数ヶ月前にとある女性宅にて、『銀河鉄道の夜』を十年振りに読み返したことをきっかけに、僕の認識下で「電車」の名を持つ概念が、浪漫的ファンタスティックという真逆の性格を有する「銀河鉄道」と、ぴったり背中合わせになってしまったのである。以来、僕は文語として「列車」を、口語としては「電車」を使い分けるようになった。神妙な面持ちでページをめくり続ける僕を、すぐそばで寝転がる女性は不思議そうに、よりも、不審がった態度で顔を覗き込んだのだ。
「それ、そんなに面白い?」
肩に届かぬ髪も、シーツの波に併せて揺られれば、幾分か艶っぽく視える。これは女という性のみが持ち得る強力な武器なのだと思案している。けれども、貝に沈み蝎を観測する当時の僕にとって、その言葉は悪手であった。
「うん。」
僕は小口を撫でながら突き放すように返した。すかさず、また。
「私、まだ最後まで読んだことないのよね。」
「そうなんだ。どの辺まで読んだの?」
「えーっとぉ。ラッコが出てくるとこまでかな。」
会話に乗ったことを後悔した。淡白な回答を繰り返す僕に愛想を尽かしたのか、女性は枕に埋めた頭を壁側に半回転させ、次第に人知れず静かに眠りに就いた。半開きの窓から侵入した風は初夏の名に似合わず冷ややかであったが、わたり鳥が乗る交響楽の風に出逢えた気がして、むしろ快く呼吸ができたほどである。
僕にとっての帰省とは、少しの鬱念を宿すものではなかった。
改札前に流れる路線の案内に耳を澄ませ、懐かしい単語を慣れ親しんだイントネーションで聞き取り、鞄を持ち上げると、学生時代に腕を通したブレザーの匂いと部室の床の柔らかさに浸ることができるのだ。あの頃と比べ、広島駅は随分と様変わりをしたようだ。南口の階段を降りた僕たちを出迎える眩しい照明は、今でこそ山陽の字にふさわしい色で輝いているが、以前のような工事現場の隙間を縫う薄暗い通路も、僕は好きだった。鼠になった気分で、重機と資機材の膝下を小走りするのも悪くなかった。
なのにと云うべきか、だからと云うべきか。
街が足音と体温を徐々にすり減らしてゆく様子は、僕を情動的に惑わせるつもりだと錯覚してしまうのだ。力の抜けた掘削機は腕を伸ばし、生花を愛撫する夢を見る。ショーウィンドウの特等席で澄ましていたモデルは、日中の輝きをほとほと失ってしまい、くたびれた男の背広を羨望する。天邪鬼な田舎者はコンクリートの臭いに辟易し、結果的に列車夜行に逃走した。
山間をゆらゆら駆ける列車の内側は、海田市駅を過ぎたあたりから沈黙を貫いていた。僕を含め、乗客の顔には等しく疲労が張り付いており、宿主の瞼を地面へ地面へと引っ張っている。或る者は抗おうと舟を漕ぎ、また或る者はあられもない体勢で寝息を吸う。変に目が冴えていた僕も、実は睡魔の手中にいたのだと知るのは、列車が本郷・三原間のトンネルを抜け、車掌が乗り換えの案内をする頃であった。
車窓いっぱいに揺れる三原市街の灯りは、まるで森の隙間に咲く野花のように見える。
一体いつから、僕はこのような懐古主義に陥ってしまったのだろうか。不可逆的な情景を観賞するばかり、瞳に写る現像を受け入れようとしない。暗闇に移るパルスから、因島大橋の形を浮かべられるほどだ。まもなくして耳に入る「尾道」の声に身体が反応したことも、僕の酸化にノスタルジックが干渉している紛れもない証左である。
去った列車の気圧差が生み出した地元の風は、腹から淋しさを汲み上げ、鼻と眉間をくすぐった。自動販売機はぴかぴかと僕へ微笑みかけ、踏切のサイレンはおかえりと告げるようだ。
夜の尾道の海は、やはり美しい黒をしている。
駅舎が建て替えられても、旧展望台が消えても、市役所が眩しく姿を変えても、立て看板の表記が変わっても、尾道水道だけは変わらず客人を迎えるのだ。空っぽな交差点を照らす赤信号は、律儀に秩序を取り仕切ろうとする唯一無二の職人である。彼の明かりは芝生の上を何度も反射し、やがて幽光となって銅体の皺に帰宅する。
尾道水道を挟んだ向島に佇むクレーンのライトアップが水面に溶け、海風に併せて揺れ煌めいた。飛べない僕を慰めるかのように。その名前の無いノスタルジックの蛹に「溶灯」と名付け、厩舎へ閉じ込める事を決めた。楔山の陰を下る列車から逃げるように繭へ帰巣する僕を見送って、裸婦は何を思ったのだろう。




