(1/8) 下へ下へと沈む波
運用担当者は疲れていた。日々の定型業務がいつもより多く予定時間をおしている。3交代制の深夜帯の独特の倦怠感もあっただろう。いや、実家から面倒な電話がありよく寝れなかったせいか。
そのようことを考えながら担当者は定例のバックアップコマンドを打ち込んだ。今日は少し特殊日なので一部コマンドの修正が必要だった。これもたまにある事だから問題ない。
担当者自身が自分に問題ないと言い聞かせる。もうすぐ朝だ。
そう、何かトラブルが起きるのはこういうときだ。
あぁ、人前に立って挨拶するこの感じ、中学校で転校したときに似ているな、と笹崎太郎は感じていた。今日は担任ではなく、隣でしゃべっているのはこのオフィスの部長だが。
「と言うわけで、今日からチームに参加する笹崎君だ。大学をでたばかりだが即戦力として期待していいい。では、笹崎君から一言挨拶を良いかな」
「笹崎太郎です。色々とご迷惑をお掛けするかもしれませんが一生懸命やりますので、どうか」
と、言いかけた所で、
はい、はい、はい、とチーム側から背の高い女性が手を上げながら出てくる。
髪が長く綺麗な人だ。
「そんな、ありきたりの挨拶やめようよ。君は何の言語が得意?」
無表情で顔を進太郎のすぐ眼の前に近付けてくる。進太郎は思わず後ずさりした。
ち、近い、と引きつる進太郎にさらに顔を近づける美女。
「は~い、リリーちゃん、お願いだから、そこまでにしてね。新人君がおびえてるでしょ〜」
と、とぼけたような声でゆっくり立ち上がる男性。35歳くらいだろうか。眼鏡をかけた長身だ。眼が細くてよく表情が読めない。
「じゃぁ、うちのチームを紹介するね。僕は白鳥涼、いちおうチームリーダーやってるよ。そこの怖いお姉さんは、大神リリー。ネットワークのプロだよ」
「よろしくね」
と笹崎を見下ろすようにして手を差し出す美女の大神。
握手でいいのか?と少しビクビクしながら握手する笹崎。
「うん、あとの2人は自己紹介でよろしく」
そう言われて、巨漢の男が立ち上がる。縦横に大きい熊のような男だ。ここには大きな人間しかいないのだろうか。などと、つまらない考えが笹崎の頭をよぎる
「イ・ジェヨンだ。専門分野はデータベース。よろしく」
「ジェヨンは韓国の有名工科大出身だよ。あと、ここにいるのは美咲ちゃんだけだね」
そう言われて、メガネをかけた小柄な女性が立ち上がる。
あ、自分と同じくらいの小さな人もいた。と笹崎は少し安堵する。
「小鹿美咲です」声も小さい。
「実はあと数名いるんだけど、めったにオフィスには出てこないんだよね。そのうち紹介するよ」
「てか、白鳥チーフさぁ。今、トオルちゃんはどこにいるんだっけ?」
と大神リリーが白鳥に言う。
「さあ〜、まだ山形じゃないかなぁ、先々月、山形から呼び出されて来たじゃない。まぁ、彼はどこにいてもキチンとタスクをこなすから問題ないよね」
「まあ、そうだけどね。うん、奴は仕事だけはできる。日常生活はクソだけど」
と大神が少し迫力ある笑顔を見せる。
その時、白鳥の胸ポケットに入れていたスマフォが振動する。
スマフォを取って白鳥が話を聞いている。
その間、笹崎をリリー、ジェヨン、美咲の3人が囲んで質問攻めにしている。
緊張しつつ笹崎が答えていたら白鳥の電話が終わったようだ。
表情が読みにくいがニコニコしているようにも見える。
「うーーん、髙﨑山製鐵所。運用担当者がやらかして生産管理のDBを壊したって。おまけに壊した際に動揺して復旧手順を誤り、バックアップデータも壊したみたい。やってくれるね。ハハハ」
「クソじゃん」
「リリーちゃん、怖いよ〜。とにかく今のままだと今日の生産が止まるので大ピンチ。で、僕たちにデータ復旧に来て欲しいってのが、今の電話」
「じゃあ、行きますよ」
と熊のようなジェヨンがノートパソコンを片手に持って言う。
それ、ノートパソコンというよりスマフォに見えるなぁと笹崎が考えていたら白鳥チーフが言う。
「今回は、ジェヨンとリリーちゃん。それから笹崎君お願いね」
質問する間もなく、リリーの「行くよ!」という言葉に慌てて笹崎もついて行く。
---------------------------------------------------------------------------------
「ひどいわね」
「笑っちまうぐらいだな」
現場についた3人が作業机でモニターをのぞき込んでいる。
「時間が無いからトットとやりましょ。笹崎君、このファイルのバイナリー形式知ってる?」
「はい、わかります」
「じゃあ、セクタ数で3分割して復旧させたものを最後にまとめましょう」
「まずは俺が復旧用プログラムを書こう。それを改造しながら使ってくれ」とジェヨン。
3人で作業にかかる。自分は新人のはずなんだけど、いきなり現場に放り込まれて本番作業するなんて。変わった部門だな、と笹崎は戸惑いもしたがバイナリーファイルを見るとすぐにデータの海に集中し始めた。
壊れ方がいろいろだからジェヨンさんのプログラムを少しずつ変更しながら適用していく。少しずつだがデータファイルが正しい状態になりつつあるのが感じられる。
そのとき、ジェヨンのスマフォがなる。少し話した後、軽い感じで言う。
「ABC証券でDB障害だそうだ。すまんが1時間ほど席を外す」
「え〜、ここどうするのよ」
「1時間で戻ればタイムリミットまで、もう1時間はあるだろ」
「全く、早く戻ってきてよ」
「了解」
と作業部屋を出ていくジェヨン。
データ量から見て元々ギリギリの時間と思ったが1時間も離席して大丈夫なんだろうか、と笹崎の頭によぎったが自分の担当分をこなす事に集中しているため、他の思考を脳内から追い出す。
データの海の中に深く深く入っていく感じになる。データの事以外は何も目にはいらない。
今度はリリーのスマフォがなる。
「あぁ!! 何言ってんのよ。今トンデもないことになんてるんだから」
とスマフォに怒鳴りながらリリーも部屋を出ていく。
笹崎はちらりと横目に見たがすぐに自分のデータに集中する。今日は特に集中できる。この復旧作業は面白い。ジェヨンさんのプログラムは使いやすい。手と頭がどんどん動く。
笹崎はさらに集中していた。時間も忘れていた。ふと気がつくと本番業務開始の1時間前になっていた。
ジェヨンとリリーはまだ戻っていなかった。さすがにマズいのでは無いだろうか。時間は足りるのか?
多分、自分はあと1時間でギリギリだ。他の人の分をカバーできるだろうか。もっとペースを上げてやれる所までやってみよう。
データの波は下へ下へと沈み、笹崎の思考も深く潜っていく。気持ちがいい。
笹崎は全く気づいていなかったが本番30分前になってジェヨンとリリーは戻ってきた。
ジェヨンが笹崎のモニターをのぞき込んでニコリとわらって、笹崎の肩を叩く。
リリーは肩をすくめている。リリーも笑っているようだ。
-----------------------------------------------------------------------------------------
笹崎が高校2年生生のとき、ふと気になって高次元の3変数の方程式の一般解を手で求めてみようと思ったことがある。
式を展開しつづけても終わらない。ノートに書いていたら10ページをすぐに超えた。
「笹崎君、何しているの」と覗き込んだ女子生徒がノート全面に細かく書き込んだ数式を見てたじろいだのをおぼえている。
その当時、変わり者認定されていたから他人がたじろいでも気にはならない。
ただ、もっと別の面も見てくれればいいのにな、とは思っていた。
それでも、その時、笹崎は計算を続けた。授業中も続けて1日かかっても解決せず、ノートの最後まで式を書いたところでやめた。ちょうど放課後になっていた。
今日は式に集中できたな、と考えていた。
そう。今、データ復旧のため回復作業を続けている。これが間に合うかどうかわからない。それでも笹崎は心地よい計算の海に沈んでいた。
集中できている。心地よい。
-----------------------------------------------------------------------------------------
結論から言うと、データ復旧は本番開始前に終わり、本番は無事に開始された。
ジェヨンが復旧プログラムを自動修正する上位プログラムとさらに上位の制御プログラムを15分で書いて3分でデータを復旧させたからだ。
「メタプログラムのメタプログラム駆動。略してメタメタ作戦」
と自慢げにジェヨンさんは語っていたけどリリーさんは冷笑していた。
あ、そういうやり方があったなと笹崎は途中で気づいたが、不思議と自分の感情が乱れたりはしなかった。
気づかなかった自分を悔しいとは思わなかったし、最初にその方針を教えてくれなかったジェヨンに対して怒りなども起きなかった。
データに集中できていて気持ち良かったからか、理由はよくわからない。
ただ、おもしろい人たちだなと思った。ここは自分がいてもいい場所なのかもしれない。
そのような事を笹崎は考えていた。
白鳥チーフとリリー、ジェヨンが会議室で話している。
「本当にお疲れ様でした、さすがだね~」
「すぐ、パターンが見えたから問題なしでしたよ」
「ところで、笹崎君はどうでしたぁ?」
「できるけど、少し真面目すぎるかもね。ジェヨンもそう思ったでしょう?」
「真面目すぎるのはそうだけど、リリー、彼が手で復旧させたデータを見たか?」
「そんなの、見てないわよ」
「バイナリーチェックしたけど彼がやった分はミスが0件だった。おまけに自分の割り当て分プラス40%の量を対応していた」
「それで?」
「本人が認識しているか、分からないがあの集中力は普通じゃないよな」
うんうん、と白鳥が嬉しそうに頷いている。
「そうなんだよ~、彼はゾーンに入ると化け物のようなロジカル思考ができるみたいなんですよね~、おもしろいでしょう」
「いや、真面目すぎて面白くないって。あの子、絶対に彼女なんかいないでしょう。今度私のトモダチを紹介しようかしら」
「リリー。雌ライオンのの群れに子羊を放り込むようなことはやめろよ」
「なんでよ、何事も経験よ」
白鳥チーフが手を叩く。
「はいはい、冗談はそのへんで。君たちのチームは皆、化け物・くせ者ぞろいだから、おてやわらかによろしくね〜」
「了解っス」
「はい、了解。ちゃんと面倒見るから心配しないで。チーフ」
大丈夫かなぁ、と笑いながら解散を促す白鳥チーフ。
リリーとジェヨンも笑いながら部屋を後にする。