表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
96/102

有閑閑話『島見の「長野が発祥?」な昼休み』

昼休みの静かな空間に、キーボードを叩く軽快な音が響いていた。

「え?」

島見杏果は思わず声を漏らした。

モニターに表示された記事の見出し。

《長野県が高速インターネット発祥の地》

「長野県……?」

その単語に違和感を覚え、杏果は椅子を回転させた。

「戸隠さん、ちょっといいですか?」

窓際で古い報告書を読んでいた戸隠は、眼鏡の奥からゆっくり視線を上げた。

「どうした?」

「これ、見てください。長野県が高速インターネットの発祥って書いてあるんですけど……東京とかじゃなくて?」

戸隠は記事を一瞥し、ふっと小さく笑った。

「それは松本主任電波監視官が詳しい。その頃彼が事務をしていたはずだ…」

そう言うと、戸隠は何事もなかったようにページをめくる。

杏果は少しだけ口を尖らせた。

「……松本主任か」

まるで厄介な話題を投げ渡されたような気分だったが、好奇心には勝てない。

杏果は1階の待合室へ向かった。

彼は昼休みに自販機のドリップコーヒーを待合室のソファに座り、飲んでいることが多かったからだ。

「主任、質問です」

「おっ。珍しいな。どうした」

「長野県が高速インターネット発祥の地って、本当なんですか?」

松本はコーヒーを一旦飲むのを止め、ゆっくりと椅子にもたれた。

「どこまでの記事を読んだ?」

「ADSLの実験が伊那市で成功したってところまでです」

松本は一瞬だけ目を細めた。

「……なるほど。そこから話すか」

「まず前提だ」

松本はゆっくり話だした。

「1990年代半ば、日本の“本命”はISDNだった」

「デジタル回線ですよね?」

「ああ。当時の通信行政は、音声とデータを統合するISDNを家庭用通信の本命と位置づけていた。当時は動画はほとんどなく、テキストと低画質な画像…そして、短い音声が主流だったから、128kbps程度で十分だと思われていたからね。さて…全国の電話網は、公社時代から整備された銅線網を基盤に進化してきた。そこにデジタル化を重ねるのが王道だった」

「だから高速インターネットも、その延長線上で考えられてた?」

「その通りだ」

松本は続ける。

「そこへ現れたのがADSLだ」

杏果は頷く。

「同じ銅線を使うけど、高い周波数を重ねて通信する技術」

「よく勉強しているな」

「少しだけ」

松本は小さく笑った。

「だが問題があった。ADSLはISDNと同じケーブル束の中にあると、干渉する可能性があった」

「ノイズ問題……」

「そうだ。理論上、ISDNの品質に影響を与える恐れがある。ISDN推進側から見れば“リスク”だ」

「だからNTTは慎重だった?」

「推している方式に悪影響を及ぼすかもしれない技術を、すぐに歓迎はできない」

室内が静かになる。

「じゃあ、どうして長野なんです?」

松本は壁の地図を指した。

「伊那市」

「山ですよね」

「山だ。だがそこには特殊な事情があった」

1956年から続く、有線放送電話網。

農業協同組合が独自に整備した、地域完結型の銅線ネットワーク。

農家同士の連絡、営農情報、地域放送。

それは全国電話網とは別に存在していた。

「伊那市…いや長野県内の各所には、その網が丸ごと残っていた…というか、今も僅かだが残っている」

「全国網とは切り離されてる……」

「だから干渉問題を気にせず実験ができた」

杏果の目がわずかに大きくなる。

「1997年9月。伊那市有線放送農業協同組合の本局と八つの支局でADSL実験が始まった」

「そんな昔に」

「実験では1.5Mbps程度と今の光ファイバーやLTEから比べたら低速なのだが、それでも参加した技術者は驚いた。“まるでLANのようだ”と」

当時の常識はダイヤルアップ。接続のたびに音が鳴り、速度は遅く、電話は使えない。

それが常時接続、高速通信。

「革命だった」

杏果は息を呑む。

「でも、それだけで全国には広がらないですよね」

「その通りだ」

松本は次の資料を取り出す。

「ここで都市側の動きが出てくる」

東京めたりっく通信。

既存の大手が慎重な中、実験に参加しADSLを商用化しようとしたベンチャー。

「彼らは銅線を借り、ADSLサービスを始めた」

「ISDNとぶつかるのに?」

「だから論争になった。干渉、設備開放、制度設計」

杏果は静かに言う。

「技術の戦いじゃなくて、利害の戦い」

「両方だ」

松本は机に指を置く。

「利用者は速くて安い方を選ぶ。市場は正直だ」

1999年。

NTTもADSL参入。そして、東京めたりっく通信は孫正義率いるソフトバンクに買収され、Yahoo!BBとして参入し競争は加速。

料金は下がり、速度は上がる。

日本は一気にブロードバンド普及国へと変わっていった。

「だから“発祥”というのは少し誇張だ」

松本は言う。

「だが、技術実証の原点が伊那にあったのは事実だ」

杏果は窓の外を見る。

「山の中から始まった」

「守られてきたローカルインフラが、思わぬ形で未来を支えた」

沈黙。

やがて杏果がぽつりと呟く。

「もし伊那に有線放送電話が残ってなかったら?」

「もっと時間がかかったかもしれない」

「ISDNがもっと長く主流だった?」

「可能性はあるし、ひょっとしたら世界の流れから取り残されていたかもしれないな…。」

杏果はゆっくり振り返る。

「歴史って偶然ですね」

「偶然の積み重ねだ。ただし、準備がある場所にしか偶然は降りない」

「準備……」

「残してきたものだ」

銅線。

誰も注目しなくなりつつあった、古いインフラ。

それが未来の入口になった。

待合室からもどった杏果は、再び記事を開いた。

《長野県が高速インターネット発祥の地》

その見出しの裏に、山間の支局、古い銅線、慎重な制度、反骨のベンチャー、干渉問題、周波数帯の攻防――無数の要素が絡み合っていることを、今は知っている。

「単純じゃないなあ」

背後から声がする。

戸隠だった。

「理解できたか?」

「はい。でも“発祥”って言葉は少し乱暴ですね」

戸隠は微笑む。

「物語には、象徴が必要だからな」

杏果はもう一度モニターを見る。

象徴の裏側。

山の静かな空気の中で、見えない周波数が交錯したあの日。

もしあの実験がなければ。

もし干渉問題が解決しなければ。

もし都市側に挑戦者がいなければ。

今、当たり前のように動画を再生するこの回線は、もっと違う形になっていたかもしれない。

銅線から光ファイバーの時代になった。

だが歴史の始点は、必ずしも光の場所ではない。

時にそれは、山の有線放送農協の片隅で、ひっそりと点灯したリンクランプの緑色なのだ。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ