有閑閑話『島見の「長野が発祥?」な昼休み』
昼休みの静かな空間に、キーボードを叩く軽快な音が響いていた。
「え?」
島見杏果は思わず声を漏らした。
モニターに表示された記事の見出し。
《長野県が高速インターネット発祥の地》
「長野県……?」
その単語に違和感を覚え、杏果は椅子を回転させた。
「戸隠さん、ちょっといいですか?」
窓際で古い報告書を読んでいた戸隠は、眼鏡の奥からゆっくり視線を上げた。
「どうした?」
「これ、見てください。長野県が高速インターネットの発祥って書いてあるんですけど……東京とかじゃなくて?」
戸隠は記事を一瞥し、ふっと小さく笑った。
「それは松本主任電波監視官が詳しい。その頃彼が事務をしていたはずだ…」
そう言うと、戸隠は何事もなかったようにページをめくる。
杏果は少しだけ口を尖らせた。
「……松本主任か」
まるで厄介な話題を投げ渡されたような気分だったが、好奇心には勝てない。
杏果は1階の待合室へ向かった。
彼は昼休みに自販機のドリップコーヒーを待合室のソファに座り、飲んでいることが多かったからだ。
「主任、質問です」
「おっ。珍しいな。どうした」
「長野県が高速インターネット発祥の地って、本当なんですか?」
松本はコーヒーを一旦飲むのを止め、ゆっくりと椅子にもたれた。
「どこまでの記事を読んだ?」
「ADSLの実験が伊那市で成功したってところまでです」
松本は一瞬だけ目を細めた。
「……なるほど。そこから話すか」
「まず前提だ」
松本はゆっくり話だした。
「1990年代半ば、日本の“本命”はISDNだった」
「デジタル回線ですよね?」
「ああ。当時の通信行政は、音声とデータを統合するISDNを家庭用通信の本命と位置づけていた。当時は動画はほとんどなく、テキストと低画質な画像…そして、短い音声が主流だったから、128kbps程度で十分だと思われていたからね。さて…全国の電話網は、公社時代から整備された銅線網を基盤に進化してきた。そこにデジタル化を重ねるのが王道だった」
「だから高速インターネットも、その延長線上で考えられてた?」
「その通りだ」
松本は続ける。
「そこへ現れたのがADSLだ」
杏果は頷く。
「同じ銅線を使うけど、高い周波数を重ねて通信する技術」
「よく勉強しているな」
「少しだけ」
松本は小さく笑った。
「だが問題があった。ADSLはISDNと同じケーブル束の中にあると、干渉する可能性があった」
「ノイズ問題……」
「そうだ。理論上、ISDNの品質に影響を与える恐れがある。ISDN推進側から見れば“リスク”だ」
「だからNTTは慎重だった?」
「推している方式に悪影響を及ぼすかもしれない技術を、すぐに歓迎はできない」
室内が静かになる。
「じゃあ、どうして長野なんです?」
松本は壁の地図を指した。
「伊那市」
「山ですよね」
「山だ。だがそこには特殊な事情があった」
1956年から続く、有線放送電話網。
農業協同組合が独自に整備した、地域完結型の銅線ネットワーク。
農家同士の連絡、営農情報、地域放送。
それは全国電話網とは別に存在していた。
「伊那市…いや長野県内の各所には、その網が丸ごと残っていた…というか、今も僅かだが残っている」
「全国網とは切り離されてる……」
「だから干渉問題を気にせず実験ができた」
杏果の目がわずかに大きくなる。
「1997年9月。伊那市有線放送農業協同組合の本局と八つの支局でADSL実験が始まった」
「そんな昔に」
「実験では1.5Mbps程度と今の光ファイバーやLTEから比べたら低速なのだが、それでも参加した技術者は驚いた。“まるでLANのようだ”と」
当時の常識はダイヤルアップ。接続のたびに音が鳴り、速度は遅く、電話は使えない。
それが常時接続、高速通信。
「革命だった」
杏果は息を呑む。
「でも、それだけで全国には広がらないですよね」
「その通りだ」
松本は次の資料を取り出す。
「ここで都市側の動きが出てくる」
東京めたりっく通信。
既存の大手が慎重な中、実験に参加しADSLを商用化しようとしたベンチャー。
「彼らは銅線を借り、ADSLサービスを始めた」
「ISDNとぶつかるのに?」
「だから論争になった。干渉、設備開放、制度設計」
杏果は静かに言う。
「技術の戦いじゃなくて、利害の戦い」
「両方だ」
松本は机に指を置く。
「利用者は速くて安い方を選ぶ。市場は正直だ」
1999年。
NTTもADSL参入。そして、東京めたりっく通信は孫正義率いるソフトバンクに買収され、Yahoo!BBとして参入し競争は加速。
料金は下がり、速度は上がる。
日本は一気にブロードバンド普及国へと変わっていった。
「だから“発祥”というのは少し誇張だ」
松本は言う。
「だが、技術実証の原点が伊那にあったのは事実だ」
杏果は窓の外を見る。
「山の中から始まった」
「守られてきたローカルインフラが、思わぬ形で未来を支えた」
沈黙。
やがて杏果がぽつりと呟く。
「もし伊那に有線放送電話が残ってなかったら?」
「もっと時間がかかったかもしれない」
「ISDNがもっと長く主流だった?」
「可能性はあるし、ひょっとしたら世界の流れから取り残されていたかもしれないな…。」
杏果はゆっくり振り返る。
「歴史って偶然ですね」
「偶然の積み重ねだ。ただし、準備がある場所にしか偶然は降りない」
「準備……」
「残してきたものだ」
銅線。
誰も注目しなくなりつつあった、古いインフラ。
それが未来の入口になった。
待合室からもどった杏果は、再び記事を開いた。
《長野県が高速インターネット発祥の地》
その見出しの裏に、山間の支局、古い銅線、慎重な制度、反骨のベンチャー、干渉問題、周波数帯の攻防――無数の要素が絡み合っていることを、今は知っている。
「単純じゃないなあ」
背後から声がする。
戸隠だった。
「理解できたか?」
「はい。でも“発祥”って言葉は少し乱暴ですね」
戸隠は微笑む。
「物語には、象徴が必要だからな」
杏果はもう一度モニターを見る。
象徴の裏側。
山の静かな空気の中で、見えない周波数が交錯したあの日。
もしあの実験がなければ。
もし干渉問題が解決しなければ。
もし都市側に挑戦者がいなければ。
今、当たり前のように動画を再生するこの回線は、もっと違う形になっていたかもしれない。
銅線から光ファイバーの時代になった。
だが歴史の始点は、必ずしも光の場所ではない。
時にそれは、山の有線放送農協の片隅で、ひっそりと点灯したリンクランプの緑色なのだ。




