山中に広がる波紋 第8話
山を下りきる頃には、
エクストレインのエンジン音が、やけに大きく聞こえた。
人の世界に戻ってきた証拠だ。
木曽警察署に立ち寄り、簡単な事情説明を終える。 形式的なやり取りの合間にも、
警察官たちの視線はどこか重かった。
――見つかった、という事実。 ――見つかるまで、誰も気づけなかった、という事実。
「後の処理はこちらで引き継ぎます」 署の担当者が言う。 「電波の件については……報告書、お願いします」
「分かりました」 戸隠は、短く頷いた。
庁舎を出ると、空はもう完全に昼だった。 昨日までの山の薄暗さが、嘘のように感じられる。
「……終わりましたね」 島見が、ぽつりと言う。
「終わった、でいいのか?」 名立が、エンジンをかけながら返す。
その問いに、戸隠はすぐには答えなかった。 シートに深く座り直し、窓の外を一度だけ見てから、言う。
「電波案件としては、終わりだ」 「人の話としては――」 一拍。 「区切りがついただけだ」
島見は、何も言わなかった。 それが一番正しい返事だと、分かっていたからだ。
帰路。 山を離れるにつれて、方位測定器のLEDは完全に沈黙した。
121.5MHz。 あれほど騒がしかった非常周波数は、 何事もなかったかのように、空に溶けている。
「……結局」 名立が言う。 「あのノイズがなかったら、見つからなかったんですよね」
「ああ」 戸隠は即答した。 「だから――」 「電波は、嘘をつかない」
島見が、少し驚いた顔をする。
「珍しいですね。断言するなんて」
「嘘はつかない」 戸隠は、淡々と続ける。 「ただし、全部は喋らん」
エクストレインは、国道に合流した。 看板、信号、人の気配。
いつもの世界だ。
「報告書、どう書きます?」 島見が聞く。
「事実だけ書く」 「原因は?」 「不明でいい」 戸隠は、湯のみの代わりにペットボトルを手に取る。 「分からないものを、分かったふりするのが一番危ない」
名立が、バックミラー越しに笑った。
「相変わらずですね、戸隠さん」
「それが、俺の仕事だ」
エクストレインは、ゆっくりと走り去っていく。
空は静かだ。 121.5MHzも、沈黙している。
だが――
その沈黙の下には、
確かに“声”があった。
それを拾ったのは、
空を飛ぶ者たちであり、
そして――
地上で耳を澄ます、昼行灯だった。
長野市朝日町。
長野総合通信局。
午後三時過ぎ。
電波監視課の執務室には、いつもの空気が戻っていた。
プリンターが唸り、
キーボードの音が散発的に響き、
誰かの湯のみが、机の上で小さく鳴る。
戸隠弘明は、自席で報告書を打っていた。
「件名……“航空非常周波数121.5MHzに係る混信事案について”」
淡々と、事実だけを書いていく。
発生日時。
航空機からの通報。
木曽町上空。
地上探査。
開田高原山中。
廃屋。
遺体発見。
発信源――特定に至らず。
「……っと」
島見杏果が、後ろから覗き込む。
「原因、不明で通すんですね」
「“不明”は、立派な結論だ」 戸隠は画面から目を離さずに言う。 「分からない、って分かったんだからな」
名立達彦が、向かいの席から苦笑する。
「報告書としては、地味ですね」
「現実は、だいたい地味だ」
印刷が終わる。
戸隠は紙を揃え、ホチキスを留めた。
「課長室、行ってきます」
新津課長は、局長室の手前の小さな部屋にいた。 いつも通り、書類の山と、冷めかけたコーヒー。
「ご苦労」 新津は、報告書を受け取る。
ぱらり。
ぱらり。
数ページ、目を通し、最後まで読んでから―― ふっと息をついた。
「……つまり」 「はい」 戸隠は即答する。
「“ノイズはあったが、犯人はいない”」 「正確には、“もういない”です」
「便利な言葉だな」 新津は、報告書を机に置く。 「上は、嫌うぞ」
「でしょうね」
しばし、沈黙。
新津は、椅子にもたれ、天井を見る。
「まただ」 「……はい?」
「こういう案件があるたびにだ」 新津は、ぼそっと言う。 「お歴々からは、また――」
そこで一拍、間を置いてから。
「原因の究明と、バカの一つ覚えのように出るのさ」
戸隠は、肩をすくめた。
「電波に、説教しても止まりませんが」
「分かってる」 新津は、口の端を上げる。 「だがな、言うんだ。必ず」 「“どこかに落ち度があったはずだ”ってな」
新津は、報告書をトントンと叩いた。
「この件は、これで終わりだ」 「はい」 「よくやった」 一瞬だけ、課長らしい声になる。 「――人が見つかった。それで十分だ」
戸隠は、軽く会釈した。
執務室に戻ると、島見が顔を上げる。
「どうでした?」
「いつも通りだ」 戸隠は、湯のみを手に取る。 「何もなかったことにして、終わり」
「……でも」 島見は、少し考えてから言う。 「何もなかった、わけじゃないですよね」
「ああ」 戸隠は、窓の外を見る。 「だから、俺たちがいる」
そのとき、どこからか航空無線の試験音が聞こえた。
――ピッ。
戸隠は、ほんの一瞬だけ耳を澄まし、 そして、何事もなかったように書類に戻る。
121.5MHzは、今日も静かだ。
だが、
静かであることこそが――
電波監視官の、仕事の成果だった。




