山中に広がる波紋 第6話
宿に着いたのは、すっかり日が落ちてからだった。
木曽福島の山あいにある、年季の入った温泉宿。
「……思ってたより、立派ですね」
島見杏果が、玄関を見上げて素直に感想を漏らす。
「“キャンセルが出た”って話、嘘じゃなさそうだな」 名立達彦も、靴を脱ぎながら周囲を見回す。
戸隠弘明は、何も言わず、帳場の奥に掛けられた古い登山写真に目を留めていた。
山、雪、無線機らしき箱。
「いらっしゃいませ」
現れたのは、穏やかな物腰の女将だった。
「今日は、お三方だけでございます」
「……貸し切りですか?」 島見が思わず聞く。
「ええ。
本来はインバウンドのお客様が二十名ほど入る予定だったのですが」
女将は申し訳なさそうに微笑んだ。
「藪原駅近くでの事故で、皆さま足止めになりまして」
名立と島見が、顔を見合わせる。
「キャンセル、ですか」
「はい。ただ――」
女将は声を落とし、少しだけ本音を覗かせた。
「宿泊費は、事前に前払いで頂いておりまして。
キャンセルフィーとして、そのまま受け取らせていただきました」
「それは……」
「でもですね」
女将は、困ったように笑った。
「日持ちしない食材が、あまりにも多くて。
捨てるのは、どうにも忍びなく……」
その言葉の意味は、風呂上がりにすぐ分かった。
「……これは」
島見が、目を丸くする。
個室の座敷に並べられた膳。
川魚の塩焼き、信州牛の陶板焼き、山菜の天ぷら、馬刺し、蕎麦、季節の小鉢。
「完全に“いい情報”の方ですね」 名立が、ぽつりと言う。
「係長、これは……」 島見が後席――ではなく、上座の戸隠を見る。
「ああ」 戸隠は、湯上がりのビールを一口飲んでから言った。
「悪い情報の帳消しだな」
三人は、しばし無言で箸を動かした。
仕事中とは思えないほど、食事は静かに、そしてうまい。
「……さて」
名立が箸を置く。
「明日の方針、どうします?」
「基本は変わらん」 戸隠が言う。
「夜明けと同時に動く。
方位を再確認して、徒歩併用も視野だ」
「クマ、出ますよね」 島見が言う。
「ああ。今年は特にな」
「実はですね」
島見が、少し声を弾ませる。
「さっき、売店で――」
テーブルの上に、三つの小さな箱が置かれる。
「クマ鈴、売ってました」
「……準備がいいな」 名立が苦笑する。
「鳴らさないよりは、鳴らした方がいい。あとで金をやるから金額を教えてくれ」 戸隠は、ひとつ手に取った。
ガロン、と重たくも高い金属音。
「うるさくなりそうですね」 「クマより先に、こっちが居場所を知らせる」 「それでいい」
戸隠は、そう言い切った。
「電波も、人も、
“いる”ってことが分からなきゃ、始まらん」
島見は、頷いてからスマートフォンを手に取る。
「念のため、木曽警察署に連絡しておきます。
明日、山に入る可能性があるって」
「頼む」 戸隠は短く答えた。
個室の外では、温泉宿特有の静けさが満ちている。
遠くで、風が木々を揺らす音。
121.5MHzは、
今もどこかで、細く、だが確実に――鳴っている。
それを追う準備は、整った。




