山中に広がる波紋 第5話
権兵衛峠トンネルを抜けた瞬間、視界がふっと開けた。
長い人工の闇のあとに現れる、木曽の山肌と薄い冬空。
「……抜けましたね」
助手席の島見杏果が、ナビ画面から顔を上げる。
「ここから木曽警察署までは、だいたい四十分です」
「四十分か」
ハンドルを握る名立達彦が、前方を見据えたまま鼻を鳴らす。
「トンネル抜けたらすぐ現場、ってわけにはいかないか」
後席で戸隠弘明は、シートに深く身を沈めたまま、窓の外を眺めていた。
いかにも“乗ってるだけ”という姿勢だが、目だけはきちんと起きている。
「四十分あれば……仮説は三つは潰せるな」
ぼそり、と戸隠が言う。
「仮説?」
島見が振り返る。
「121.5だ。
まず一つ目。――遭難用発信機の誤作動」
「ああ、古いやつですね」
名立が頷く。
「ELTが湿気か何かで鳴りっぱなしになるやつ」
「木曽の山なら、十分あり得る」
戸隠は続ける。
「二つ目。――不法無線」
「またですか……」
島見が少し嫌そうな声を出す。
「非常周波数に乗せる意味、ないですよね?」
「意味がないから、やる奴がいる」
戸隠は淡々と言う。
「目立つ。混信する。
“俺はここにいる”って主張には、ちょうどいい」
「迷惑な自己主張だな」
名立が苦笑する。
しばし、ワイパーの音だけが車内に流れる。
「……三つ目は?」
島見が聞いた。
「航空機側の問題だ」
戸隠は即答した。
「機内の配線ノイズ、ヘッドセットの不具合。
たまたま121.5で顕在化しただけ、って可能性」
「でも、それなら他便も拾いそうじゃないですか?」
「そう。だから優先度は低い」
戸隠は肩をすくめる。
「ただし――」
「ただし?」
「“単独”って報告が、一番やっかいなんだ」
名立がミラー越しに後席を見る。
「どういう意味です?」
「原因が一点に絞れない。
山か、人か、機械か。
どれも当たりで、どれも外れかもしれない」
戸隠は一拍置いて、付け足した。
「つまり――現地に行くしかない」
「結局それですね」
島見が苦笑する。
「ああ…そして今回は、温泉宿付きだ」
その一言で、車内の空気が一瞬だけ和らいだ。
「課長、いい情報の方だけ覚えてません?」
名立が言う。
「悪い情報は道が塞がってることだろ」
戸隠は即座に返す。
「覚えてるさ。
だからこっちに来てる」
国道361号は、静かに山の奥へと伸びていく。
昼下がりの木曽路。
まだ、事件の正体は姿を見せない。
だが確実に――
電波は、この先のどこかで、待っている。
しばらく進み、エクストレインのダッシュボード中央。
方位測定器表示部LED72個が、わずかに発射方向を決め倦ねるかのように円を描いていた。
「木曽警察署のあたりです」
島見が、地図を確認する。
その瞬間――
LEDが、ほんの数度、右じゃね?と表示した。
「……右?」
島見が息を詰める。
「開田高原方向だな」
後席の戸隠は、即座に答えた。
微弱だが、確かだ。
121.5MHz帯の“匂い”が、そこにある。
「強くはないですね」
「だから厄介だ」
戸隠は、窓の外に目を向ける。
発信源へ向かう道は、徐々に人の気配を失っていく。
集落。
畑。
やがて、ただの山道。
「……誘導されてる感じがします」
島見が言った。
「向こうから、逃げてるわけでもない」
「むしろ、“知られない場所”にある」
名立が、アクセルを緩める。
時刻は――16時30分。
冬の山は、ここから一気に表情を変える。
「日没まで、そう時間はありません」
島見の声に、焦りが混じる。
「行けるところまで行きましょう」
「源が近いかもしれない」
名立も、同じ考えだった。
だが――
「止めだ」
後席から、低い声が落ちた。
戸隠だった。
「……え?」
島見が振り返る。
「ここから先は、夜になると状況が一気に悪くなる」
「山、圏外、単独行動」
「事故が起きたら、誰も助けに来ない。それに今年はこの時期でもクマが出ている。夜に野生動物のテリトリーに入るのは得策ではない」
名立が、唇を噛む。
「でも……」
「分かってる」
戸隠は、静かに言った。
「だがな――」
一拍。
「電波は、逃げない」
「逃げるのは、人だ」
方位測定器の針は、まだ微かに山中を指している。
だが、その動きは、焦りを誘うほど明確ではない。
「今日は、ここまでだ」
戸隠は、そう結論づけた。
「宿、取ってあるんですよね」
島見が、半ば確認するように言う。
「ああ」
「……温泉、入れます?」
「入らなきゃ、明日がもたん」
名立が、苦笑する。
「了解です。引き返します」
ハンドルが切られ、エクストレインは来た道を戻り始めた。
バックミラーの向こう。
開田高原へ続く道は、すでに薄闇に沈みかけている。
121.5MHzは、
その奥で――
まだ、静かに息をしていた。




