昼行灯電波監視官とオリンピック 第5話 昔話が過ぎた…
会議室の時計が、静かに16時を告げた。
秒針の音だけが、妙に大きく響いている。
島見杏果は、ペンを置いた。メモは、結局ほとんど取っていない。取る必要がないと、途中から気づいていたからだ。戸隠弘明の話は、記録ではなく“体温”で伝わってくる。
「……ずいぶん、いろんなことがあったんですね」
素直な感想だった。
長野オリンピック。
警備、放送、そして名も残らない無数の調整と後始末。
世界が熱狂する裏側で、誰にも気づかれないように電波を整え続けた人間が、確かにそこにいた。
戸隠は、湯のみを持ち上げたまま、少しだけ考える素振りを見せた。
「まあな……」
それだけ言って、一口すすり、ふうと息を吐く。
「昔話が過ぎたな……」
ぽつりと、独り言のように言った。
島見は、あ、と思った。
この人なりの“区切り”だ。
「でも、面白かったです」
「面白がるもんじゃない」
そう言いながらも、戸隠の声はどこか柔らかい。
「五輪も、電波も……終わってみれば、何も起きなかったことだけが成果だ」
島見は、少し間を置いてから口を開いた。
「……戸隠さん」
「ん?」
「そのあと、本省に戻られたんですよね」
戸隠の視線が、一瞬だけ島見から外れた。
「戻ったな。平成10年の4月だ」
「それで……」
島見は言葉を選びながら続ける。
「どうして、また長野総合通信局に来ることになったんですか?」
会議室の空気が、わずかに張った。
質問の意図は、互いに分かっている。
――左遷。
霞が関から地方局へ。
官僚の世界では、決して珍しくないが、決して軽くもない移動。
戸隠は、しばらく黙っていた。
沈黙は、長かったが、不自然ではなかった。
やがて、肩をすくめる。
「さぁな」
軽い調子だった。
「昼行灯が、本省にいらなかったんだろ?」
島見は思わず瞬きをした。
「それだけ、ですか」
「それだけだ」
戸隠は、にやりともせず、笑いもしない。
「霞が関はな、よく燃える行灯がお好みだ。明るくて、派手で、存在感があるやつ」
湯のみを机に置く音が、静かに響く。
「俺みたいなのは、邪魔だったんだろうさ」
島見は、その言葉をそのまま受け取らなかった。
この男が“邪魔になるだけ”の存在だったとは、どうしても思えない。
――何かがあった。
だが、それは語られない。
そのとき、戸隠の内側で、別の記憶がふと浮かび上がった。
黒電話。
少し古い呼び出し音。
官庁の廊下に似合わない、どこか個人的な響き。
――「戸隠さん、奈良井です」
落ち着いた声。
昔、同じフロアで夜を明かしたことのある男。
――「総理が……高井先生が、よろしくと」
戸隠は、そのときも、今と同じ調子で答えた。
――「ああ。元気そうで何よりだ。俺にも、よろしく言っとけ」
それだけだ。
詳しい話はしない。
する必要がなかった。
回想は、湯気のように消えた。
「……同期がな」
戸隠は、島見に向けて、ぽつりと言った。
「いろんなところに散らばってる。霞が関にも、永田町にも」
「え……」
島見は、少し身を乗り出す。
「奈良井さん、ですか?」
戸隠は、ほんの一瞬だけ、遠い目をした。
「昔の話だ」
それ以上は、語られなかった。
会議室の外から、人の気配が近づいてくる。
次の打ち合わせの準備だろう。
戸隠は立ち上がり、背広の裾を軽く払った。
「さて……仕事に戻るか」
「はい」
島見も立ち上がる。
「今日は、ありがとうございました」
戸隠はドアに向かいかけて、ふと思い出したように振り返った。
「島見」
「はい?」
「電波はな」
少しだけ、声が低くなる。
「いつだって、そこにある。誰かが見ていようが、いまいが関係なく、息をしてる」
島見は、黙って聞いていた。
「だから、俺たちの仕事は……」
戸隠は、最後まで言わなかった。
言う必要がないと、思ったのだろう。
そのまま、会議室を出ていく。
島見は、しばらくその背中を見送ってから、窓の外に目をやった。
冬の長野の空は、どこまでも静かだった。
――昼行灯。
確かに、この男はそう呼ばれる存在かもしれない。
だが、灯りは消えているのではない。
いつも、静かに灯る。
それを知っている者は、少ない。
そして――少ないままでいいのだ。
電波が、今日も何事もなく流れている限り。




