昼行灯電波監視官とオリンピック 第4話 善意の電波
「善意、ですか」
島見杏果は、その言葉を一度、口の中で転がした。
「悪意より、やっかいそうですね」
「その通りだ」
戸隠弘明は、珍しく即答した。
「悪意があれば止める理由がはっきりする。だが善意は、相手も自分も否定しづらい」
平成十年二月。競技が佳境に入るにつれ、会場周辺の空気は少しずつ緩み始めていた。大きなトラブルは起きていない。放送も警備も、表向きは順調だ。
「だからこそ、出てくる」
戸隠は、そう前置きした。
「ボランティアだ」
長野五輪では、数万人規模のボランティアが動いていた。誘導、通訳、雑務。彼らの多くは無線機を持たないが、中には“便利だから”と私物の無線機を持ち込む者もいた。
「善意でな」
島見は、眉をひそめた。
「違法になるんですか?」
「場合による。だが、問題は合法かどうかだけじゃない」
ある日、野沢温泉会場で、競技運営の連絡が一時的に不安定になる事象が起きた。完全に途切れるわけではない。だが、呼び出しに対する応答が遅れる。
「またノイズか、と思った」
戸隠は当時を思い出す。
「だが、どうも様子が違う」
DEURASで測ると、断続的に見慣れない信号が現れては消える。出力は弱い。悪質さは感じられない。
「追ったら、会場の裏手に行き着いた」
そこにいたのは、若いボランティアだった。
「家族連絡用に、オーストラリアUHF-CBを持ってきてた」
島見は、小さく息をのむ。
「悪気は……」
「ない。むしろ真逆だ」
雪で携帯電話の電波が不安定になる。何かあった時のために、という純粋な判断だった。
「どうしたんです?」
「説明した」
戸隠は、淡々と続ける。
「なぜダメなのか。今、何が起きているのか。どうすればいいのか」
若者は何度も頭を下げ、無線機を差し出した。
「怒らなかったんですか?」
「怒る理由がない」
戸隠は、少しだけ声を柔らげた。
「知らなかっただけだ。知れば、やめる」
その無線機を止めると、競技運営の連絡は元に戻った。
「それで終わり、ですか」
「終わりだ」
だが、その件は戸隠の中に、妙に引っかかるものを残した。
「五輪ってのはな……善意が集まる場所なんだ」
島見は、静かに聞いている。
「だが、電波は善悪を区別しない。出れば、影響が出る」
その夜、宿舎に戻った戸隠は、報告書を書きながらふと思った。
――これを、誰が悪いと言えるんだろうな。
窓の外では、遠くで花火の音がしていた。祝祭の音だ。
「次は?」
島見が、また同じ問いを投げる。
「次は……終わりだ」
戸隠は、静かに言った。
「五輪が終わる時、一番怖い」
島見の視線が、わずかに鋭くなる。
「気が抜ける、からですか?」
「そうだ」
戸隠は、はっきりと頷いた。
「電波も、人も、最後に一番気を抜く」
それが、最後の仕事につながっていく。




